人間は失敗から学ぶ生き物であるべきだ。
失敗が想定外の失敗のほうが学ぶことがあるものでより良いのかもしれない。
津波被害にあった原発だって、想定外ならそこから学ぶ対策案があるはずだ。
安室ちゃんが 何度でも 繰り返す ...♪ と歌う。
それを、偶然繰り返し見ることになった私。
繰り返すタイミングも、上手くまわっている。
一見無駄なようで、ちゃんと理由がある。
これは、きっと他に 何か重大な失敗や事故を避けるために神が用意してくれたんだと思えばいいんだ。
愛や感謝の中にいれば、自然と守られる。
いや、実はそれも自分の中の神様なのだけど
それを、偶然繰り返し見ることになった私。
繰り返すタイミングも、上手くまわっている。
一見無駄なようで、ちゃんと理由がある。
これは、きっと他に 何か重大な失敗や事故を避けるために神が用意してくれたんだと思えばいいんだ。
愛や感謝の中にいれば、自然と守られる。
いや、実はそれも自分の中の神様なのだけど
ブログに考え事書くの久しぶりだ。
最近思うことは、やはり物の見方は人それぞれということだ。
これは一生、出会う人ごとに学ぶことなんじゃないかな。
自分が見えてる世界が一番正しいし、自分が可愛いのが人間なんです。
わかっちゃいるけど、毎回ムッとしたり悲しくなったり、
そんなことの繰り返しが人生なんです。
それを一歩俯瞰的に考えて「人生とはそうゆうもの」と思えるか、
ただ感情に振り回されるかの違いで、
人生の生きやすさが変わってくるんじゃないかな。
最近思うことは、やはり物の見方は人それぞれということだ。
これは一生、出会う人ごとに学ぶことなんじゃないかな。
自分が見えてる世界が一番正しいし、自分が可愛いのが人間なんです。
わかっちゃいるけど、毎回ムッとしたり悲しくなったり、
そんなことの繰り返しが人生なんです。
それを一歩俯瞰的に考えて「人生とはそうゆうもの」と思えるか、
ただ感情に振り回されるかの違いで、
人生の生きやすさが変わってくるんじゃないかな。
今日は久しぶりに、仏教的に考えさせられることがあった。
電車の優先席に乗っていたら、隣にばあさんたちが乗ってきた。
私から一番遠いところに、ばあさんと言えるか微妙な年齢の人が立っていた。
私の隣に座ったばあさんたちは、私が席を譲るべきと考えていたらしい。
私は音楽を聞いていて、はじめは聞こえなかったが、ばあさんがチラチラこちらを見るので雰囲気で何となく分かった。
譲ろうか迷ったが、電車も動いていたし、客も多かったので今さら動くのも微妙な状況だった。
そしたら、ばあさんたちが文句を言い始めた...。
戦後は皆優しくて、困った人が居れば席を譲ったものだ、時代は変わった、とかなんとか。
私のカバンの中を覗き、ポーチが開きっぱなしだったのが見えたからか、
「電車での化粧も減って来たけど、ひどいものですわよね」 etc...
大声で話すため周囲の人全員から見て、結果的に私は悪者になった。
イヤホンを聞いていて周りの声も聞こえてない、礼儀知らずの若者だ、と。
私は音楽を止めていたので、ばあさんの話は全部聞いていたのだが...
私はばあさんの口調に腹が立った。
そして、腹が立った時はおなじみ、仏教的な考察を加えてみることにした。
まず、私が腹を立てているということは、前提として「自分は正しい」と思っている。
「優先席に座らない」「電車で化粧はしない」といった事はすべて、道徳の範囲だ。
アルボムッレさんからすれば、道徳とは、守らなければ心が汚れるから守らなきゃいけないんであって、道徳そのものには意味がない、と断じている。
例えば不倫。もたろん、パートナーを傷つけたりするような場合は除いて、一夫多妻が認められている国もあるし、生物学的にも、生涯一人の人としか子供を残してはいけないと限定されるという制約は本来ないはずである。
しかし、道徳は守らなければ恥ずかしいから、守るのである。
(男女の関係の場合は、心理的な問題も含むので、もう少し複雑な問題だとは思うが。)
最近、その教えを忘れていたので、「道徳を守れてない自分は恥ずかしい」ということは、よくよく自覚することが出来た。
では、少し反論として、文句を言い続けたばあさんたちに仏教の話を。
文句を言う合間に、「軽いから大丈夫です」と断っているのに、「荷物貸しなさい、ひざに乗せて持ってあげるわよ」とお節介を焼き、
私が立ち去るときも、「さぁ、やっと空いたんだから、お年寄りは座りなさいよ。まぁ、あなたにお年寄りというのも失礼かしらね。」などと大声で叫んでいたばあさんたち。
彼女らも「今、私はたちは正しい事を言っている。無礼な若者を断じて、お年寄りを気遣っている。」と周りにアピールすることで、
アルボムッレさんの言う「自己欺瞞」の心に覆われている。
結局、人間って、お互いに自分が正しい、としか思わない。そう思わないと、生きていけないのだ。
電車の優先席に乗っていたら、隣にばあさんたちが乗ってきた。
私から一番遠いところに、ばあさんと言えるか微妙な年齢の人が立っていた。
私の隣に座ったばあさんたちは、私が席を譲るべきと考えていたらしい。
私は音楽を聞いていて、はじめは聞こえなかったが、ばあさんがチラチラこちらを見るので雰囲気で何となく分かった。
譲ろうか迷ったが、電車も動いていたし、客も多かったので今さら動くのも微妙な状況だった。
そしたら、ばあさんたちが文句を言い始めた...。
戦後は皆優しくて、困った人が居れば席を譲ったものだ、時代は変わった、とかなんとか。
私のカバンの中を覗き、ポーチが開きっぱなしだったのが見えたからか、
「電車での化粧も減って来たけど、ひどいものですわよね」 etc...
大声で話すため周囲の人全員から見て、結果的に私は悪者になった。
イヤホンを聞いていて周りの声も聞こえてない、礼儀知らずの若者だ、と。
私は音楽を止めていたので、ばあさんの話は全部聞いていたのだが...
私はばあさんの口調に腹が立った。
そして、腹が立った時はおなじみ、仏教的な考察を加えてみることにした。
まず、私が腹を立てているということは、前提として「自分は正しい」と思っている。
「優先席に座らない」「電車で化粧はしない」といった事はすべて、道徳の範囲だ。
アルボムッレさんからすれば、道徳とは、守らなければ心が汚れるから守らなきゃいけないんであって、道徳そのものには意味がない、と断じている。
例えば不倫。もたろん、パートナーを傷つけたりするような場合は除いて、一夫多妻が認められている国もあるし、生物学的にも、生涯一人の人としか子供を残してはいけないと限定されるという制約は本来ないはずである。
しかし、道徳は守らなければ恥ずかしいから、守るのである。
(男女の関係の場合は、心理的な問題も含むので、もう少し複雑な問題だとは思うが。)
最近、その教えを忘れていたので、「道徳を守れてない自分は恥ずかしい」ということは、よくよく自覚することが出来た。
では、少し反論として、文句を言い続けたばあさんたちに仏教の話を。
文句を言う合間に、「軽いから大丈夫です」と断っているのに、「荷物貸しなさい、ひざに乗せて持ってあげるわよ」とお節介を焼き、
私が立ち去るときも、「さぁ、やっと空いたんだから、お年寄りは座りなさいよ。まぁ、あなたにお年寄りというのも失礼かしらね。」などと大声で叫んでいたばあさんたち。
彼女らも「今、私はたちは正しい事を言っている。無礼な若者を断じて、お年寄りを気遣っている。」と周りにアピールすることで、
アルボムッレさんの言う「自己欺瞞」の心に覆われている。
結局、人間って、お互いに自分が正しい、としか思わない。そう思わないと、生きていけないのだ。
人生は毎日が奇跡。
いつ死ぬかも分からないのが人生だが、
死ぬその日まで奇跡の連続である。
その波に乗っていると、よくシンクロニシティが起こる。
意識しなくても物事がうまい順番で進んでいたり、
さっき話題に出たものが目の前に届いたり、
抽選に当たりやすくなったり、
隣の人(赤の他人)から嬉しい言葉をかけてもらえたり、
同じイニシャルトートを自分のイニシャルで見かけたり、
深い愛に気づかされることが起きたり、
連絡しようと思ってた人から連絡が来たり...
人生は奇跡の連続だ。
いつ死ぬかも分からないのが人生だが、
死ぬその日まで奇跡の連続である。
その波に乗っていると、よくシンクロニシティが起こる。
意識しなくても物事がうまい順番で進んでいたり、
さっき話題に出たものが目の前に届いたり、
抽選に当たりやすくなったり、
隣の人(赤の他人)から嬉しい言葉をかけてもらえたり、
同じイニシャルトートを自分のイニシャルで見かけたり、
深い愛に気づかされることが起きたり、
連絡しようと思ってた人から連絡が来たり...
人生は奇跡の連続だ。
