朝の目覚めは穏やかだった。
いつもより遅い9時に起き、冷蔵庫から牛乳を取り出しラッパ飲みし
食パンを一枚流し込んでから顔を洗った。
10時30分からの試験に備えカバンを準備し外に出た。
一層強い夏の日差し、自転車のサドルも熱を帯びていた。
エリコにはまだ電話をしていない。
昨日の夜も電話をしようとして躊躇った。
僕自身がどうしたいのか、エリコが何を思っているのか
結局整理が着かないままベッドに横になってしまった。
ただ「もっと話がしたい」と感じていた。
試験は滞りなく終わった。ひとまず来週の月曜日まで学校に来る必要もない。
提出しなければならないレポートの提出期限を確認し僕は自転車にまたがった。
12時を少し回った時計を見て携帯電話を取り出した。
昨日教えてもらった番号を確認し耳に押し当てた。
無機質な呼び出し音が続く。
6回、7回・・電話はつながらない。
そのうち留守番電話サービスを告げるアナウンスが聞こえ僕は電話を切った。
取り敢えずマンションに向かおう、着替えてからでも遅くはない。
マンションに到着し携帯電話を取り出したもののエリコからの着信は無かった。
カバンを放り投げ、汗まみれになったシャツとGパンを脱ぎシャワーを浴びた。
ユニットバスのドアを少し開けて電話の呼び出し音が聞こえれば
すぐに飛び出せるようにしていたけれど全身を流し終わっても
携帯電話は鳴らなかった。
エアコンが全開で部屋を冷やしていく。冷風に体をさらした。
何となくお腹も空いてきた。
エリコと連絡が取れれば昼食でも、と安易に考えていた。
冷蔵庫のペットボトルのお茶をマグカップに注ぎ、ベッドの下の棚から
着替えを取り出した。
僕はもう一度携帯電話を手にした。
呼び出し音は続いた。5回、6回・・でつながった。
『ごめんね、永井君!全然電話に出られなくて。お茶飲んでいた喫茶店に
忘れてたの。ずっと電話探してて・・』
慌てている様子がはっきりと脳裏に浮かんだ。僕が喋る隙すらないほど
エリコは言葉を続けた。
『で、清水寺でかんざしを買ってから桜餅食べててそこで忘れてたみたい』
「今どこにいるの?」
やっと喋ることが出来た。
『えっ、今?ここは円山公園。八坂神社のところ。でも人も車も多くて大変』
「四条は山鉾巡行してるから動けないよ。何処かで待ち合わせしようか?」
『ちょっと待ってて。今マンションにいるんでしょ?タクシーだから近くまで行く』
と言って電話は切れた。
僕は我に返って部屋を片付け始めた。
携帯電話が鳴った。
『すぐ近くの交差点で降りたの。コンビニの前にいるから迎えに来て』
僕はマンションを飛び出した。
エリコはピンクのボストンバッグを持っていた。
「ちゃんと待ち合わせ決めておけばよかったよな、昨日のうちに」
『夕方の新幹線で帰るもん、大慌てよ』
「うちに来る?ってそのつもりだよな・・」
『一回休ませてよ、京都は暑すぎる』
僕はエリコが持っているバッグを手にした。僕の想像よりは軽いバッグを受け取り
エリコはホッとした表情になった。
玄関を開けるとエリコは驚いたように僕を見上げた。
『男の人のひとり暮らしって結構きれいに生活するものなの?』
「思いも寄らない訪問者のために片付けたんです」
『結構広いんだね。お邪魔します!』とスニーカーを脱いだ。
僕はバッグを台所に置いた。
「俺、腹空いてるんだけどピザでも頼もうか?」
『それはお任せします』
僕は小さいサイズのピザを2枚とサービスのドリンクを頼んだ。
『京都って何でこんなに暑いの?もう信じられない』
「俺も初めてだし何とも言えないけどあまり風は吹かないよね。
窓を開けたら熱気しか入ってこないし・・」
エリコは机の上にあった昨日もらった僕の団扇でバタバタ仰いでいた。
『京都には住めないわ、ゆで上がっちゃう・・』
と思い出したように台所に置いたバッグに近付いた。
『見て、このかんざし。修学旅行の時のとはちょっと違うけどきれいでしょ』
漆塗りの黒いかんざし。桜の花びらのデザインが一際目立っていた。
『これで思い残すことはないわ。そうそうこれお土産』
エリコが取り出したのは黒地の扇子だった。
『桜の花びらの模様でかんざしと同じデザイン。センスいいでしょ?』
「それって洒落てるのか?」
『ちょっとは嬉しそうにしてよ。最初買った扇子と交換してもらってるんだからね』
「サンキュ。これでちょっとは涼しくなるかな」
ピザが程なく届いて僕らは食べながら昔話に花を咲かせた。
小学校の担任の先生と会った話、中学の同級生の話。
中学の時に僕が秘かに思いを寄せていた女の子が
バイト先の店長と結婚したと聞いた時には少なからずショックだった。
高校の時に僕が付き合っていた1つ年上の先輩は地元のミスコンで
グランプリに輝いたそうだ。祭りのキャンペーンポスターにも掲載されているらしい。
一気に空白を埋めるような会話が一頻り続いた。
「それでずっと聞こうと思っていたんだけどなんであのハガキだったの?」
『元気?』
と書かれただけの1枚のハガキが送られてきた意味が未だに解らなかった。
『あのハガキで何も返事がなかったら巧君と付き合うことになってた』
「ええっ、何それ?」
『中学の時からずっと付き合ってくれ、付き合ってくれって言われてたんだけど
ずっと無視してたのね。それでこの間また電話が掛かってきて・・』
「断ったの?」
『誰か好きな奴がいるのか?って聞かれたから・・』
微妙な沈黙が僕らの間を包んだ。
『永井君にその気がないなら別にいいんだ』
ポツリとつぶやいたその一言が胸を突いた。
「飲み物無くなったし、何か買って来るよ、ちょっと待ってて」
すぐ近くのコンビニで缶ビールを2本を買った。
僕は慌てて部屋に戻った。エリコはテレビを見ていた。
「ビール、買ってきた。一度してみたかったことがあるんだ」
エリコの横を一足飛びにベランダの窓を開け放ち缶を揺すった。
「エリコも、ほら」
缶ビールを投げるとベランダに手招きした。
僕はプルタブを起こし勢いよく飛び出すビールをエリコに向けた。
エリコも勢いよく缶を振りながら僕に向けてプルタブを起こした。
僕らは顔にかかったビールを拭いながら笑った。
「もっと買ってくればよかった?」
『すっきりした。気持ちいいね』
缶を逆さまにしてはにかむエリコを僕は抱きしめた。
「わざわざ京都に来てくれてありがとう」
エリコは僕の耳元にキスをした。
『着替え、もうこれしかないんだぞ・・』
「洗ったらいいよ、俺のも一緒でよければ・・」
エリコはうなずき、僕らは長いキスをした。