大河ドラマ「どうする家康」。
どうも家臣団構成を見ていて、気になることがあります。
ドラマですから、側近中の側近や、有名な戦国武将が、メインの登場人物となる。
それはしょうがない。
天下人ですから、家臣はどんどん増えていく。
その中で、単発ばかりで出演する登場人物ばかりを脚本に入れていては、
物語が進行しない。
だからしょうがない。
それにしても―――。
やっぱり納得いかないことがあるんです。
それは、酒井忠次(さかい・ただつぐ)に関してなんです。
といっても、けっして酒井忠次の劇中での長篠合戦などでの活躍ぶりや、
配役の大森南朋(おおもり・なお)さんの演技に不満があるわけではなく・・・
もうひとり、酒井一族で重要な人物を忘れていませんか? ということなのです。
その人の名は、
酒井政家(さかい・まさいえ)
この名前、ドラマの中で一度でも出てきたでしょうか?(注:江戸期の史料には「正親(まさちか)」という名前で出てくることが多いようです。)
もちろん酒井忠次は、皆さんがご覧になっていても、
軍事担当・交渉担当としての有能ぶりに、異論はないでしょう。
徳川四天王として知られており、そう称されるだけの実績もあります。
長篠合戦での医王山砦の奇襲作戦や、
上杉輝虎(てるとら。謙信のこと)との取次役、
駿河方面や甲斐攻略への責任者といっていい活躍など、
枚挙に暇がありません。
では、酒井政家とは、どういった人物なのでしょうか?
それはずばり、「西三河の統括責任者」ということです。
より具体的にいえば、徳川家康が初めて1つの城を任せた人物ということ。
これって、すごいことだと思いませんか? ということを、説明していきます。
ドラマにも出てきてなかったと思いますが、
酒井忠次が初めて城主となったのは、永禄8年=1565年のこと。
三河一国をほぼ平定した家康が、隣国の遠江を攻める足掛かりとして、
東三河の重要な交通の要衝・吉田城(愛知県豊橋市)の城代を命じます。
これに対し、酒井政家はその4年前、永禄4年に西尾城代に任じられています。
つまり―――。
三河国内に、3つの大きな中心的城郭があり、それは
中心―――岡崎城―――家康(のちに石川数正)
西部―――西尾城―――酒井政家
東部―――吉田城―――酒井忠次
ということだったのです。
補足)城主が「一城の主。城将。」であるのに対し、
城代(じょうだい)は「城主に代わって、諸事を統括した家臣の長」のことをいいます。
(「」内の用語の定義は、鈴木正人編.『戦国古文書用語辞典』.東京堂出版,2019.参照)
家康は岡崎城を本拠としつつ、
ほぼ家臣の政家に任せてしまっているとみていいと思います。
この任用の理由は、西尾城を含む三河湾沿岸地域、より正確にいえば、
矢作古川(やはぎふるかわ。現在の矢作川の前身だが、現在も現・矢作川の下流にその名を残す)のあたりに、すでに所領を与えられていたのが政家だったからと考えられます。
参考)矢作川が矢作古川を開削して、現在の矢作川の流路にしたのは、家康によるものです。以下の本ブログ過去記事参照。
というのも、この城代就任の翌年(永禄5年)、
家康は信長といわゆる「織田・徳川同盟」によって、
今川領へ侵攻していくこととなります。
つまり、三河から東へ、遠江→駿河といったふうにです。
それが安心してできたのは、やはり背後に織田信長がいたから?
というのは、ドラマを見ていてもわかります。
もうひとつ、重要なことを忘れてはいけません。
それは、安定した領国統治です。
城代に任じられた直後、あの事件が起きます。そう、
三河一向一揆
ですが、これが家康の三大危難のひとつに数えられるほど大変なものでした。
このブログでもいつか取り上げましたね。
参照)
酒井忠次らが、とてもがんばって一揆を鎮めようと奮闘していたことは、
ドラマでも全3回にわたり、取り扱われていました。
ただ、ドラマの舞台裏で、もうひとりの酒井氏=酒井政家も奮闘していたことを、知っておいていただきたいのです。
一揆方に加わらなかった家臣団について『松平記 巻二』には、「家康御方に、酒井左衛門尉(=忠次)・酒井雅楽助(=政家)・石川伯耆守(=数正)・・・(中略)・・・是皆岡崎に馳あつまる」(カッコ内は引用者による補足)と出てきます。
ドラマでも描かれている、家康政権の2家老といっていい、酒井忠次と石川数正(配役:松重豊さん)。
その2人の間に記されるほどの重要人物なのに、ドラマにはぜんぜん登場しなかったわけです。
ドラマの舞台裏で、政家は文字通り奮戦していたのです。
永禄4年、すなわち桶狭間の戦いの翌年にはすでに、政家は西尾城代でした。
この年、すでに政家の管轄する領国内の合戦として、東条城(とうじょうじょう。現在の西尾市吉良町)をめぐる戦いがありました。
このとき家康=政家方は勝利を得ますが、このとき降伏させたのが、
一揆側の武家勢力が担ぎ上げ、旧領復帰のリベンジに燃えていた、
名門・吉良氏の当主・義昭(よしあき)でした。
「西尾城周辺の幡豆・碧海郡南部は一揆方勢力の強い地域」(“2-6 三州本願寺宗一揆兵乱記”解説文.『徳川の支柱酒井氏:左衛門尉家と雅樂頭家』安城市歴史博物館,2023,p.26.)であり、政家は再度、吉良義昭ら一揆方の鎮圧に尽力したと思われます。
一揆後、この東条城に配した家臣、これも重要な人物ですが、
ドラマに出てこない松井忠次(まつい・ただつぐ)という人がいます。
この「もうひとりの忠次」の話は、次回以降、触れることになるかと思います。
まとめに入っていきます。まず、
酒井忠次よりも、酒井政家のほうが早く一城を任されている。
ここが重要なポイントなのです。
酒井政家が、家康が初めて城代を任せた理由について、
安定した領国統治
にあると先に述べました。
政家と忠次は、大永2年(1522年)生まれと大永7年生まれ。
年齢でいえば、5歳差でしかありません。
(ちなみに家康は、天文11年(1542年)生まれ。ちょうど政家とは20歳差です)
それなのに、西尾城は政家に任された。
その理由は、いくつか考えられます。以下の4点を考えてみました。
①酒井忠次は、左衛門尉家(さえもんのじょうけ。一族の系統の一部を表す呼称)の嫡男・忠尚(ただよし)の弟にあたり、家督を継げなかった。ただし忠尚は、後に三河一向一揆のときには一揆方として家康と対立したほど、家康が今川と手を切ったことに反対だった
②酒井政家は家康の祖父・清康、父・広忠のときから仕える家臣。家康誕生時には「御胞刀の役」を務めたほど。つまり家康にとって、祖父のころからの家老格であった、古参のベテラン家臣だった
③酒井政家の雅樂頭(うたのかみ)家は、家康の曾祖父の代からの所領であり、三河国最大の湊があった大浜(碧海郡)に所領を持ち、当地の長田(おさだ)氏に政家の娘が嫁いでいた
④もともと西尾城の城主であった、西条吉良氏の分家・東条吉良氏(当主は前述の義昭)の勢力圏に近接した最前線の所領であり、まだ奪い合いになるかもしれない政情不安があった
①の理由は②と比べると、重要なことを任せるには年齢的には十分でも、
優先順位的には忠次が圧倒的に下だったことを意味しています。
②は政家が、家康の父の代までにはすでに重臣、あるいは家老クラスだったことを示してます。
③と④が西尾城を任された自然な理由といえそうです。
対吉良氏の最前線で、この時期は三河国内の平定のために最も重要な拠点だったわけです。
政家を、「酒井氏が生んだもうひとりのヒーロー」と呼んで差し支えないのではないでしょうか。
このことをふまえ、ドラマ視聴していただけるのも、一興かもしれません。
それでは、続きは次回。