越後毛利一族は刈羽郡南条にあった。支配は鯖石川中流から上流域に広がり、戦国時代には魚沼郡まで勢力を伸ばした。その系譜に惣領を務め石曽根を称した一派がある。

毛利石曽根氏の存在については、裏付けとなる史料は限られており、その解釈や扱いは注意を要する。安芸毛利氏の毛利文書を含め、その解釈に多様性が生まれ蓋然性の中に矛盾が生まれている。
『温故の栞』では、長岡市岩田不動沢勝平城の城主を石曽根修理太夫のちに南条修理太夫に改名したとする。佐橋庄の毛利氏に結びつく言い伝えとも取れる。
江戸時代作成の安田氏本姓毛利系図では石曽根左近貞和五年(1349)戦死とし、左近は「元豊嫡子実広長元代の子たるべし」とする。
これらの伝承、言い伝えを裏づけなしに他の史料と同列に論じるには整合性の妨げとなる。

〔毛利南条氏と二つの矛盾点〕
毛利安田文書と毛利文書の検討から二つの説が取り上げられている。(『大江・毛利一族』、『越後文章翰集毛利安田氏文書』)
①毛利道幸(憲広)ー元豊ー石曽根殿
※毛利道依は元豊
②毛利道幸ー憲広(元豊)ー石曽根殿
※毛利道依は安芸毛利氏

①の解釈について、応安七年(1374)道幸は、修理亮朝広(毛利安田)へ惣領憲広に従って安田条を相続するよう譲状を記す。
→朝広と憲広は兄弟なのか親子なのか問題とするが?、誰が道依かを推定するための解釈とも伺える説で、「憲広を断定してほかの史料の解釈に結び付ける必要性はない」が結論となる。裏付けのない説が他史料への影響を生じないことが純粋な解釈であり、必要なのは安田氏が惣領家に従属し次の史料に繋がることである。
〇康暦二年(1380)、毛利修理亮憲朝は父毛利道幸の譲状をもとに安田条を足利義満より安堵される。
〇応永十四年(1407)譲状、置文は毛利憲朝(安田)の兄元豊を惣領としていた。
置文では、亀一丸が実子ないときは石曽根殿の子とあることから、元豊・憲朝の孫に当たる世代が石曽根殿の子である。
道幸は自身のことを憲広と言い、惣領として従うよう譲状を記述したのだろうか?道幸は自分が退いたあとのことを記述しているのだから、「南条惣領家を継がせた者に従うように」が文書の流れである。

②については、毛利道依の存在が矛盾点である。毛利道依は康応元年(1389)の足利義満下文にみえる佐橋庄地頭職を安堵された人物である。これは安芸在住の毛利一族の庶子を当てはめる。この根拠となる記述はどこにも見られないが、この結びつきによって下文の史料分析までおこなっている。はたしてそこに整合性はあるのだろうか?

③毛利道幸ー元豊(憲広)ー石曽根殿
※惣領毛利道依は元豊
③は①、②の解釈の内、外部からの情報で、断定的な記述であってもその根拠や裏付けとなる整合性を述べているものがない情報を除外した。

〔参考〕
④毛利安田氏
毛利道幸ー朝広(憲朝)ー亀一丸(道元)

〔石曽根殿の役割〕
越後毛利氏の系譜を追うことに囚われてはその本質が理解されないままである。
ここでなぜ毛利石曽根氏が派生したか考えてみる。
南条は、八石山麓の鯖石川中流右岸に所在し、鯖石川下流域に開ける手前に当たる。鯖石川上・中流域からの産物を集積し、街道に割り振る拠点として開けたと解釈できる。
越後毛利一族は、中世から近世の街道拠点となった北条と安田に佐橋庄支配の早い段階で諸氏を置いている。在地支配の広がりとともに史料に現れる分派が石曽根殿となるが、石曽根殿以前にも毛利の石曽根氏が存在していたようである。
石曽根は鯖石川中流と上流域の接点で、山間部の入口であり出口でもある。元豊以前から石曽根氏を分派したとされるが、元豊の嫡子が惣領として石曽根殿となったことは、石曽根が毛利一族にとって重要な土地であったことを検討しなければならない。これまでの研究は、石曽根に派生したことのみ論じ、一族がどのように展開していったのかなどの考証を行った記述はない。

中世において佐橋庄と鵜川庄が栄えたのには、産物が柏崎の港に集まったことによる。そこに、毛利氏の街道拠点と石曽根の地が関わっている。
毛利氏が越後の刈羽に支配権を持った意味は、産物の青苧を流通させる権利が大きく関係していると考えられる。青苧座と呼ばれる特権的な取り引きを行う商人座の存在は、南北朝以降に見えてくるようになり、座は莫大な収益となっていった。良質な青苧が生産されるのは、刈羽、魚沼、頸城の山深い山間部で、青苧が集積される地域の一つに土着したのが毛利氏である。鎌倉幕府の御家人が遠く離れた越後の地に地頭職を得たのもこの権益が絡んでいたのであろう。
鯖石川上流から青苧が運ばれ最初に集積される場所は地形的に見ると石曽根と考えられる。また上流域の黒姫は、織物伝承が伝えられるほど古来から青苧栽培と織物が盛んな地域であった。


〔惣領は毛利安田氏へ〕
佐橋庄中流域から下流域に繋がる接点は街道の接点でもある。南条は除外されるが安田、北条は刈羽と魚沼北部を結ぶ関東街道である。南条石曽根や北条が衰退し、安田氏へ勢力が集中していくのは、産物の往来が深く関係しているのではないだろうか。越後毛利氏は、広域地域で産業を捉え、産業と共に勢力を拡大していった一族と考えられる。
畿内へ運ばれる青苧は、越後府内(上越)に集められる。府内へは柏崎から、柏崎へは魚沼や刈羽の山間部からである。刈羽の山間部の内、鯖石川流域は、小国保南部の渋海川上流域や妻有方面も含まれた。魚沼は、小千谷から北条が街道ルートである。
後の記録であるが毛利安田氏は、これら青苧を集積するルートに沿って知行を拡大している。

【毛利安田文書】
文明三年知行
吉谷(小千谷市)土川名(土川)山崎名(四ツ子)番匠免名(不明)高柳橋爪名(岡野町橋爪)宮田名不明
文明九年知行
小国保



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