昨日、カウンセリングのセッションが予定されていた。

これは、離婚後のドメスティックバイオレンスの中で私が必死に助けを求め、ようやくつながった支援団体から、無料で提供された大切なセッションだった。


私はその日、その時間に向けて心を整えた。

感情を落ち着け、必要な時間を確保し、他の予定を調整して、準備した。

でも当日、何の連絡もなく、セッションは行われなかった。


心に湧き上がったのは怒りだった。

「私はちゃんと準備したのに、なんで?」

「なんで私の“この想い”は、また無視されるの?」


でも、それは単なる苛立ちなんかじゃない。

もっと深くて、もっと古くて、もっと痛い怒りだった。


私は、自分の存在が軽んじられたことに怒っていた。


その感覚は、私の一番古い記憶とつながっていた。

——母との関係だ。


私の母は、私のことを優先しなかった。

忙しかったから、ではない。

彼女の“優先順位”に私は含まれていなかった。

彼女はいつも、自分のことでいっぱいだった。

それは仕事ではなく、パチンコなどのギャンブル。

彼女が何もしていない時でさえ、私と一緒にいるその時間にも、心はどこか別の場所にあった。


私は、彼女の注意を引きたくて必死だった。

気を引こうとして、子どもなりに気を遣い、マッサージをしてあげたり、機嫌を取ったりした。

「見てほしい」「愛してほしい」

その一心だった。


でも今、こうして振り返ると、

私の中にある言葉は、**「ふざけんな」**だった。


私は子どもだった。

愛されるべき子どもだった。

なのに、どうして私が“気を引くために努力しなければならなかった”のか。


だから私は、今また同じように軽んじられる出来事があると、怒りが爆発する。

その怒りの奥にあるのは、もう何年も、何十年も口に出せなかった——願いだった。


「ちゃんと見てほしかった」

「愛してるって感じたかった」

「私は大事にされる存在でいたかった」


それは母に向けての、私の小さな、小さな願いだった。


怒っている私は、心を守ろうとしている。

怒りの中には、決して無意味ではない、本当の「私」がいる。


私はこれから、その怒りを悪者にしない。

そしてその奥にずっと隠れていた願いを、自分自身で大切にしていく。


「私は愛されていい存在だ」

「私は誰かの優先順位にいていい存在だ」


今、それをようやく、自分で認めはじめている。


ソフィア