上田庄は、鎌倉時代から南北朝初期に新田氏が治めた。その後、南北朝の騒乱で北朝として活躍した上杉氏が越後守護となり、上田庄は康永3年(1344)に、山内上杉氏の所領として見える。康安元年(1361)、上杉憲顕は将軍より上田荘を賜った。

〔山内上杉氏の始まりと上田庄〕
上杉憲顕は山内上杉氏の祖となり、関東管領と越後守護を兼ねた。
上杉憲房は、子の憲顕(山内上杉)と憲藤(犬懸上杉)に分配相続させた。憲藤の系統は、越後守護上杉氏となる。越後の所領は山内上杉氏と守護上杉氏で二分され相続されていくことになった。(「上杉憲実置文」)
永徳2年(1382)、上杉憲方は兄憲春の遺領上田庄三分の一と千屋郡国衙職を相続する。憲方は山内上杉氏を相続し、関東管領となる。
明徳4年(1393)、将軍が父憲顕の旧領の上田荘(三分の二ヵ)と千屋郡国衙職を与えた安堵状の再発行を上杉憲方にする。
文安元年(1444)、上杉憲実は次男龍春に上田荘と国衙半分を譲る。龍春は上杉房顕の幼名で山内上杉氏10代となる。

上田庄の大部分は、関東管領の山内上杉氏に伝領された。在地支配は山内上杉氏と結び付きの強い被官が配属された。

〔上田長尾氏〕
上田長尾氏は、関東管領山内上杉氏の一被官として上田庄に入部した。魚沼郡司として上田庄と千屋郡国衙領を任されとも言われるが、勢力を拡大したのは戦国時代初期以降のことである。

『新編会津風土記』、『六日町史 資料編1』、『新潟県史』などで歴代の上田長尾氏を追ってみる。

上田長尾氏の初代は、古志長尾氏の初代景春の子景実とされる。
上田長尾氏として史料に登場するのは房景からである。
景実-房景-清景-顕吉(憲長-景隆)-房長-政景
これら、上田長尾氏の歴代当主は、浦佐普光寺文書によって知られている。
『新編会津風土記』

応永11年(1404)兵庫助(景実ヵ?)書状
享徳4年(1455)兵庫助房景書状
長禄3年(1459)長尾肥前(房景)書状
寛正2年(1461)肥前守(房景)制札
文明5年(1473)肥前守房景書状
同7年(1475)肥前守房景 兵庫助顕秀書状
文明17年(1485)長尾七郎(顕景ヵ?)禁制
文明19年(1487)清景制札
延徳3年(1491)前肥前守顕吉書状
明応5年(1496)肥前守顕吉書状
永正7年(1510)上杉憲房感状長尾肥前守顕吉宛
天文2年(1533)越前守房長書状


上田長尾氏の菩提寺龍言寺跡地
《上田長尾氏史跡公園》
龍言寺跡地には、平成21年度(2009年)大河ドラマ「天地人」のゆかりの地として、平成19建立された歴代の上田長尾氏墓碑群がある。現代の真新しい墓石群は、戦国の遺物と無関係である。長尾房長以前の歴代上田長尾氏の拠点と当主については諸説あり不明確で墓石などの遺構は存在しない。
龍言寺は景勝移封とともに米沢に移転されたため、当地に残されていたのは御館の乱後に造られた長尾政景の塚と塚を守る地元の人々が造立した長尾政景公墓碑であった。
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○上田長尾氏史跡公園条例

平成21年6月18日

条例第38号

(設置)

第1条 郷土の歴史及び文化に対する市民の理解と関心を高めることを目的として、上田長尾氏史跡公園(以下「史跡公園」という。)を設置する。

(位置)

第2条 史跡公園の位置は、南魚沼市坂戸627番地1とする。

(管理)

第3条 史跡公園は、南魚沼市が管理する。

(使用料)

第4条 史跡公園の使用は、無料とする。

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関東管領家とともに越後に入ってきた上田長尾氏であるがその素性は定かでない。
越後長尾氏系統は、一族として嫡流ー庶流関係はみられない。長尾氏は、貞治2年(1363)以降、越後の荘園と国衙領が関東管領山内上杉領と越後守護上杉領に二分されたことで、それぞれの越後長尾氏が仕えた上杉家も異なり、大小さまざまな独自の在地支配をした。
上田長尾氏は、上野の白井長尾氏や総社長尾氏と同様に関東管領上杉氏の直属被官であった。越後守護の被官であった越後守護代府内長尾氏や古志長尾氏とは、早い段階で分かれ派生していると考えられる。
上田長尾氏の上田庄への配置は、有力な長尾氏一派の独立ではなく、小領主の家臣として越後に送り込まれたことから始まる。

管領家に仕え、上田庄に所領を得たのは上田長尾氏だけではない。「雲洞庵文書」には尻高氏、発智氏、今泉氏などの諸氏が在地被官として見える。
上田長尾氏が坂戸に在し、魚沼郡司として治めたと言われるのは、関東管領家が永正の乱(1507~)を画期として魚沼の所領を失ってからである。「越後以来穴沢先祖留書」には坂戸城は上田城として見え、坂戸山を本格的に要害として築いたのは長尾房長とする。
古志長尾氏が古志郡司として記録に見えることから、他の長尾一族も同様に、郡司として各地を在地支配をしたと記載されている文献が多いが、それは戦国時代に入ってからのことである。
『六日町史』資料編1

「雲洞庵上萱葺注文」雲洞庵文書
関郷に長尾肥前守。
塩沢郷、石白郷、大太郎丸、美佐島郷は空白。
富実郷に尻高越中守、坂戸郷、小太郎丸、枝吉名、木六、鷹俣に尻高。千屋郷に尻高左京亮。
この文書は年未詳(戦国時代初期ヵ)であるが、上田庄は、関東管領代官の尻高氏が治めていた。南北朝時代末から戦国時代初頭にかけては、富実郷、坂戸郷といった上田の中心地は尻高氏の領地であった。坂戸城が南北朝時代末また室町時代に築かれた山城とするなら、上田長尾氏でなく、尻高氏の築城であろう。


「大木六龍泉院古文書」
寛正4年(1463)尻高亀鬼丸寄進状があり、尻高氏の在地支配が見える。

『梅花無尽蔵』
長享2年(1488)
関東管領上杉顕定は、尻高孫四郎(孫次郎)を越後上田の大義寺への道案内として万里に同行させた。
大義寺は上田庄田中に所在した。(旧塩沢町南魚沼南田中に比定される)
大木六安楽寺住職は孫四郎の弟。
『大和町史』は「南魚沼上田の武士尻高孫四郎」としている。

同時期の記録として『越後過去名簿』には、「長享2年(1488)上田庄木六郷 尻高右京亮」とある。

『歴代古案』には、永正6年(1509)上杉顕定書状に尻高左京亮が見える。

「越後国々知行所之事」高梨文書
下剋上によって越後守護上杉定実を傀儡とし、長尾為景が勢力を握ると尻高氏の領地は高梨氏の所領となった。
越後の永正の乱で尻高氏は、関東管領上杉氏とともに越後から没落し、長尾為景へと鞍替えした上田長尾氏が上田庄だけでなく、魚沼郡の支配を握ることになった。

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