『新潟県の街道』(1994郷土出版社)は、越後国内の街道、宿場間についてまとめられた数少ない書籍である。三国街道(二)川口宿から寺泊については他にはない参考になる記述である。この三国街道とは別項に小千谷村が宿駅となる魚沼街道がある。しかし、本文には詳細な記述はないが、道筋を示す「街道概略図3」の点線は実際の街道とは異なっている。

『新潟県歴史の道調査報告書 第六集』(1994新潟県教育委員会)には魚沼街道の小千谷村について記載されている。『小千谷市史』など過去の書籍の引用(孫引き)が殆どで、古記録を含め現地調査などが行われていない記述が見られる。
《近世初頭の三国街道と小千谷村》
三国街道は、堀直竒(ほりなおより)によって整備された。慶長10年(1605)頃には「湯沢、関、塩沢、六日町、五日町、浦佐、小出嶋、堀之内、川口、薭生」が三国街道筋の村として見える。
小千谷は三国街道筋から外れている。一般的な書物では三国街道の脇宿と言われる。この場合の脇宿とは、三国街道を迂回をして小千谷を通る脇街道または他街道に分岐した宿の意である。三国街道を往来する参勤交代など交通往来が、三国街道の宿としてわざわざ街道から外れ、信濃川を渡河し小千谷に休息や宿泊する必要はなかった。
しかし、小千谷は主要道から外れても結節地として重要視された。そして、時代ごとの領主が魚沼を支配するための出先機関を置いた。
高田藩松平光長支配(1624~1681)には、魚沼郡の領地を統括する陣屋(政庁)が置かれていた。高田藩は、佐渡の金を江戸に運ぶ三国街道に対し、上田の銀を高田に運ぶ輸送路を重要視し、魚沼と高田を結ぶ街道を整備した。
《高田道》
小千谷は、魚沼と北国街道を結ぶ脇街道の起点として宿駅となり、小千谷と柏崎を結ぶ街道は高田道(別名塚之山道、魚沼街道など)と呼ばれた。小千谷村町通りの名請け人には、川口宿と塚之山宿間の公的な物流が滞りないように、継立ての負担をする役家が割り当てられた。また、高田道は越後上布や青苧など魚沼の産物を柏崎に集積する街道としても往来に賑わった。
《三国街道の脇街道と小千谷》
江戸時代中期以降、三国街道の難所榎峠と天王を避ける長岡道「妙見ー三仏生ー千谷ー千谷川ー小千谷」から慎知ヶはばを通る善光寺街道「山本ー吉平ー塩殿ー牛ヶ島」を結ぶ三国脇街道の中継地としても栄えた。また、「木津ー中子の渡しー小千谷」から最短ルートで出雲崎ー寺泊への与板道に向かう起点の宿場町でもあった。
『小千谷市史』の記述は、古記録などと合わせ検証した結果なのだろうか?
信州往来の道筋は複数あり、どの道筋も一名「善光寺街道」と呼ばれる。
「右 善光寺街道十日町・千手」の説明にある山本山西麓の道は、江戸時代後期に寺小路から上ノ山に抜ける道筋が頻繁に利用されるようになり、善光寺街道と呼ばれるようになった道筋である。
これに対し山本山東麓の道は、古くからの善光寺街道で信州往来の主要道である。
『小千谷市史』所収の天和絵図写
高田道、千谷川道、山本道が見える。

現在の地図に小千谷村絵図記載の街道、小路を諸家の古文書をもとに当てはめた。

『小千谷市史』記載の地図
五智院脇を通り南原に登る善光寺街道の記載が無いなど部分的に謎が多い。
番所から南原の信濃川沿いは慎知ヶはばと呼ばれ、信濃川の洪水によって度々削られいったが、善光寺街道は古来から慎知ヶはばを通ったと伝えている。
道標が建てられていたと伝える場所が間違っている可能性はないだろうか?
「左 江戸街道長岡・三条・新潟」は、小千谷村絵図の千谷川道(別名長岡道)を指す。千谷川を経由し、三仏生から妙見に渡り三国街道(江戸街道)へつながる。『市史』の説明は、小千谷から中子に渡るとするが、中子ー小千谷は三国街道と高田道、与板道を結ぶ渡しである。
長岡・三条・新潟への往来は、三国街道の牛ヶ島ー妙見間の難所天王と榎峠を避ける道筋として小千谷を通る脇往還道である。
《『小千谷市史』記述の信憑性と小千谷村》
『小千谷市史』などで小千谷村は、東氏、中町氏、佐藤氏、吉沢氏の四家が近世初頭の重立ちで、村政が行われていたと言われる。この四家は商人としての財力を背景に勢力があった家であったが、必ずしも小千谷村の草分け的存在であったとは限らない。中町氏については、別項で記した通りである。
佐藤半左衛門家は、町通り中央で中町氏屋敷の通りを挟んだ隣に屋敷を構えたと『小千谷市史』では記述する。江戸時代後期に他家と交代しながら小千谷村庄屋を歴任するが、あくまで庄屋格である。財力はあるものの七品運上請負(ななしなうんじょううけおい)で苗字帯刀を与えられる役目を負わなければ家柄を維持できなかった。吉右衛門は、堀之内組で刀を振り回し、各村の庄屋達から訴えられる程であった。
佐藤氏は、由緒などない山師であるのだから、請負人にしがみつくのは当然のことであった。
「庄屋格」とは庄屋であっても、正式に庄屋ではないことを指す。家柄または庄屋株で庄屋になれる家は決められていたため、江戸時代後期に小千谷村で豪商が庄屋となっているのは、あくまで庄屋格としての形式である。
吉沢氏は、一時、大肝煎りを勤めるまでの家格であった。吉沢本家は、他村からの流入または中世の中使で庄屋の家格を持っていたと思われる。近世中期に分家筋が財をなし、藤五郎家は『北越雪譜』にも登場する豪商であった。藤五郎は七品運上請負で半左衛門や他の小千谷村庄屋を務めた家と入札で競っている。
七品運上請負とは、魚沼で生産される産物「縮・白布・木呂・杪・茶・白布・小白布・続布」の租税を領主に変わって徴収する請負のことである。
小千谷村は、幕府領であったことから苗字帯刀が簡単に認められなかった。近隣の村にもその事例があり、近世初頭に川口組大肝煎りを務め、川口宿の本陣であった中林家では、公式文書で苗字帯刀の記録が残されているのは、私領長岡藩時代のものだけである。
このことからも七品運上請負の苗字帯刀の権限は、小千谷村の商人にとって魅力的な請負であったと思われる。
江戸時代中期以降、小千谷村の庄屋は度々変わるようになった。佐藤氏をはじめ、家柄では庄屋になれないが財力によって庄屋格となる中堅勢力が増えている。
江戸時代後期には、年寄りとなった新興勢力の有力商人が輪番で庄屋となっている。小千谷村庄屋の交替は特殊な事情があったようであるが家格が認められることはなく、東家を除く庄屋はあくまで庄屋格であり、庄屋となったわけではなかった。そのため、七品運上請負などの役目以外でも、金銭を領主に献上し、一代限りの苗字帯刀を得た家は少なくない。しかし、『小千谷市史』にはそのことについての記述はない。
無断転載禁止©2018雷神





