先日紹介したブログ記事「頑固親爺の徒然手記(難問解決への道標) いじめ問題の論点は? 」の本文は現在参照できないようだ。リンク先のページは投稿、コメントともに空欄になっている。


インターネットというのは公開された場である。あくまで私見とさせていただくが、そこに文章を書く以上、それを削除しないというのは最低限のモラルであり、マナーであると思う。公の場に文章を公開するときには、多種多様な意見を受け止める覚悟を持つべきである。削除する位なら、自分だけが読めるノートに日記を書いておけばよいのだ。


もちろん、公の場という性質があるために逆に削除しなければならないようなケースもあるだろう。それに、投稿を削除するのは管理者の自由であり権利である、これもインターネットの常識の一つだ。しかし、それは削除が無責任な行為であることを打ち消すものではない。特に、大勢が見たことが分かっていて削除するのは、大勢に迷惑をかけることを自覚した上で行うべきであると思う。


なお、内容に問題がある場合の対応としては、該当ページを削除しないで、内容を他の文書に差し替えるのが望ましい。リンク先のページが消滅するのが最悪で、後から見ようとした人は何のことか分からないし、オリジナル不在のまま複製されたページが乱立して不必要な噂が拡散する原因にもなる。また、ページを更新すれば、Google のような検索サイトに対するキャッシュ対策にもなる。


今回のページは、リンク先は存在するが文章が見えないという状態だから、前述の望ましい状態になっている。ブログが炎上するとページごと削除するケースが多く、このように適切に処理されているというのは珍しいと思う。


さて、今回はその記事の後に書かれたブログ記事「頑固親爺の徒然手記(難問解決への道標) 報道の精神はどこにある 」に対する感想である。当のブログの筆者は「頑固親爺」と自称なさっているが、そうお呼びするのはいくら何でも失礼ではないかと考え、今回は「G氏」と書かせていただく。


まず反対意見を述べたい箇所がある。

遅ればせながら教育関係者が対策チームを編成して対策を協議し、警察も異例の強制捜査に着手したのだから、静観するのが常識だろう。

個人的には、とんでもない話だと思う。そんな常識は存在しないだろう。


先の投稿でも指摘させていただいた通り、今回の問題の本質は、教育関係者側が事実を隠蔽しようとした点にある。事実隠蔽を前提としている当事者が対策チームを編成したら、それはより巧妙に隠蔽するための集団となる危険がある。いや、むしろ必然的にそうなると考えるべきだ。


また、今回の自殺問題は、第三者が静観していたら「いじめと自殺の因果関係があるとはいえない」という結論で片付いていた可能性が極めて高い。


実際、警察は最初、被害者の親からの告発状を受理しなかった。態度を覆して警察が強制捜査に着手した原因の一つは明らかに世論だ。従って、ここで静観するのはむしろ非常識だ。教育関係者も警察も、第三者が騒ぎ立てないと動かなかったという事実を重視し、最後まで監視の目を光らせるべきではないかと思う。

毎日、重箱の隅をつつくような記事を掲載しないで、大局的な立場でいじめ問題に取り組むのが、マスコミの使命であると考える。

それも異論を述べたい。マスコミの最大の使命は事実の報道ではないか。


いじめ問題に取り組むべきなのは家庭であり、教育の現場であり、あるいは政治の仕事である。


マスコミが率先してすべき仕事ではない。いじめ問題、ましてやそれに伴う自殺のような問題は、未解決の部分が多い。それを解決するために必要なのは数多くの情報である。少しでも真実に近づくためには、重箱の隅にあるような事実を積み上げる必要があると思う。


(つづく)