原爆孤児たちの訴え(5) | ☆ワシの終活☆

原爆孤児たちの訴え(5)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市国泰寺中学校三年生 M・K

原爆の落とされる前、僕等一家五人は幸福な日々を送っていました

父は警察教習所の教官をし、母はいつも僕等兄弟三人のヘリにいて、良くめんどうをみてくれていました

あの恐ろしい原爆の落とされる前の年、僕等一家とおじさんおばさん等と安佐郡の祇園町に疎開しました

父は警察の方で一人が水主町にのこっていました

(中略)

母はあの八月六日、父にいわれて、父の妹にあたる一枝おばさんと水主町へ出て行きました

水主町へ行く途中、寺町の辺で原爆にあって帰ってきました

一枝おばさんは体中大やけどをしておられるのに、おかあさんは頬の辺に少しやけどをしておられるだけで元気でした

一枝おばさんは八月二十九日とうとう死なれました

母はその葬式もすませ、元気でしたが、二、三日した頃から体中に斑点が出たといって、あまり元気がありませんでした

頭の髪も抜け、熱が四十度以上もあり、井戸水で頭を冷やした程です

父もとうとう帰ってきませんでした

父母が死んだ後僕等は今年の6月まで祖母と暮らしていましたが、祖母もとうとう今年の6月死んでしまいました

生前祖母はよく夜人の足音を聞くと「お父ちゃんが帰ったのではないか」といっていました

原爆のためにどれだけの人が苦しんでいるのか、「あの原爆さえなかったら」とゆう人が、何百人いることでしょう

原爆のため、あれだけの人を犠牲にしたのにもこりず世界の有力国は原爆より恐ろしい水爆を作る競争をしているようです

そのため、何の罪もない久保山さんまで水爆実験の犠牲にして了ったではありませんか

武力によらないと世界に平和は呼び求められないでしょうか

僕はその反対だと思います

もう少し世界の国々が信頼しあったら武力等必要なく、世界には平和が訪れることと思います

ぼくらの時代になっても世界の人々は武力で戦っているでしょうか

否、どうしても、ぼくらの時代には、平和な世界を、ぼくらの手でつくらねばいけません

少しも早く、武力を必要としない平和な世界がくることを、みんなまちのぞんでいるのですから

昭和二十九年九月二十四日記」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?