みなさんは「感情の解放」が自分に良い影響を与えるということはご存知であろうか。
いわゆる心理セラピストが抽象的な言葉を相手に言わせて涙が出てしまうあれである。
それを体験することで「人生が良くなる」らしいのだが・・・
僕はそれ、まったくとは言わないけれど、1日しか効果が無いものだろうなと思っている。
それは、感動する映画と同じことだ。

心の奥底にあるものを認識する?
違う。涙が出る言葉があるだけであって、心が解放される訳ではない。
そもそも、それをしている人も、それをされている人も、劇的に変わった後の話を一切聞かない。
実際、それを体験している感じを目の前で見たことがあり、その人は泣いていたけれど、後日はと言えば特に変化はしてなかった。
はっきり言って、僕もそれをされるとたぶん涙が出るんだと思うのだが・・・
涙が出てもなんの意味もない。すっきりもしない。ただ、目が腫れて疲れるだけだ。

心を洗うとは言うけれど、僕にとっては涙を流したくはない。涙でしか心を洗えないと言うのなら、僕は心を洗わなくても構わないというくらいに涙を流したくない。

そもそも知っているだろうか。
誰だか忘れたけれど、心理学の研究家みたいな人の統計では「涙を流すことで心にどんな影響を与えるのか?」を調べた結果「特に意味がない」という結論を導き出したなんていう話を知っているだろうか。
それが本当かどうかはわからないし、それはもちろん人それぞれではあろうけれど、ただ、「客観的に見れば意味は特に無い」ということなのである。

涙を流して何が変わるんだろうか。
涙は自動的に出てしまうものだけれども、あえて出すことで何が変わるというんだろうか。

いいや、変わることは変わる。それはたったの1日だけ。
次の日になってみれば、また元に戻るのだ。だいたいの人が元に戻ってしまうのだ。

失恋をした人が、失恋をした日に大いに涙を流す訳だから、
「涙も枯れてしまった」と言っていつまでも意気消沈している人が居る。
それは、どう説明すればいいんだろうか。

うつ病の人が、話を聞いてもらって、キーワードとなる言葉を口から出して涙を流してすっきりして、
で、その人はどうなるのかと言えば、「すっきりした気分である」だけで、中身は何も変わらないのである。
と、僕は思う。

僕だって、何度泣いてきたかわからない。その度に「なんかすっきりした」という気分になって、明日から頑張ろう!って思えるようになった。
気がしていたけれど・・・、すぐに元に戻るのである。
泣いたことなんてすっかり忘れて・・・。

じゃぁ、今の僕はと言えば、「考えの仕方」があるのだ。様々な時と場合に応じて、自身を強くするべく考えているのである。
どう考えるのかと言えば、「辛いだけで、耐えればいい」と考えるだけなのだ。

「気持ち悪いだけで、気持ち悪いと感じたまま過ごしていよう」と思えれば、いつの間にか気持ち悪さに慣れる。
すると、それが普通になって、気丈に振る舞うことができる。大丈夫で気丈夫。
「気丈」というのは、有事に冷静でいられることを言うのである。僕はその境地を目指したい。

さて、「辛いだけで、辛いままやり続けよう」と考えることが出来れば、辛いことを「辛い」と認識できるので、
「何をどうするべきか?」を明確に考え始めることが出来るのである。
実際、その作業には涙は必要がない。必要なのは、心に並べる言葉なのだ。

「どんな言葉で何を考えるのか?」

実際、「辛い」を言葉にしてみればいいだけである。
そして「何がどう辛い」と思えるのなら、「何がどう辛いのだから、何をどうしていけばいいのか?」を考えればいいのだ。

しかし、涙を流しながら「何がどう辛い」と言っている人の多くは、
「それなら何をこうしていけばいいんじゃないの?」と言うと「でも」や「けど」と言う。

そんなことを言っている人が大泣きしてもなんの意味もない。
根本的な考えの仕方を変えなければ、意味が無いのだ。

と、僕は考える。

最近、世に蔓延るカウンセラー達には申し訳が無くも思うけれど(友人もいるので)、
そのカウンセリングは何の意味もない。お金の無駄である。
そんなことよりも、もっと考えた方が良い。考えることを放棄するのはやめた方がよい。
涙ながらに辛さを吐露するだけでなく、その後の「それなら」を考えた方がよい。
原因を探るだけに終始するのではなく、原因なんか変えられないのだからこれからどう振る舞うのか考えるべきである。
だから、意味が無いことをやってみるのはいいけれど、続けるのはもうよした方が良いと僕は思う。

ただ、それを体験した人は「絶対に良い」と言い張るんだろうが・・・
何がどういいのか?と言えば「立ち向かえるようになりやすい」とか、結局抽象的なものである。

かと言って、僕のことブログも意味が無いと言えば意味が無い。
「だから何?」と言われればそれでおしまいなので、結局同じ穴のむじなであることには変わりないのかもしれないけれど、
同じあなぐまなのであれば、僕は「泣かず強くよく考えて生きるクマ」くらいの方が良い。

だから、もっと考えた方がよい。
泣くことや、感情を出すことは、ちょっとした刺激を得るには良いけれど、
人生の大半以上の時間を占めることとなる「思考」という時間は、
親しき中にも礼儀あれ、思考をいつまでもし続けるからこそ思考を大切にした方が良い。

意識したことがあるだろうか。
「思考のプロであろう」とか「思考とは人生である」とか、「思考で至高を目指す(ダジャレ)」とか。

あなたは今、何を考えているのか?
あなたはカウンセリングを受けている時、何を考えているのか?
あなたはカウンセリングを受けた後、何を考えているのか?
あなたは明日、何を考えているのか?

絶対にバラバラである。
となれば、カウンセリングに意味は無いと言える。

だから、1つだけ、あなたが究極に極めるべく「何か」を思考のベースにした方が良い。

四六時中、あらゆることを考えつつ帰属する思考のふるさととは、一体どこなのか?

それが、僕にとっては、「子孫に残す物」なのである。
子孫に何を残すのか?という話は膨大になっていくのだけれど、
常にそこへ戻ってくることで、あらゆる思考がそこにつながった思考になっていく。

「それは本当に子供に伝えたいことだろうか?」


やはり、そう考えるとわかることがある。
だからこそ、僕は子供達に伝えたい。

「泣くな」
「泣いてもいいが何も変わらないことを知っておけ」
「泣いても意味は無いけれどあえて泣くならそれでも良い」

そして、

「笑っていなさい」「笑わせなさい」

そう伝えたい。

とまぁ、ちょっとキザな文章になってしまったのだけれど、
たまにはアトラクションがあっても良いけれど、
基本的にはそれに頼らず、自分の頭でしっかり考えた方が良いんじゃないのかな?って、僕は思います。