前稿で、角谷大十(すみや・だいじゅう)の檀那寺としてご紹介した寺のひとつである、


 清浄院(しょうじょういん)


 には、葵の御紋を彫り込んだ柱がある。

 それはおそらく、本能寺の変の折に、の見物をしていたという徳川家康が、大和国(現在の奈良県)の山中を抜け、明智光秀の手勢から逃れたという、いわゆる


 神君伊賀越え


 のときに、当寺院の住職が家康を警護したと伝えられているためであろう。

 そう、徳川家康は、その人生における三大危難のひとつといわれる伊賀越えの途次、海路大浜に上陸したのは、以前も触れたように、かつて松平一族ゆかりの寺である称名寺(しょうみょうじ)をはじめ、先祖代々この地の寺社領を安堵してきたことによる安心感があったためであろう。

 
 ところで、この清浄院の脇に、


堀川(ほりかわ)


が流れている。

 清浄院に程近い港である大浜漁港の海に注ぐこの水路は、大浜てらまちを横断し、大浜漁港から内陸1キロメートルほどの棚尾地区あたりまで続いている。

 ここで碧南市が東海地震などに備えて作成した「碧南市標高マップ」(平成24年1月作成)をみると、おもしろいことがわかる。

 堀川が通るのは、いずれも標高1~2メートルであり、棚尾地区よりもさらに1キロほど東の内陸にある日進町あたりに広がる広大な田畑には、標高0~1メートルとさらに低くなっている。

 標高0~1メートルの日進地区をさらに内陸へ進むと、


 鷲塚(わしづか)


 という地区に達する。江戸時代初期までこの地にあったのが、


 鷲塚湊(わしづかみなと)


である。
 そう、現在の海岸線の一部である大浜漁港から東へ4キロほど内陸にある鷲塚にも湊があったというと、驚かれるかもしれない。

 これまで述べてきた標高0~2メートルの地域をすべてつなぐと、現在の碧南市南部のほとんどが塗りつぶされてしまうのだ。

 すなわち中世から江戸初期にわたり、衣浦(きぬうら)に面した湊である大浜から、この鷲塚湊までは、すべて入り江となっていた。

 その湾の東端に、鷲塚がある。
 現在の鷲塚小学校は、標高10メートルにもなる。中世には、この小学校のあたりから、はるかに三河湾と大浜湊が見渡せたことであろう。

 ついでにいうと、鷲塚小学校からさらに東へいくと、以前、清澤満之(きよさわ・まんし)の稿で述べた

 
 大浜騒動


 の発端となった、池端蓮成寺(いけばたれんじょうじ)があるため、この騒動を別名「鷲塚騒動」といっている。このあたりも、標高8~10メートルの高台の上にあり、湾の一部を形成していたこととなる。

 ところが鷲塚小学校から北0.5キロ(500メートル)は、またもや標高0~2メートルの水田が広がる一帯となり、そのまま安城市の東端(ひがしばた)地区に至る。

 鷲塚湊は、「明和のころからだんだん浅くなり、廻船は浅瀬を利用して動き、干潮の時には矢作川の下流は歩いて渡ることができるように」(『碧南市史料 第19集』p.14-15)なった。慶長10年(1605年)、


矢作新川(やはぎしんかわ)


が開削されたためである。

この新川開削による影響で、上流からの土砂の堆積により、鷲塚は現在の碧南市域から矢作新川に望む陸続きの半島となった。


 「矢作新川開削以前の鷲塚港は、波静かな浦廻船の拠点であったが、矢作新川開削後は矢作川水運の基地ともなり、海上交通と川船の結節点として重要な役割をはたすようになった」(神谷和正.「高浜市・碧南市の歴史」.『愛知 2 史跡郷土史』p.312)


のである。