自由意志について考えながら、心の哲学を勉強してみましたが、「心の哲学」と言いながら、そもそも心を哲学していないように思われ、失望させる内容ばかりでした。
最近「『心の哲学』批判序説」(佐藤 義之著 講談社選書メチエ)を読んで、大いに共感するところがありました。意識を進化論的な観点から考察し、意識は実践的なものとして捉えておられることは素晴らしいと思いました。現象学やメルロ=ポンティに関しては、後日論評したいと思います(2021年10月28日メルロ=ポンティから学ぶべきことを参照してください)

 「『心の哲学』批判序説」には、意識の発生の段階については、触れておられなかったように思いますが、私自身は、意識の最初の段階は、快と不快から始まったのではないかと思います。原始的な動物は生きている間に、その動物にとって好適な環境や、不適(危険)な環境に遭遇するでしょう。その時、その動物が好適な環境に接して快を感じれば、そこに留まるように動き、不適な環境に接して不快を感じれば、そこから離れようと動くでしょう。もし、そこで、快と不快が逆転していれば、その動物はすぐに絶滅してしまうでしょう。進化は、神の意志が関与しているわけではありませんので、どのような形で意識が発現するかは偶然であったでしょうが、絶滅しないことにより、結果から見ると目的論的に解釈されるということだと理解しております。

また、生きていくためには、絶えず栄養を外部から摂取しなければなりません。食欲はそのための行動に駆り立てるものです。さらに、繁殖においても、性欲は生殖行動に駆り立てるものです。このように、意識はその萌芽の段階から、その動物を行動へと促すものとして、出現したものであり、意識が肉体に影響し得ないなどと言うことが、いかに馬鹿げたものかは、心の哲学の物理主義論者も少し考えれば分かっても良さそうなものです。「動物の生殖行動は、動物の肉体の物理法則の必然的運動によって進行するものであって、動物の性欲や快感は、そのような肉体の物理的運動にsuperveneしているに過ぎず、性欲は生殖活動には影響し得ない」というような物理主義の主張は、「supervene」という素人に分かり難い言葉を使ってごまかそうとしても、余りにもバカバカし過ぎます。

物理主義は、唯物論と称し、この世界に存在する全てのものは物理的であり、デカルトの二元論でいう精神のような、純粋に非物理的なものは実在しないとしています(物理的一元論)。 また、心的なものは物理的なものに付随する(supervene)ものであり、物理的なもののあり方が確定すると心的なもののあり方も確定し、その逆は成り立たないとしています(付随性の原理)。そして物理的性質が全く同じであれば、心的性質をも完全に同じであると考える。さらに、 いかなる物理的対象も、物理的運動だけに言及することによって適切な因果的説明を与えることができるとしています。

唯物論の立場から考えようとすることは正しいであろうが、心の哲学の論者は、そもそも唯物論とは何かを考えたこともなさそうで、ピントがずれていると思わざるを得ません。唯物論の立場から「純粋に非物理的なものは実在しない」というのは、誤りではないとしても、そこから、「精神は実在しない」、「心的なものが物理的なものに影響することはあり得ない」ということにはならないでしょう。「精神は実在しない」どころか、精神は自分自身にとって、最も確実な存在であるし、「心的なものが物理的なものに影響することはあり得ない」どころか、私たちの日常の生活において、心的なものが物理的なものである身体に影響して動かしていることは実感しており、この実感は、私たちの人生が幻想ではなく現実であることを示しています。

唯物論は、精神の存在を否定するものではなく、精神は物質の機能によって生み出されてきた現象であり、物質が精神よりも根源的な存在であるとする立場であるはずです。そして、精神が物質に根拠を置くものである以上、物質と精神との間において相互に作用反作用し得るものです。アインシュタインの方程式 E=mc2 に示されるように、物質は究極的にエネルギに還元されるものです。精神も物質に基礎を置くエネルギの存在形態であると考えるならば、心的なものが物理的なものに影響しないとする方がむしろ不自然です。

心の哲学における物理主義は、唯物論というより17世紀前半の「機械的唯物論」に近く、デカルトの二元論とあまり異ならないように思われます。物理的に閉じた肉体にsuperveneする精神のシナリオは神によって作られたものとせざるを得ない。

精神が物質を動かすメカニズムが不明であることから、「心的なものが物理的なものに影響することはあり得ない」と結論づけることは短絡的です。むしろ、あたかも自由意志があるかのように、自分の意識がsuperveneすることの方がよほど不思議で、神のみのなし得る奇跡に他ならないでしょうから、心の哲学の物理主義は、唯物論どころか、宗教にまっしぐらに走るしかないでしょう。心の哲学の物理主義はそれがアカデミックな主張なのか、そのばかばかしさには、驚かざるを得ません。

ましてや、我々が現実に、行動しようと思えばいつでもそうする自由があることを無視して、これを錯覚であるかのように主張することは本末転倒でしょう(Libetの実験にしても、それは手を動かす気分の実験であり、自由意志とは関係がないように思われます)。

私は意識が物質を動かすメカニズムとして、量子力学的不確定性に着目しています(ロジャー=ペンローズの量子脳理論と近いものではないかと思います)。John Searlらは、量子力学的不確定性は極めて不安定であり、安定した意思決定を形成し得ないとともに、その量子状態が確定されるのは確率的に決定されるとしても、ランダムであるから、自由意志の根拠にはならないとしております。

しかし、量子力学において量子の状態が不確定であることが、未来が決定されていないことの根拠を与えるのではないかと、私は思っています。また、量子力学的不確定性は極めて不安定であるからこそ、精神という繊細なエネルギでもコントロール可能なメカニズムを成立たせ得るのではないかと思っております。

そのヒントとなる現象として、量子乱数発生器を熱狂するサッカー場の観客の中におくと、通常と異なる挙動が現れると聞きますし、同時多発テロの直後でも、似たような現象が現れたと聞いたことがあります。
http://textview.jp/post/culture/13865 
https://www.isc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/5-6.htm 
https://www.isc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/3-5.htm 

 このような現象は、超常現象としてオカルト的にとらえられていますが、私は、量子脳理論の根拠に関わるものではないかと考えております。実際に影響しているのかどうかが科学的に検証されれば、物理的なエネルギ状態としての精神が、量子力学的な不確定性にどのように影響し得るかのメカニズム解明に大きく前進するのではないかと、私は期待しております。