中心として定義するものに周縁を追い求めることは理論的だが、中心をぼかして周縁を追い求めることは非論理的である。そもそも周縁という位置づけが間違いである。

近世の身分性社会において、周縁の定義に矛盾や違和感がある事象については、「多元性」という解釈が必要だと考える。
多元性に近い位置づけの表現があるかは知らないが、私の中で周縁に違和感が生じたことによって派生したのが「身分的多元性」という言葉である。

身分的周縁は、周縁に拘ることによって矛盾を生じさせているにもかかわらず、一致する事象だけを取り上げ、矛盾や違和感の存在を忘れているように感じる。「〇〇の周縁」とは中心となり得るものを対象としているのかは疑問がある。士農工商を否定した身分的周縁であるはずなのに、士農工商と同様の身分定義の範囲で論じているのが身分的周縁であるように感じる。
集団として捉え重層し、複合しているとするのも違和感がある。すべての始まりは「個」ではないだろうか。

ある地域の記録には、寺社領が関係する文書には名字が存在し、幕府領あるいは藩領の村方文書には、名字の記載が稀である。同一の個に対して一方では名乗れ、一方では名乗れないと言うことが複数存在している。これが意味するところは、寺社領が特異だからではない。名乗れない武士領が特異なのである。

職分についても同様である。百姓でありながら職人、商人であったり、文官でありながら百姓に扱われたり、個が「多元性」をもって存在している事例が存在している。社会的下層の受け皿として存在した職分という考え方や捉え方には違和感がある。「感覚」によるものだけでなく、職分によって社会的地位があった、または百姓よりも重んじられた職分が存在したことは、まち・むらの古文書から垣間見える。
少なくとも、近世の身分性社会と職分は、現代人の考える解釈や理解する役割とは異なる領域を形成し、個として現代の職分の存在意義と社会的背景に繋がることはないと考える。

無断転載禁止©2020雷神