愛する者がかつて愛した者を赦し受け入れるという事の気持ち悪さと屈辱
相手の事は何でも知りたい―と思うのが当たり前かもしれない
けど、他人との過去を知りたいとは思えない
想いが強い程何でも受け入れられる―それは一理ある
しかし、「誰かとの過去」というのは、その第三者の物でもある
逆に、思いが強い程受け入れ難い事っていうのもある、それが事実だ
状況や内容によると思う
すんなり許容できる事もあれば、血管ちぎれそうになる事もあるだろうし
殺したくなるかもしれないし、悪い意味で
たぶん、その事実にギャップがあるほど受け入れるのが難しくなる
容易に予想できるような事ならすんなり受け入れるか受け流せるはず
あと、大した過去はないみたいに言っておきながら聞いてみるとかなり大した過去があったりすると不信感も芽生えそう
好きなものがもし過去に関わった何者かの影響だったら…とか考えてしまう事がある
「○○な人が好き」や「○○されるの好き」は、かなりはっきりと他者の存在を匂わせる
考え出すと芋蔓式に嫌な妄想が湧いてくる
そういう事実があるという事はつまりこういう事もあってだとすればその時こういう感情があってああでこうでそうなるとつまりこういう事もあったりしてそれってつまりそういうことでじゃあそうだとしたらこれは
だから頑張って抑える、考えないようにする
過去の他人との関わりについて聞かされると、大分して2つの問題が付き纏い始める
1.相手の記憶や過去に居座るその誰かの存在や残した影響を丸ごと飲み込まなければならない、もしくは完全に目を背けなければならないという事
2.その関わりに於けるあらゆる評価を超えなければならないという不明瞭且つ(恐らく)非常に困難な課題、そして常にその評価と比較されている(そういう意識の有無に関わらず)という重圧緊張恐怖屈辱…に耐え克服し凌駕しなければならないという事
僕のような者にとっては、余程ハードルが低くない限り不可能ではと思える問題だ
しかし、知らなくても事実はそこにある、常にある
かくれんぼで自分の視界を覆って隠れた気になっている子供と同じ
本当は「自分が知らなければ見なければいい」というものではない
人と関わるというのは、そういった問題全てを乗り越えるという事かもしれない
…だからこそ僕は避けてきたんだ、人と関わる事を