「歴史から学ぶ」とはよく言われたもので、一般的な記述は、歴史から学んでいると勘違いしている。多くは懐古趣味な観点で羅列されるもので、「学ぶこと」とは相対しない視点である。歴史の有名人の成功や失敗は客観的事実と捉えられ、万人が受け入れやすい。しかし、勝者側あるいは、歴史に残ったという結果に対する主観によって見える事跡である。その一例として河井継之助(かわい つぎのすけ)を読み解いてみる。

【懐古趣味と河井継之助】
河井継之助を一言で言えば「世の中を見る目がなかった」である。
それがなぜ“懐古趣味な河井継之助”となったのか、河井継之助の位置づけを紹介する。以下は河井継之助記念館のコンセプトである。





河井継之助のイメージは、現代の商業的な利権によって英雄や美談として祭り上げられたものである。もともと地元長岡の民衆からは批判的な対象として見られ、河井継之助を偉人として記録する歴史的史料は存在しない。河井継之助の事績を語る上でその社会的状況と対比した記述もない。実際に河井継之助を語る上で取り上げられるのは、歴史書や史料でもなく司馬遼太郎の『峠』である。「歴史から学ぶ」ではなく「歴史小説から学ぶ」である。

【北越戊辰戦争と長岡藩】
北越戊辰戦争で長岡藩が進退を決めあぐねているなか、越後では官軍の来越を受け入れている民衆の存在が記録されている。すでに小千谷談判を行うような社会的情勢でなかったことは裏付けを示すまでもない。
長岡城下が戦火に巻き込まれて大損害を被ったのは、河井継之助ではなく長岡藩士でもなく長岡商人であった。米百俵も小林虎三郎ではなく長岡商人が動いたから米百俵が使えたのであり、学問で人を育てるのもすでに長岡藩で行われ、河井継之助のような人材が育つ土壌が形成されていたのである。





歴史から学ぶことにおいて河井継之助の思想を追求する意味はあるのかではなく、歴史学という狭範囲では「歴史から学ぶ」ことはできない。