文藝春秋の2003年6月号〜2006年9月号に掲載されたコラム。


当時、私はトヨタが2004年8月からタイで立ち上げるIMVの部品をフィリピンで生産・出荷するプロジェクトの現地会社責任者として過労死レベルをはるかに上回る超多忙な生活を送っており、世の中の動向に頭が回る状況ではなかった。


そんな中でも、イラク戦争や小泉首相の靖国神社参拝を機にした日中関係の悪化などのニュースは記憶に残っている。


これらに関して「はた迷惑な大国」やG7や国連の機能不全」「戦争の大義」「歴史認識」などコラムで今でも色褪せないコメントや提言をしているのには感心させられた。


これは、著者が「知ることと考えること」と題したコラムで述べている覚悟のようなスタンスによると思う。

「つくづく思うのだが、情報の伝達ということに限れば、新聞・雑誌・書籍の活字媒体は、テレビにもインターネットにも絶対にかなわない。それで、これらの活字媒体が読まれなくなり売れなくなった要因をテレビやネットの普及に帰すのだろうが、私の思うのにはそれは、負け犬の遠吠えにすぎない。もはや情報の伝達速度で勝負する時代ではなくなったのだから、勝負の武器を他に求める必要は不可欠であり、それもしないでなげいているのは、知的怠惰以外の何ものでもないと思うからである。

 そして、テレビやネットの時代で勝負するための「武器」とは、事後でも読むに耐え、情報はすでに知っていても読みたいと思わせ、それでいて読んだ後に満足を与えられるもの、つまり、情報の「読み」なり「解釈」なりで勝負したものを、書いたり言ったりする能力でしかない。」


発行部数40万部の文藝春秋を読んでいる知識人や政治家はたくさんいると思うのだが、著者の真っ当な提言がなかなか政治に反映されないのは、「情報」として読むだけで、「考える」ことをしていないのだろうか。「木を見て森を見ず」の活動ばかりして。