方法序説(5) | 哲学系ダイアリー

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哲学関連の勉強日記です。

前回、わたしたちは疑う存在であることがわかりました。

ところで、「疑う」ということは、完全なことでしょうか。それとも、不完全なことでしょうか。
これは、不完全なこととされます。
なぜなら、何かを知っていることと疑うこととを比べると、疑うということは確実な認識に達していないということなので、それは不完全なこととされのです。

それでは、不完全な存在であるわたしたちは、自分よりも完全であるものについて考えることを、どこから学ぶのでしょう。
デカルトは、それを、現実に自分より完全なものから学ぶのだ、と言います。

わたしの存在よりも完全な存在の観念については……それを無から得るのは明らかに不可能だし、また、わたし自身から得ることもできなかった。……そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具(そな)えている、つまり一言でいえば神である本性だ(48-49頁、括弧内筆者)。

不完全な存在であるはずのわたしたちですが、しかし、わたしたちは「完全」とか「完全性」といったイメージをもっています。
どうしてこれができるのでしょう。
彼はそれを、完全なものから来ているからだ、と考えます。
そして、この完全なものを「神」と呼ぶのです。

完全ということは、あらゆる不完全がないことです。
たとえば、無限、永遠、不変、全知、全能…などがそうですね。
わたしたち人間は、こういった完全性をもっていませんね。
ですからわたしたち自身は不完全なのです。

そして、わたしたちは、無限とか、永遠とか、不変とか、全知とか、全能などといったものを実際に見たこともありませんね。
それなのに、なぜ、そうしたものを想像できるのでしょう?
想像できるのは、実際にそういうものが存在するからだ、と考えるのです。