「生きる」ということの意味を考えている時に、僕はこう考える。

「生きる意味」に限らず、言葉で遊んでみれば視野は広がる。

「生きている意味」とは何か。
「生きた意味」とは何か。
「生きてきた意味」とは何か。
「生きていく意味」とは何か。

そして、「生きる」とはなんなのか。

生きている意味と生きた意味は全然違うはずだ。
だから、その時点で視野は広がるだろう。

また、過去と現在と未来で考えると意味が変わってくる。

過去をどう生きてきたのか?
これまでどう生きてきたのか?

そして、未来。
未来の僕は生きた意味をなんて言うんだろうか?
「なんて言いたいのか?」
ということを考えると、結局「生きる」とは一言では形容し難いものになってくる。

それが「考える」ということである。

考えるという行動を取っていると、1つのことを突き詰めるためにあらゆる要素が出てきて混乱してしまう可能性があることにも気付けるのだが、
そこから、その「1つ」にまた話を戻しながら考えていくという作業が必要になる。

つまり、思考は勝手に右往左往するのだ。そんなに慌てなくてもいいのに、あっちこっちに飛んで行く。
それを元に戻す作業は、意識しなければ絶対に出来ない。

みんな、いつのまにか「考える」から「思い巡らす」に変わってしまうのだ。

僕が横断歩道に立って、ふとラジオで話していた「炭酸も添加物ですよ」という話を思い出していた時に、
無添加物にこだわり、添加物を毛嫌いし、添加物で子供がアホになるとばかり言っていながら、その当の本人の娘は皮膚がかゆいかゆい!と言って、大変だ・・・
みたいなことを言っていたことを思い出していた時に、「添加物とか気にしている人の娘が、添加物気にしない人の子供達よりも、かゆいんだな」
と、なんだかなぁって思っていたりしたのだけど。

そこから「添加物って何?」「炭酸すら添加物だよ?」「添加物の定義って何?」「世の中のほとんどが何かを添加しているよ」「というか料理に醤油を入れたらそれは『添加』なんだけど・・・」「添加物の定義がわけわからず添加物がどーのこーの言ってんじゃないの?」
っていうことを考えていた。

添加物は、ただの化学物質なのだけれど、世の中の全てが化学物質なので、添加物という考え方にそもそも偏りがあるのだけれど・・・

「あ、そう言えば僕、この間沖縄そばを無添加で作っていたら全然美味しくできなくて、しょうがなく味の素を使ったなぁ。一応まとまってはいたけれど、でもやっぱり「添加物っぽい味」というか、「味の素の味だなぁ」と思って、失敗だなーって思ったりしたので、今度作り直したいなぁ。」なんて考えていた。
そうだ。今度作ろう。今度作る時は、豚肉とかどこで買うかなー。出汁は茅乃舎だしがいいなー。塩はあまり変な塩を使わないようにはしたいけど、自然塩も硫黄の匂いすごいからなー。なんともなー。
そういえば、ラーメン最近作ってないなー・・・

と、長くなってしまったのだが、最初の「炭酸は添加物」という話はどこへ?というように、思いは暴走していくのである。

ものの例えで、炭酸は添加物ということに意識を集中し、突き詰めて考える必要はまったくないのだけれど(笑)、
でも、「生きる」ということを考えるのなら、そこは「生きる」に戻して考えた方が良いだろう。

生きることを考えているのに、いつのまにかラーメンにまで思いが発展していく。
いやいや!ラーメン関係ないっしょ!いや!ラーメンを生きがいにしている人もいると思うけどさ!僕にはとりあえずは関係ないんだから、話戻さないと!!!

という具合に、ブレまくる思考を一定のところへ戻し、さらに保つ必要があるのである。

さて、仕事をしていても、話をしていても、人間関係でも、健康のことであっても、投資家も、トレーディングをしていても、心の中に「まったく関係のない何かの思考」が暴走していないだろうか。
そんな状態で、何かを極めようなんてできるだろうか?いいや、出来ないのだ。

1つを突き詰める状態を「集中」と言うのだが・・・
人間は集中力が散漫になる傾向がある。リスクを回避するためだ。

これまで、集中し過ぎて頭をぶつけたり、集中し過ぎて人の話を聞いていなかったり、なにかと集中状態は日常生活で良くない結果を生んでしまうのだ。
それを学習している僕たちは、あえて集中しないように自然としてしまうのである。

となれば、1つのことを考えるのではなく、あえて意識を散漫にさせることにより、
外の情報にも気が向くように仕向けていると考えるのであれば、まさに思考が暴走する理由はわかるのだが・・・

それは、1人で過ごしている時にはそこまで必要無いのである。
むしろ、10%くらいを外に向けていれば、90%くらいは集中しても大丈夫なのである。
役者さんの感覚は、そんな感じのはず。集中しているのだけれど、俯瞰して見ているのだ。
というか、時間を決めればいいだけの話でもある。50分とか。10分休憩するとか。

しかし、集中していたとしても、俯瞰している部分がなければ、話の本筋を元に戻すこともできないのだから、俯瞰的な視点は常に確実に必要になってくる要素でもあるはず。

ということで、お気付きの方もいるであろう。
僕も、タイトルとは裏腹に話がどんどん発展していってしまうのだ。
「本題はどこへ?」と思ったあなたは、頭が良い。

さぁ、ここで話を戻そう。
話が変わっていることに気付かない人。

まさに、今の思考と同様なことを、他人に向けてやっちゃう人がいるのだが・・・
「集中力無い人なのかな?」と思ってしまうのである。

むしろ、全ての考えが浅いからこそ、思考が暴走してしまうのだから・・・
そういう人は「浅はかな考えしか持っていないのだろうか」と僕は勝手に考えてしまう。

さて、前述した「生きる」についてだけれど、
僕はその「生きること」を子供に置き換えて話をしている。

「子供のために生きる」というところを考えるのあれば、
僕は「思想」と「財産」と「名誉」を残したいと考える。
ほぼ、後世に残せるもののほとんどが、この3つに帰属するだろう。

名前を変えるのであれば、
「家訓」と「お金」と「賞賛」である。
まだまだ言い方を変えてみれば、
「哲学」と「土地」と「尊厳」とかだ。

僕は、この3つを子供に残したい。
正直、その3つを残すために生きていると考えても全然良いと思う。

大いなる構想はありつつも、まずは子供達だけでいい。
今僕の元にいる2人の子供達に、僕は残していきたいものがあるのだ。

ま、もう1つあるのだけれど、それは「血」である。「血統」である。
とにかく、僕は僕の血を残したい。受け継がれていくものが、血と共にあればいいなと思っている。

と、生きる意味については、まだまだ話ができるのだけれど、その「生きる意味」についての話をしている時に、こんなことを言い始める輩がいるのだ。

「生きることは不条理だ」と言い始め、「子供に何かを残せるのは良いことだけどでも最終的には子供が決めることだし」などと言い、「最終的には笑っていることが大事なんじゃないか」という、よくわからない話に終始する輩が居るのだが・・・話にならない。

「生きる意味」の話をしているのに、
「生きること」の話になっている。
「生きることの意味」ではなく、「生きること」の話に終始している。
それに気付いていないのだ。

そういうことじゃなくて、「なぜ生きているのかな?」という話をしたいのに。
「生きるってこういうことだ」の体裁だけの話をしている。
それに気付かないのだ。

一概には言えないのだが・・・それを言ってきた当の本人、そいつだけはバカであることは確実なのだ。理由は後述する。

はたまた、ぼんやりと僕の言う「子供のために」を否定してもいるのである。うざい。そしてバレバレである。
その浅はかで軽薄で軽はずみにもっともらしいことを言っているようで話の本質から自然とズレてしまう人は、
「あぁ、あなたは物事を深く考えられないのね。もっともらしい言葉を並べてはいるけれど、ただ僕を否定したいだけなのね・・・。」
と判断されてもおかしくはないだろう。
少なくとも、僕はそう判断している。

(この人ね、本当に浅はかで気持ちの悪いストーカー予備軍のめちゃくちゃな奴なんすよ・・・。本当にうざいんよ。やめてほしいって何度言ってもわからないんだよね。本当に嫌なんだけど、なんなんだろう。っていう奴なんだけどね。)


話がずれていることに気付いていない人は、この記事に書いたように深みが無いと判断しても、むしろされてもおかしくはないだろうと思う。


しかし、最後にここで1つ、実は補足説明があるのだ。

それは、「話をあえてずらす」という意識があるのであれば、まったく問題が無いということだ。

そんな意識をしっかりと自分が持っていて「うまくずらせた!」と思うような人間は、
これまた、「その話の道筋を立てることができる人」ではあるので、思考がしっかりしているとも言える。(意識している場合に限る)

だから、結局は「表裏一体」なのだ。
「話がズレる」のか「話をズラす」のか、どちらかである。
それが「どっちなのか?」なんて、極論を言えばわからない。わかるはずがないのだ。
その表裏一体を、僕が言葉だけを聞いて判断するのも、
また「浅はかこの上ないぞ僕」なのである。

軽率だの、むやみだん、軽はずみだの、言いつつ、そう思うことは実際にありつつも、
最後の最後には「さて、自分はどうだろう?」とは考える癖は付けておこう。

それが出来るのなら、自分は話の本筋をしっかり見つめられる人間で居られるはずだ。
生きる意味というよりも、生きるために必要なのは、「自分を成長させること」なのだから、その要素を常に残すためにも、自分はどうだろう?の自問は常に必要なのだ。

結局、奥深い人というのは、「自分をより知っている人」「自分を探求する人」なのである。
そうすると、自分と相手を置き換えて考えられることも増えていく。結果「想像力」が身に付いていくのだが・・・

このつづきはまた今度にしよう。