~郷土の歴史~
いにしえより続く信濃川の鮭漁は、様々なダム建設や堰の設置により、鮭の遡河回遊が断たれ戦前に途絶えた。

古来より越後平野は、頻繁に信濃川の氾濫で悩まされていた。近代に入ると分水の設置が行われる。
昭和六年に完成した大河津分水は、燕市から分水し、寺泊地域で日本海に注ぐ。これにより、燕・三条からの信濃川下流が決壊することは無くなった。しかし、それと引き替えに豊富に獲れた信濃川の鮭は失われた。他のダム建設と時期は重なり、分水の出来た頃から信濃川の鮭は激減したと前川だけでなく広範囲に人々の記憶には残った。
国土交通省北陸地方整備局 信濃川河川事務所のホームページより。

〔将軍さまに献上された鮭〕
信濃川の前川は特別な鮭が獲れる場所で、将軍家にも献上されたと伝える。
前川は、古志の六日市・妙見(現長岡市)から魚野川合流付近で魚沼の川口・川井内ヶ巻(現長岡市・小千谷市)あたりを指す。現代では三面川の鮭が有名となっているが、近代までは、信濃川の鮭が抜きに出て有名であった。鮭は、川の産物の中でも価値のあるものであり、大きな収入が得られることで、江戸時代には税が徴収されていた記録も見られる。初鮭は将軍家や老中に献上されるほどであった。信濃川の鮭は長岡藩牧野家が取り仕切り、一番鮭、二番鮭、三番鮭と褒美が与えられた。

「塩引鮭の差出しにつき堀之内肝煎あて直竒書状」
「初鮭献上につき堀之内肝煎宛直竒督促状」
(『堀之内町史』)
従左衛門督は越後国主の堀秀治のことである。丹後守は堀直竒で、秀治の与力として坂戸城に在城し魚沼南部を支配した(坂戸藩)。
堀之内は、魚沼北部の信濃川支流魚野川沿いに所在する。越後一揆(慶長5年)で討ち死にした小倉主膳に代わり堀直竒が堀之内を管轄した。下倉には直竒配下の代官所が設置されていたことから、この書状が出されたのである。直竒支配の地は、魚沼から古志蔵王堂まであり、魚野川と信濃川沿いの河戸を六日町から小千谷、小千谷から蔵王堂と川運を整備した。

※坂戸藩は慶長3年~慶長15年の直竒一代限りの藩である。慶長7年、直竒は蔵王堂藩の後見役となる。慶長11年、蔵王堂藩は廃止となり坂戸藩へ吸収される。

堀氏改易後、魚沼の領主は度々変わったが、小千谷の大肝煎り、川番所役人、村庄屋が信濃川から魚野川を差配した。
『小千谷市史』高田藩松平光長支配の記録。
史料2にある宛先は、中町九郎右衛門は小千谷村庄屋、西巻兵治郎は番所役人で魚沼郡の川役も徴収した。東藤左衛門は小千谷組大肝煎りであった。大肝煎り手形とは、魚沼八組の大肝煎りを指す(六日町組、塩沢組、浦佐組、小出嶋組、堀之内組、 川口組、小千谷組、十日町組)。大肝煎りの許可があった上で小千谷村庄屋が舟極印を押して通行を認めると言うものである。
『六日町史』鮭役の取り立て記録。(年不詳であるが、寛文から延宝頃の高田藩時代と考えられる)
番所役人の西巻家は代々傳右衛門を襲名した。明暦の西巻兵治郎と同じ家である。

高田藩(松平光長)時代には「辰歳御褒美役鮭之帳」という、小千谷陣屋で確保した鮭の記録が大肝煎り東家文書に残る。

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