(戦争と平和1532)沖縄戦に対するそれぞれの想い | ☆ワシの終活☆

(戦争と平和1532)沖縄戦に対するそれぞれの想い

去年の記事を再び載せます


去年(2014年)、沖縄出身のタレントさん達の記事が朝日新聞に載っていましたので、また引用します

(前後文章を省略しました)



「いっこく堂さん「両親の沖縄戦、語りつぐ責任がある」(朝日新聞デジタルより、2014年6月)」


1970年、沖縄市に住んでいたいっこく堂さんは、米軍による一方的な交通事故処理をきっかけに起こった「コザ暴動」を経験したそうです


「せんそうがはじまった」と思ったそうです


そして、ご両親は太平洋戦争を経験なさっています


いっこく堂さんは、いま、両親が体験した戦争のことを、18歳の娘に意識して伝えています。戦争に関するニュースが流れているときなど、さりげなく


「いまはまだ戦争を体験した方たちが生きている
戦後100年になったらどうだろうか
体験者はいなくなり、戦争が本当に昔のことになってしまう
沖縄戦を体験した子や孫の世代であり、当事者から話を聞くことができたぼくには、語りついでいく責任があると感じています」


そういっこく堂さんは思っている



「二階堂ふみさん「沖縄戦、どう伝えられるか考えている」(朝日新聞デジタルより、2014年6月)」


6月23日の沖縄の慰霊の日


沖縄では学校が休みなので、家にいることが多かった二階堂さんは、正午になるとラジオの呼びかけにあわせて、母親と黙祷したそうです


東京に来て5年


8月6日、広島原爆の日にも、ネットのニュースで気づけば黙祷しているそうです


「本当に大変でしたね、ぜったいに戦争はしないようにします」と


「沖縄戦について伝えてくれる写真や物語は、目を伏せたくなるようなものがたくさんある
そうしたものを、子どもには見せてはいけない、とフタをする風潮にわたしは異を唱えたい
そこにあるものだから学ばないといけない
知らないまま大人になることの方が危険だと思うんです」


そう二階堂さんは語ります


「小学6年のころ、元ひめゆり学徒隊の女性の話を聞いたときのことです
《足を切って負傷した兵隊さんに水を与えたら、血がどんどん出てきてしまった》
《まだ生きている兵隊さんの口の中にうじがわいていて。1個1個ピンセットでとった》
そんな話にわたしはただただ、気持ち悪くなってしまったんです
でも、そのショックがいまでも残っていて、わたしの問題意識を支えている
わたしたちはどうすればいいのかと、考えつづけてこられた
最近になって、当時の女学生たちも同じような気持ちだったんだろうか、と自分なりにかみ砕いて考えられるようになってきました
何かを絶対的な悪と決めつけるようなものの見方にも、わたしは違和感を覚える
それはわかりやすく簡単ですが、見えなくなることがあると思うからです
戦争中も、明日のご飯や、恋人のことを心配していた人がいたんです
いまと同じように。そうやってとらえて初めて、なぜ、戦争に突き進んでしまったのか、という大切なことが考えられると思う
先日一緒に仕事をしたドラマの助監督が言っていました
2時間のドラマですべてを描こうとすれば、きれいごとになる。ぼくたちは「切り口」だけをきちんと作ればいい
あとは見た人がどう感じるかだ、と
正論です
ものづくりをしている人間として、わたしはその「切り口」をどう表現できるか
いつか子どもが生まれたとき、あの戦争のことをどう伝えられるかを考えています」


そう二階堂さんは話します


「知花くららさん「祖父の痛み、わたしにとっての沖縄戦」(朝日新聞デジタルより、2014年6月)」


来年(2015年)は戦後70年


そう聞くと、知花さんは、那覇市で暮らす祖父の言葉を思い浮かべるそうです


『生き残っているのが申し訳ない』


那覇市で生まれ、高校卒業まで過ごした知花さん


戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」や、たくさんの女学生が亡くなった「ひめゆりの塔」など、本島南部の戦跡には小さいころから親に連れられて行ったそうです


「学校でも沖縄戦のことは身近でした
6月23日の慰霊の日が近づくと、校内で写真展がある
「白旗の少女」や、ぼろぼろの着物をきた老婆がガマからでてくる姿
遺体が折り重なった写真。本当に衝撃で、夜になるのが怖くなってしまうほどでした
でも、近くで暮らす祖父の戦争体験は知りませんでした
学校で沖縄戦のことを知り、祖父にも聞きたかったけど、切り出せなかったんです
家庭で戦争の話がでそうになると、祖父はきまって席を外し、どこかへいってしまう
そんな姿を見て、口に出してはいけない話題なんだ、と感じていました」


そう話す知花さん


「初めて体験を聞く機会がおとずれたのは上京して7年ほどたった2007年
沖縄戦の集団自決をめぐる歴史教科書の記述が問題になっているときでした
ニュース番組のリポーターをしていて、ディレクターの何げない提案をうけて祖父に話を聞かせてほしいと頼むと、引き受けてくれたのです
祖父のふるさと、慶留間島に初めて渡り、15歳のときの体験を聞きました
3月26日に島に米軍が上陸
山へ逃げ、壕(ごう)に入ろうとすると3人の住民が倒れていた
『早く死ななければいけない』
そう思った祖父は姉と2人、「自決」を決め、姉の首をしめた
自分の首は、ヤシの葉をヒモ代わりにしてしめ、木にくくりつけて首をつろうともした
でも、2人とも死にきれなかった
米軍の捕虜になれば、目はえぐられ、耳をそぎ落とされる
『捕まる前に死を選ばなければいけない』――そう信じ込んでいた、と
その後、出会った住民に、みんなが生きていることを知らされ、正気に戻っていったそうです
それから60年以上たって起きた教科書問題。沖縄戦の事実が書きかえられようとしている、という危機感から祖父は話すことを決めたそうです
そして『生き残っていることが申し訳ない』と涙を流しました
命のつながりを初めて実感する思いでした
祖父が生き残ってくれたからこそ、わたしの親がいて、わたしがいる
沖縄では『命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)』とよくいうけれど、本当にそうなんだなと
祖父の体験を初めて聞いてから7年
沖縄に帰るたびに耳が遠くなっていく祖父をみると、聞き逃したことがないか、話しておきたいことはないか、と焦る気持ちがあります
先祖が眠るお墓に親族であつまるシーミー(清明祭)にでた今年4月も、祖父の顔をじっと見つめました
いまなら聞けるかなあ
やっぱり聞けないなあ
実際、おばが戦争の話をきりだすと、祖父は黙り込んでしまった
それでも、わたしは祖父の話は必ずもう一度聞こうと思っています
生き残ったことへの後悔について
これからの日本に対して、私たちの世代に対して
祖父はいま何を望むのか
このままお別れしてしまったらすごく後悔すると思う
こんどは取材ではなく、自分のためにビデオを手にもって向き合いたい
子どもや孫ができたとき、それがすごく力強いメッセージになると思うから
祖父が教えてくれたことを伝えていくことなら、わたしにもきっとできる」


そう知花さんは語ります


この記事と読んで、もう少し、祖父母に戦争のことを聞いておけば良かったと思いました


しかし、今知り得ていることだけでも、子供達に伝えねばならないとも思いました


そして、子供たちは…


「(声)僕は戦場で人を殺せません(朝日新聞デジタル、2014年6月)」


これは、新聞に掲載された中学生の声です


「日本が憲法の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認し、戦争ができる国になる可能性が日々増しています
おそらく戦場へ向かわされるであろう世代のひとりとして、気持ちを述べさせていただきます
僕の友人の中にも、集団的自衛権の行使が必要だと考える人はいます
しかし僕は反対です
徴兵され、戦場に送られ、人を殺したくないからです
 人を殺すことは、通常の世界では最も重い罪です
しかし戦場では、その一番重い罪である人殺しを命令されるのです
命令に従うのがよいことで、命令に背けば罰せられます
この矛盾が僕には理解できず、受け入れられません
それに、人は何のために生まれてくるのでしょうか
戦いで人を殺したり、殺されたりするためではないはずです
全ての人間に与えられる人生は、たった一度です
人を殺した罪を引きずって生きたり、自分が望まない時に命が無理やり終わったりすることは、あまりにも残念で、悲しいことです
集団的自衛権の行使は、海外で人を殺すことを伴います
僕には、絶対できません
集団的自衛権行使の意味を、国全体で考え直す必要があると強く思います」


いつも、最後に巻き込まれるのは、子供たちです


それをよく考えねばならないと思っています


*…*…*…*…*…*…*…*
最後までお読み頂き
ありがとうございます♪
*…*…*…*…*…*…*…*


そして、今日誕生日のすべての人へ
お誕生日、おめでとうございます!!
これからはじまる一年が、健やかな日々でありますように。
そして、今日あることに、みなさまのご先祖様に感謝し、明日が素晴らしい日々でありますように、祈っております
(・∀・)


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