私は長い間、誰かの期待に応えながら生きてきた。

母親の顔色、職場の空気、パートナーの欲求、家族の常識——

いつも「自分」より「他人」が先だった。


でも、ある日、ふっと気づいたんです。


「私の人生、全然楽しくない」って。

「私の人生、いつ始まるんだろう?」って。



愛されたいから、「いい人」になった


子どもの頃の私は、いつも“いい子”だった。

わがままを言わず、感情を抑えて、空気を読み、役に立とうとした。

そうしないと、愛されない気がしていた。


それは、「本当の自分」ではなく、

“役割”として愛されることに慣れすぎてしまった証だった。


そして私は、こう信じてた。

「耐えて、苦労して、我慢していれば、いつか愛される」

「母親から愛される」って。

「この、どうしようもないチンピラみたいな母が、“いいお母さん”になってくれる」って。


そうやって祈るように、自分を消して生きていた。

だって、そう信じないと、心が壊れてしまいそうだったから。

“母に愛されていない”なんて、子どもの私には、あまりにも過酷すぎたから。


そのまま私は大人になり、

気づけば、「誰かのために自分を犠牲にすること」が、当たり前になっていた。



翻弄される人生は、感情の軸が“外”にある人生


他人が怒ると、私は自分が悪い気がした。

他人が悲しむと、自分が責められてるような気がした。

他人が喜ぶと、やっと「価値のある自分」になれたような気がした。


私の人生は、ずっと他人の感情の波で揺れていた。

まるで、自分のボートのオールを、他人に握らせているみたいに。


でもそれって、他人の命を生きてるのと同じなんだよね。



自分軸に戻るのは、最初は“怖い”


自分軸に戻ろうとしたとき、

最初はほんとうに怖かった。


「わがままなんじゃないか」

「嫌われるんじゃないか」

「見捨てられるんじゃないか」


そんな不安と罪悪感が、何度も波のように押し寄せてきた。


そして一度、**「自分さえ良ければいい」**って振り切ったこともあった。

他人なんてどうでもいい、私は私を守る――

そうやって心をシャットダウンして、

“間違った自分軸”に一時的に迷い込んだ時期も、確かにあった。


それはそれで、当時の私なりの“精一杯”だったし、

一種の防衛でもあったと思う。


でも私はそこを超えた。


今では、こう思える。


「あなたはそう思うんだね。それを尊重するよ」

「でも私はこう思う。私にも立つ場所がある」


あなたも立ってる。私も立ってる。


どちらも否定せずに、共に在れる。


それが私の、本当の“自分軸”だった。



そして今、私はこう言える


今、私は元夫との間で、親権をめぐる法的な闘いに直面している。

向こうはこう主張してくる。


「お前が悪い母親だから、娘が不安定になっている」
「お前こそが諸悪の根源だ」


前の私なら、そう言われたら、心にグサグサと刺さって、

「ああ、私はやっぱり母親失格なのかもしれない……」って思っていた。


子育てに自信が持てなくて、

「私なんかが関わらない方がいいのかも」と思って、

少しずつフェードアウトしようとしていた時期もあった。


だから、彼の彼女が母親ヅラして学校に関わってきたときも、

なにも言えずに受け入れてしまっていた。

「私は母親なんです」って、胸を張って言えなかった。


でも、今は違う。


今の私は、ちゃんとこう言える。


「入ってくんな。あなたは母親じゃない」
「私は、私の子どもの母親です」
「あなたはそう思うんだね。でも、私はそう思わない」
「私は、素晴らしい母親です」


そう、私は、

この命をかけて、私の子どもを愛している。

その事実だけが、私の軸なんです。


私はもう、翻弄されない。


他人の怒りに怯える人生も、

他人の評価で揺れる人生も、

もう終わりにする。


私は私の人生を生きる。

私は、私の子どもを育てる。

私は、私として愛する。


ここからが、私の人生の本当のはじまり。


ソフィア