■旧石器時代
北海道に人が住みついたのは旧石器時代(およそ二万数千年前 )とされ、白滝遺跡群は旧石器時代の遺跡としては日本最大規模の遺跡です。黒曜石を原料とした様々な石器が大量に発見され、この一帯が石器の製造場だったと思われる。白滝産黒曜石は、南は三内丸山遺跡を含む北東北、北はサハリンやシベリアの遺跡からも発見され、本州・大陸と交易が行われていたことを物語っている。
■縄文時代
縄文時代は2500年ほど前に終わり、本州では稲作の伝来により弥生時代へと移るが、ここから北海道と本州は別の時代をたどることになる。北海道は続縄文・擦文・アイヌ文化へと、狩猟採集の縄文的文化が明治の時代まで続きます。縄文時代は今より気候が温暖で、食糧も豊富にあり豊かな地であったようです。
■続縄文から擦文時代に平行するオホーツク文化
日本では古墳~平安時代に相当する6~11世紀のおよそ五百年間、北海道では続縄文から擦文時代に並行してオホーツク文化の時代がある。オホーツク文化発見は、大正2年網走川河口左岸の「モヨロ貝塚」発見によって、縄文文化ともアイヌ文化とも違う“オホーツク文化”の存在が明らかになった。貝殻が露出したまま層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品は、どれもが他に類例を見ないものだった。


■モヨロ人
モヨロ人はアムール川流域あるいはサハリンから南下してきた海洋狩猟民ではないかと考えられているが、明快な結論は出ていない。回転式離頭鋸に見られるような発達した漁具。海獣を象ったり波形や魚、漁の光景を施した独自の土器や骨角器。また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が強い。
オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、アイヌ文化へも受け継がれ、突然に現れ忽然と消えてしまった。モヨロはアイヌ語で「入江の内、あるいは所」という意味で、アイヌ人がモヨロ・コタンと呼んでいたことから、1918年(大正7年)に米村 喜男衛によって付けられた。
28軒確認された住居址は竪穴式で、死者は貝塚に埋葬された。大型住居には、海獣、ヒグマなどの骨が丁寧に並べられていた。貝塚からは屈葬された人骨が多数見つかった。多数出土した物には骨角器、土器、石器があり、また本州で制作されたとみられる鉄の刀(直刀・蕨手刀・毛抜形太刀)や鉾、大陸から持ち込まれたとみられる青銅の鈴などがあった。土器や骨角器にはクジラ・イルカ、クマの彫刻が見られる。牙で熊など動物をかたどった像があり、中には優れた造形の牙製女性像もある。道具類の比重から海獣の狩猟に重点があったと推測されている。平成期はじめの発掘では約80基ほどの墓が密集して発見され、また大麦はじめ多くの栽培植物の種子が見つかっている。


・・・・・・・・・・・以下参考・笹川平和財団・海洋政策研究所・環オホーツク海地域をめぐる古代の交流・・・・・・・・・・・・

オホーツク人が携えていた大陸産の製品(図2)は、当時のアムール川中流域を中心に拡がっていた「靺鞨(まつかつ)」系の文化からもたらされたものだが、おそらく、オホーツク人はその対価としてクロテンなどの毛皮や海産物を靺鞨の側に渡していた。この靺鞨系の集団は当時、唐の王朝へと盛んに朝貢しており、オホーツク文化からの産品も靺鞨系集団を介して唐に献上されていた可能性が高い。しかし8世紀後半以降、唐への朝貢が下火になるのと同時にオホーツク人と靺鞨系集団の関係は弱まり、大陸製品の移入は減ってゆく。一方で北海道のオホーツク人はそれを補完するかのように、当時の北海道に展開していた「擦文(さつもん)文化」 との交流を強化し、擦文人を介して本州産の鉄製品などを盛んに入手するようになる。このような過程を経て、北海道のオホーツク人は擦文文化のなかに取り込まれてゆくことになった。
この、オホーツク文化の時期に開発されたアムール河口からサハリン・北海道へと至る「北回りの」交流ルートが、その後の中世から近世にかけてどの程度機能していたのかは未だ判然としていないが、交流そのものは維持されていたとみられている。そして18~19世紀には、清朝と本州をつなぐ北回りの交易として隆盛を極めた山丹交易 が、このルート上で展開されることになる。

■図2: オホーツク文化の遺跡から出土した大陸系の青銅製帯金具
以下:写真提供:東京大学常呂実習施設、北見市教育委員会、網走市立郷土博物館

住居内にクマの頭蓋骨を祀る骨塚が設けられるなど特徴的な動物儀礼の存在が知られています


五角形・六角形をした大きな竪穴式住居を建てるなど独特の文化をもっていた
モヨロ人(オホーツク人)はどこから来たのか?
阿倍比羅夫は粛慎(みしはせ)を征伐したと記録されている、粛慎とはアイヌだったのかツングースだったのか、モヨロ人かそれとも別の民族だったのかという疑問もある。
●モヨロ人「アリュート説」児玉作左衛門
モヨロ貝塚の人骨は短頭型であり、鼻がより狭い、虫歯がほとんどなく咬耗面の摩耗が著しい、アイヌとは大きな相違点があり、エスキモーの一分派であるアリュート族に最も近い。
埋葬方法は頭を北西に向けた屈葬である点から、伸展葬であり頭位方向を異にするアイヌあるいはカムチャダールとは違う、屈葬であるアリュート族との類似性を強調。
千島列島を経由して北海道に渡来したアリュートである。
●「モヨロ人の源は満州のホロンバイル地方」米村 喜男衛
アムール川の沿岸および河口地帯で採取した土器片の中にモヨロ貝塚のものと酷似したものがある。
大陸からアムール川を通り、サハリンから北海道さらに千島列島を北上した。
・・・・・・オホーツク人のDNA解読に成功・・・・・
北大研究グループ
道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことがわかった。現在、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。
一方、縄文人―続縄文人―擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこから受け継がれたのでは」と推測している。


