『小千谷文化』第248号(令和六年三月三十一日発行)
「表紙写真」
江戸時代古文書
「魚沼郡職人肝煎草野久右衛門尉」
江戸時代寄進扁額
「魚沼神社・久保田家、井口家、小田島家寄進・久保田稲荷」
江戸時代古文書
「岩沢村古文書・律令要約、岩沢村天和検地帳」
「明治期吉谷村神社明細書上」
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小千谷地域の起源
 論考吉谷・土川・岩沢・千谷川
「鎮守の由緒と地域の歴史」
  村落空間の復元的研究
     本協会ホームページ作成管理者
               小野坂頼甚 
〈研究ノート〉
――表紙写真とその周辺――
『令和版 小千谷市史』の提唱
その16 新しい視点

第一編・続編
「吉谷の地名から歴史を紐解く」
一、「藤田沢の八幡様」と
   「大宮の地名」

二、大宮の地名に隠れた
もう一つの由緒
大熊家が繋ぐ藤田沢と刈羽郡別山

第二編 
村落、御朱印・寺社領の違い

 「土川村の歴史論考」
小千谷市土川・魚沼神社
 一、「土川天王の格式」
 二、御朱印領と百姓・職人村の共存

「岩沢村の歴史論考」
  小千谷市岩沢
    大崩集落の鎮守白山社

「千谷川村と草野久右衛門尉」
  草野家の由緒を仮冒した
        千谷川星野家
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Facebook版歴史コラムより
 地域の歴史は鎌倉武士の時代、南北朝の戦乱、上杉家支配の室町、戦国の世、
500年あるいは600年も前から受け継がれた歴史がある。
400年前の江戸時代に入っても「個人としての自分たち」という概念は存在せず、「家の一員」として家の役割を維持し後世に繋ぐため、家世の意思によって個人は活動してきた。
 江戸時代初期(400年前)の変革で大きなものは土地の開発による発達であろう。
この変革は、地域住民の共同による開発でなく、特定の「家」が領主から開発権利を取得し、雑木林の荒地を開発し、富を得る仕組みを形成した。江戸時代初期の「役家制度」における庄屋の役割は、新田開発に成功した村落ほど元和・寛永期にかけて古庄屋・肝煎に交代し庄屋に取り立てられた開田庄屋が出現する。開田庄屋の多くは村の草分けを名乗り、古庄屋の由緒を仮冒するが、元来は、新たに開発を請負って江戸時代の村を拡大した庄屋の由緒が歴史的な流れである。

 更に300年前からは、新田開発の奨励によって、小作農の自立が進んだが、貨幣経済の発達によって地域共同体の中で「地域をまとめる能力」の不足した一部豪農の成長によって、農村は疲弊していく。
自分達で話し合い行動する個人的な概念が介在した「豪農」と地域共同体の運営を担う「豪農」が並立して存在した。
 小千谷町は、その最たる事例であり、江戸後期の輪番庄屋には、後ろ盾として町年寄・組頭が村営の実務を司る役割をになった背景がある。特に幕末の輪番庄屋(佐藤半左衛門、西脇吉郎右衛門)における町年寄広川兵衛家、能登屋野沢五郎右衛門家、小鶴屋野口定右衛門家の村営記録は顕著である。

 これら、地域史の裏付けは、『小千谷文化』240号から継続する「村落空間の復元的研究で、その根拠を示すものである。
 今号248号では、第一編に前号247号吉谷の続編、第二編では、240号から247号まで掲載した様々な地域史の続編とも位置付けられる。
 土川の天王・岩沢大崩と大渕家・千谷川と紺伝草野久右衛門家の項では、Facebook掲載の記述に加筆したもの、新発表となる記録を交え、500年、600年と戦国時代以前からの歴史を繋げてきた集落と「家」を掲載する。

 新潟県内における文化行政や公共機関での情報発信は、この地域史における根底の概念を揺るがす創作の歴史を語り始めている。中には歴史の創作を行っても許される文化行政の風土と一般市民がそれを採用し異質を正常に変換し拡散する事例も存在する。(『小千谷文化』第243号掲載・新潟県遺跡地図一覧表ほか)
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