寛政重修諸家譜』に補足しその後の直竒の足取りを辿る。

〔一藩独立の大名へ〕
「慶長15年(1610) 直寄、直次と争論のことあり。駿府にをいてその曲直を糺名せらるゝにいたり、直次終に非義に決し、最上義光にめしあづけられ、松平越後忠俊も封地を没収せらる。このとき直寄は旧領5万石のうち、1万石を削らる。このとし東照宮より信濃国飯山城4万石をたまはり、駿府に候す。」
(寛政重修諸家譜・巻第七百六十六・藤原氏・利仁流・堀)

〔解説・補足〕
慶長十一年(1606)堀秀治は死去した。子忠俊は幼年であったが、堀直政の尽力によりその跡を継いだ。
慶長十二年(1607)、福嶋城が完成し、忠俊は春日山城を廃止して移る。福嶋城はその城下町の建設と共に近世的な平城として築かれた。慶長五年頃から建設が開始されたと言われ、越後一揆により一時中断したが七年の歳月を経て完成した。越後一国を統治するに相応しい大藩の城郭であったと伝えられる。
(✳福嶋城は、僅か七年で廃城となっているため謎が多い。一説には、加藤清正が熊本城築城に際し、家臣を見聞させたと伝えるほど名城であったという。現在、遺構のほとんどが残されていない。)

慶長十三年(1608)、堀直政の死去でその子直清(直次)と直竒によって春日山藩政が取り仕切られるようになる。直清は直政の跡を継ぎ幼い忠俊の後見役となる。しかし直清は藩政を独断専行するようになり、直竒との仲違いから、主家を巻き込んだ堀家のお家騒動へと発展した。
直竒は、駿府の家康に訴えその裁きにより、主君堀忠俊は改易となり、直清は除封され最上家へ預けられた。
直竒は、一万石を削減され四万石で信州飯山藩へ移封となった。減封であるが直竒は、堀家のお抱え与力大名から一藩独立の大名となった。主家を滅ぼし、下剋上の様相だが、幕府の思惑は、越後一国を統治する外様大名を取り潰す機会を伺っていたとも言われる。


〔長岡のまちづくりと長岡藩の立藩〕
「 慶長16年(1611) さきに駿府火災あるとき、直寄すみやかにはせ来たりてうち消しかば、その賞として美濃国多藝郡のうちにをいて1万石を加増せられる。
 慶長19年(1614) 大坂の役に御後備となり、住吉より茶磨山に御陣をうつさせたまふのとき、仰をかうぶりて御旗本の先駈となる。
 元和元年(1615) の合戦には、直寄大和口の軍将水野日向守勝が手に属し、4月24日仰をうけて陣を2隊に備ふ。直寄士卒をひきゐて南部にいたり、1番に備へ、松倉備後守重正は2番に備ふ。26日諸将河内の境十三塚法隆寺辺に陣す。直寄は高安卿にそなへ、弟三右衛門直之等が24騎を斥候とし、敵の形勢をうかゞはしむ。このとき敵すでに国分寺を焼払ひ、道明寺に陣す。直寄勝政が陣に夜討せん事を盛り、高安卿より法隆寺に番兵を置事数日なり。5月5日諸将大坂勢を攻撃べき厳命をかうぶり、古来の吉例によりて田尻越よりきそひすゝむ。ときに直寄亀瀬越にいたる。村里の老父をよび徒卆直寄を練て、往昔物部守屋この路を経て終に敗亡にいたりしより、このかた大将たるもの亀瀬越を歴ることなしといふ。直寄がいはく、命を軽じ戦場にのぞむもの何條かゝる事を忌避んやと、すみやかにうちこえ、国分寺にいたりて張陣す。6日卯刻の合戦に、直寄徒兵を分ちて横槍を入、多数をかけやぶり、首級を得たり。7日敵軍天王寺辺に出張し、いどみ戦ふ。直寄諸将にはせくはゝり、大勢をつきくづし、首80級を得てたてまつる。両日のたゝかひに討取ところの首すべて200余りにをよびしかば御感の仰をかうぶる。」
元和2年(1616) 4月朔日東照宮、直寄を御病牀にめされ、此後もし天下に反逆を企るものあるにをいては、1番合戦は藤堂高虎2番は井伊直孝、直寄は両備の間に在て、横槍を入べしとの恩命をうけたまはる。このとし3万石を加増せられ、飯山城を転じ、越後国長岡城をたまひ、 元和4年(1618) 4月9日また2万石を加恩ありて、すべて10万石を領し、越後国村上城にうつり住す。」
(寛政重修諸家譜・巻第七百六十六・藤原氏・利仁流・堀)

〔解説・補足〕
直竒は、駿府にて家康に仕え、度重なる功績と大阪の役の活躍により加増を果たす。
元和二年(1616)、病の床にあった家康は直竒を呼び出し、藤堂高虎と井伊直孝に並ぶ武将として徳川を守るようにとの遺言をした。逸話では家康から百万石のお墨付きを拝領したとも言われる。

元和二年(1616) 、直竒は再び越後に戻ることになり、信州飯山五万石から越後蔵王堂へ八万石で入封する。
蔵王は、坂戸藩時代に都市移転を計画し途中で頓挫していた地であった。直竒が長岡のまちづくりを開始したのが慶長十年(1605)頃と言われる。
蔵王は、南北朝の騒乱で、古志の要の地として激戦が繰り広げられた地域であった。越後揚北衆三浦党の中条氏が本陣としたことでも知られる。
騒乱後、上杉氏の越後入部に従った長尾氏の一派(後の古志長尾家)が蔵王堂を拠点として、古志郡、刈羽郡を守護代的立場で支配した。これが蔵王堂城の始まりと言われる。その後、古志長尾家は栖吉に拠点を移したが、信濃川通船を監視する支城の役割を果たした。
古志長尾家が御館の乱で滅ぶと景勝の番城となる。
その後、堀氏の入封により、信濃川通船の要衝の地として蔵王堂藩が立藩する。
旧来からの要衝であったが、信濃川河戸に近すぎ氾濫による被害も度重なる地でもあり中世的な城下形態であった。
長岡に近世的な城郭と城下町を形成する雛形は坂戸藩時代にすでに出来上がっていたのかもしれない。そして直竒は蔵王堂藩を廃止して長岡藩を立ち上げる。支配地域は古志郡、魚沼郡、三島郡、刈羽郡、蒲原郡の五郡内で、坂戸藩時代の旧領に加増した三万石を加えた地域を支配した。
直竒は越後に入封した十月、領内に「置目十三ヵ条」を通達している。
給人や代官の不正行為を禁じて、百姓の安定した経営を維持しようとする政策は坂戸藩時代から一貫したものである(『広神村史』)。坂戸藩時代の慶長九年三ヵ条の掟書では、給人の非分を禁止し、年貢米を計量する桝を統一し、農民の不利益を停止する農政の原則を打ち立てている(『大和町史』)。
新潟湊では、新潟の築港と都市建設も二年弱と言う僅かな期間で形成される。長岡城下町と同様に坂戸藩時代からすでに構想があったのだろう。

新潟市歴史博物館 企画展 近世黎明―堀直寄と新潟―より新潟諸役用捨之覚(新潟市歴史博物館蔵、新潟市指定文化財)

しかし、直竒はまたしても移封を申し付けられる。村上藩十万石と佐渡金山の差配である。
佐渡金山は老中に家康のお墨付き百万石を反故にされた代わりに与えられたものである。
長岡城と城下町の建設は、牧野氏に受け継がれ完成されたと言われる。直竒の長岡整備がどこまで進んでいたかは定かではないが、ほぼ完了していたのではないかと思われる。実際、新潟湊については、直竒がすべて整備を完了しており、牧野氏統治後も直竒の慣例に従う政策を採っている。長岡もまた、「堀丹後守御証文通り」として、いささかの不便もきたさなかったと伝える。実際、牧野氏が始めて長岡に入ったのは寛永七年(1630)である。明暦年間(1655-1660)の改正まで直竒の制度を踏襲し、40年近く牧野氏は独自の制度を立ち上げることができなかった。

越後国古志郡之内長岡城之図(国立公文書館デジタルアーカイブ)


〔直竒の晩年〕
「 寛永6年(1629) 12月26日台徳院殿直寄が邸に渡御ありて、助国の御刀貞宗の脇差をよび黄金200両を賜ふ。
 寛永7年(1630) 2月13日大猷院殿直寄が宅に渡らせたまふのときも、助光の御腰物黄金200両を恩賜せらる。
 寛永11年(1634) 6月御上洛の供奉をつとめ、しばしば御旅館に候す。
 寛永16年(1639) 6月29日卒す。年63。」
(寛政重修諸家譜・巻第七百六十六・藤原氏・利仁流・堀)

〔解説・補足〕
台徳院殿は徳川秀忠。大猷院殿は徳川家光。
寛永8年(1631)、上野寛永寺に上野大仏(釈迦如来坐像)を建立する。 


一昨年末に開催された新潟市歴史博物館の堀直竒の企画展。
堀直寄寿像(御寿影)狩野探幽筆」(新潟県立歴史博物館蔵)
【 展示期間 】平成28年12月10日~平成29年1月9日

開催趣旨

今年、江戸初期の大名堀直寄が越後に入部し、新潟を領有してから400年目を迎えます。
戦国時代が終わり、平和な時代に移り行く中、直寄は新しい社会の建設のために奔走しました。直寄が行った政策は新潟湊の発展や農村における新田開発に繋がるなど、今日の新潟市域にあたる町や村にも影響を与えました。
 直寄の越後入部400年を機に、堀直寄や直寄の生きた時代の新潟について、古文書や絵図、絵画などから探ります。








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