四ツ谷コタン ピーヒャラピーヒャラ パッパパラパ | 椿五十朗

椿五十朗

雇われプロデュサーの覚書

 

    大学4年の時、出席日数が足りず、夏休みを前に留年が決まり、

 

何かバイトでもしようと言うことで、フロムAを買いに書店へ。

 

求人広告を見ながら、「PAオペレーター募集」が目につき、応募。

 

面接日に四ツ谷コタンというライブハウスへ出向いたのだが、見付からず。

 

「Cafe コタン」という店に恐るおそる入ってみると、アコーステックのライブハウスで

 

面接場所が見付かったのである。

 

1990年のことであった。

 

「PAオペレーター募集」と記載してあったが、やる事は、それだけではなく、

 

配膳、料理、PA、照明 全てである。

 

料理に関しては、冷凍ものは一切無く、

 

「ポテトフライ」の注文が入れば、ジャガイモの皮をむいて、

 

塩、コショウ、片栗粉をまぶして高温で揚げる。

 

ピューラーを使用すると思いつつも「包丁の練習になるから」と包丁を使ったものだ。

 

唐揚げも注文を受けてから鳥の胸肉をさばく。

 

他のライブハウスでは考えられないことだが、美味しいので注文も入る。

 

半年ほどの勤務であったが、確か時給は750円??か700円??

 

17時~24時で、水曜日だけ休み。

 

月に10万行くか行かないかの給料であったな。

 

最初の3週間だけ、木村店長と一緒であったが、その後は私1人で、

 

「今日からお前が代理店長な!!」と言われ、

 

店長は、隣の割烹料理屋、「万作」で呑んでいる状態になる。

 

17時に入店 届いている氷をアイスピックで割り、その後、スーパーへ買い出し、

 

料理の仕込みをして、ミュージシャンが3組やってくるので、リハーサル、

 

会場を整理し、開店、注文、ライブの開始、終了すれば居酒屋状態である。

 

客が居なくなると、レジを締め、掃除機をかけ、シャッターを閉じて、

 

万作へ行き、賄をご馳走になる。

 

料理を作りながらPAと照明をやり、注文も取りに行く。

 

過酷だったな(笑) そりゃ手際もよくなる。

 

当時は、「ちびまる子ちゃん」が全盛の時であり、出演者に「TARAKO」さんが

 

毎月1度やってくる。

 

今でいう「闇営業」だろう。

 

事務所の社長さんと2人出来て、チケット代をお客からもらうと社長さんは居なくなる。

 

「TARAKO」さんは、一人でアコギを手に、きれいな声で歌っていたな~。

 

相当、忙しかったようで、リハーサルが終わると客入れまでの間は、

 

ラジオCMの録音を店内でしていた。店長が「一声10万らしい」と教えてくれたっけ。

 

ある日、風邪をひいており、ちょうどお米を炊いていたので、洋風のお粥を作って

 

差し入れてあげた。

 

宣伝もしていないのに50人はお客さんが集まっていた。

 

全ての客が唐揚げを頼むものだから売り上げは良いとしても曲を丁寧に聞く暇さえ

 

無かった。。。

 

それから1年半、私はコタンを辞め、渋谷に大きなライブハウスを建設中であり、

 

そこの店長として9月にオープンした際、TARAKOさんが、何処で聞いてきたのか、

 

花束を持って、開店祝いに駆けつけてくれた。

 

それから、たびたび交流があったものの20年ばかり音沙汰もなく、

 

先日訃報を聞いたわけである。

 

女性に年齢を聞くこともしないので、当時、私が26歳、TARAKoさんは29歳だったんだな。

 

本当にやさしい、良い方であった。

 

 

ご冥福をお祈りいたします。