原爆孤児たちの訴え(6) | ☆ワシの終活☆

原爆孤児たちの訴え(6)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市舟入高等学校一年生 K・K

学校にいき始める喜びに、始めてランドセルを背負って叔母と一緒に学校の門をくぐった昭和二十年四月

当時戦争の激しい恐怖に被われていた、ぼくたち叔母、兄姉四人は広島郊外の可部町の親戚に疎開していた

(中略)

ぼくたち兄姉一生忘れることのできない八月六日

その朝丁度学校で朝会を行っていた

するとどうでしょう

眼を開くこともできないほどまぶしい光が輝いたと同時に大爆音もろとも、はるか山の向こうから真黒い雲がもくもくと立ち昇りはじめたではありませんか

その雲はみるみるうちに空一面を被ってしまいました

ぼくはなにがなんだか全然検討がつきませんでした

無我夢中で家に走り帰りました

夕方頃から種々な人々が続々と負傷して帰ってくるではありませんか

世にも恐ろしい原子爆弾が投下されたのでありました

ぼくは瞬間的に広島に居残っていられる父母弟妹のことが気掛かりました

兄は二日目に親戚の人たちと一緒に広島に急行されました

兄が左官町に在った家の場所にいかれますとどうでしょう、家は無くなり、母、弟、妹は並んだまま白骨となっていました

三日目の朝、父がぼくたちのいる可部町の家に帰ってこられましたが、その日の夕方には、もうむなしく亡くなられてしまいました

父は身体全体が火傷で被われて、所々に大きく負傷までしておられ、ほんとうに元の父とは思えないほどの状態だったのです

一家楽しく愉快に暮らした元の家庭も父母弟妹四人を失いぼくたち兄姉は呆然自失してしまいました

その後ぼくは兄姉と別れて瀬戸内の島の祖父の家で暮らすことになりました

(中略)

ぼくもいまは高校一年生です

いままでのことを振り返ってみると、原爆が投下されて早や九年の歳月が夢のように流れていきました

あの、恐るべき原子爆弾が、世にも恐ろしい戦争に使用されたことについて、ぼくたちは真剣に考えるべき多くの問題をもっています

罪のない多くの人々を死なしたあの恐るべき原子爆弾、ましてや原爆以上の威力をもった水素爆弾などは、一日も早く地球上からなくしてしまわなくてはいけません

それなのに、世界の文明国とほこる大国の間には、水爆を作る競争をし、すでにどしどし実験だといって爆発をさせ世界の人々を苦しめています

またしてもこんなものが戦争に使われるようになったら、九年前のあの悲惨、いや今度はそれ以上の想像も及ばぬ悲劇をおこることは目前にみえています

われわれ青少年は原爆、水爆の使用について絶対に無関心でいるわけにはいきません

われわれ広島の市民が中心となり、原爆、水爆使用禁止の声を、全世界の人々に訴えなければなりません

昭和二十九年九月十五日」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?