坂戸城跡は遺構そのものについては記述はあるが、遺構と歴史的背景や城下については裏付けや根拠とした研究調査は無く、主観や過去の憶測による記述によって述べられている。2019年11月に発行された『六日町史 通史編第1巻』の城跡も踏襲している。山田邦明氏、片桐昭彦氏の素晴らしい論がありながら、具体的な地域城跡を述べる研究家の執筆は疑問を提する部分がある。

かつての六日町は南魚沼市となって、大河ドラマ「天地人」による観光開発に下記リブログ“上田庄の領主と上田長尾氏”にある事業を行っている。観光ボランティア活動も立ち上げた。合併から引き継ぐ『六日町史』編纂事業や坂戸城跡保存整備事業も行われている。これだけではないが、様々な活動を考察したとき何が見えてくるだろうか。

六日町の城跡に関する中心人物は誰であったか其の痕跡は松永靖夫氏であろう。
(『六日町史 通史編1』坂戸城)
『六日町史 通史編1』記述の内容は、故松永氏の足跡を踏襲したものであることは以下の内容が示す。
「六日町の地域が狭いことから、岩崎、新堀、藤原などの坂戸城の東北地区に開ける地に城下町を建設する計画だったのではないたろうか。」から続く『六日町史 通史編1』534ページからの文である。執筆は八巻孝夫氏(中世城郭研究会)

かつて松永氏は同様の内容をボランティアガイド講習会で解説し、矛盾を指摘した参加者の意見は聞き入れないなどの姿勢を行ったという。
 大河ドラマ「天地人」実行委員会、県教育長中越教育事務所、市教育委員会主催で「天地人史跡ガイド」養成講座として、坂戸城跡、樺野沢城跡、浦佐の3カ所でスタートする。
このような疑問点が潜在することは、松永氏から八巻氏に繋げられた南魚沼市の城跡に関する記述は全て読み直す必要があると考える。

その事例を顕著に表す坂戸城下の六日町について解説する。
<坂戸城と城下六日町>
「六日町の地域が狭い」について、その根拠はない。坂戸城麓の坂戸は、山と川に隔たれたとすれば確かに狭いとも捉えられる。しかし、魚野川対岸の六日町はそうではない。街道・河道交通の要所は六日町である。「館」と呼ばれる地のみ伝えられていると言われるが、上町の存在や、近世古文書には中世以来の城下に関わる地名が残されている。
地図でも一目瞭然であるが、坂戸と反対側の岩崎に城下町を形成する必要はない。この環境を無視する『六日町史』の「六日町の地域が狭い」は確信的に記述しているとも言える。
坂戸城主堀直竒は、近世への変化を捉えた最先端の武将であった。幕府に先駆けた三国街道の整備で六日町を宿場町とした。古志蔵王までの河戸を整備したのも上流六日町河戸との繋がりであり、河道の新たな近世化としての新潟湊へと繋がる。この地域における人・物流の中心はすべて対岸の六日町なのである。
魚野川は大河信濃川と異なり容易に渡れることを想定しなければならない。川が地域の区切りではなく、坂戸の対岸も城と城館の縄張りと見るべきものである。
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「市報みなみ魚沼」より