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夏休みも最後の一日となった、八月三十一日の昼下がり。ボクは自分の部屋の勉強机にすわり、絵の宿題に頭を悩ませていた。
テーマにあった。れた、絵の 机の上には、一枚の白い画用紙が置かれている。明日から学校がはじまるというのに、紙にはまだなにも描いていない。すみっこに小さく「五年三組 鈴木哲人」と、自分の名前を記してあるだけだ。はっきり言ってボクは、絵を描くのを苦手にしている。だけど、描けない理由はそれだけじゃなかった。ボクがこの宿題にとりかかれないわけ。それは、担任の先生から出さ
ボクはため息をついて、まっ白な画用紙を見つめた。
「こんなテーマじゃ、なにも描けないよ…」
この夏をふり返っても、ボクには幸せと思える出来ごとがまるでなかった。毎日を、重苦しい不安の中ですごしていた。夏休みに入ってすぐ、お母さんに病気が見つかったからだ。
お母さんはもともと体育会系で、学生時代は山岳部に所属していたらしい。お父さんとは、そこで知り合ったんだとか。山に登る機会こそ減ったものの、今でもお母さんは、フルマラソンを走りきるほどの体力の持ち主だ。そんな元気いっぱいのお母さんなので、病気になるなんて考えてもみなかった。だから入院して手術をうけると聞いた時、ボクはとても動揺した。お母さんにたずねても「女性の病気。大したことないから、大丈夫」と言うだけで、くわしいことは教えてくれなかった。大したことないのに、手術なんてするのかな…心配はつきなかったけど、手術を終えた日、病院の先生が「無事に成功したから、安心しなさい」と、やさしく声をかけてくれた。そして今日、お母さんは退院となり、この家に帰ってくる。家族三人がいっしょに暮らすのは、二週間ぶりのことだ。ボクにとっては、ずいぶん長く感じられた二週間だった。
ふいに部屋のドアがノックされ、お父さんが顔をのぞかせた。
「哲人、今から母さんを病院まで迎えに行くけど、お前も来るか?」
お父さんの顔も、心なしかうれしそうに見える。ボクは椅子にすわったまま、小さく首をふった。
「ううん、家で待ってる。まだ終わってない宿題もあるし」
「そうか。じゃあ、父さんだけで行ってくる。退院の手続きもあるから、帰ってくるのは夕方の五時ごろになると思う」
そう言い残すと、お父さんは車を運転して病院へと向かった。壁のかけ時計を見上げると、午後の二時をさしている。お母さんが帰ってくるまでに、なんとか絵の宿題をすませたい。ボクは携帯をとり出すと、友だちに電話して聞いてみることにした。みんながどんな絵を描いたのか気になるし、ひょっとしたらみんなも、絵の宿題に手間取っているかもしれない。
最初に電話したのは、同じクラスで幼なじみの、石原海斗くんだった。海斗くんとは家も近く、幼稚園のころから仲のいい親友だ。
電話に出た海斗くんに、ボクは絵の宿題が出来ていないことを伝えた。
「哲くん、まだ描いてないんだ。新学期は明日だよ?大丈夫?」
「なかなか描きたい絵が浮かばなくて…海斗くんは、どんな絵を描いたの?」
「ボクが描いたのは、となり町でおこなわれた、花火大会の絵さ。夜空に何百発もの花火がひろがって、まるで花が咲いたみたいにきれいだった。哲くんも、いっしょに来ればよかったのに」
となり町の花火大会は、ボクも毎年楽しみにしている夏のイベントだ。海斗くんから誘われていたけれど、お母さんのことが気がかりで、今年は花火を見る気になれなかった。海斗くんは花火の絵を、黒い画用紙に描いたらしい。きっと、いい絵に仕上がったにちがいない。
次に電話したのは、井上隼人くんだ。井上くんはスポーツ万能なうえに成績も優秀で、クラスのリーダー的存在だった。
「宿題の絵?オレは地区の水泳大会で、表彰台にのぼった絵を描いたよ。首にメダルをかけて、笑顔で手をふっている絵。二着で準優勝だったから、ちょっと悔しかったけどな」
井上くんはサッカーもうまいけど、一番得意にしているのは水泳だ。準優勝でも、じゅうぶんすごいのに…負けず嫌いの井上くんらしい。首からメダルをかけた絵なんて、誇らしいだろうな。ボクには絶対縁がなさそうだ。
最後にもうひとり、ボクは立花涼介くんに電話をかけた。立花くんは毎年夏休みに海外へ行っていて、去年ボクは、シンガポール旅行のおみやげをもらった。
「今年はドバイに行ってきた。世界一高いタワーにものぼったよ。でも、一番すごかったのは『ドバイ・ファウンテン』と呼ばれる噴水ショーだった。それがすごく幻想的だったから、その時の絵を描いたんだ」
この夏、ボクはどこにも旅行に行かなかったので、立花くんの話がうらやましかった。ドバイか…日本からは、ずいぶん遠いんだろうな。ボクにはドバイという国が、どこにあるのかもよく分からない。
電話を終えて、ボクは少し落ちこんでしまった。ボクひとりだけ、置いてきぼりになったような気がした。花火大会に、表彰台に、ドバイ旅行。みんなちゃんと、この夏の幸せを見つけられたみたいだ。
そもそも「幸せ」ってどういう意味なんだろう。楽しいこと?うれしいこと?それが分からないと、絵にすることなんか出来ない。
「大人の人は、どんな時に幸せを感じるのかな」
このまま考えこんでいても、なにも描けそうにない。ボクは気分転換をかねて家を出ると、近所の商店街に足をはこんだ。よくお母さんにおつかいを頼まれるため、商店街には顔見知りの人が多い。ボクはスーパーよりも、言葉を交わして買いものをする商店街の方が好きだった。
最初に立ち寄ったのは「夢屋」という、手づくりの小さなパン屋さんだった。ボクは大のパン好きなので、店のおばさんとはすっかり顔なじみだ。
「あらぁ、哲くん。いらっしゃい」
「ちょっと聞きたいことがあるんだ。おばさんは、なにをしている時が幸せ?」
ボクの質問に、おばさんは驚いて目を丸くした。
「ずいぶん難しいことを聞くのね。そうねぇ、幸せといえば…この夏に初孫が生まれたんだけど、やっぱり可愛くてね。孫の顔を見ている時が、一番幸せな時間かしら」
赤ん坊を一度も見たことがないボクには、おばさんの気持ちはピンとこなかった。でもおばさんの表情を見ると、それがとても幸せな出来ごとだというのがよく分かる。
パン屋さんを出たボクは、向かいの自転車屋さん「ミライサイクル」に向かった。この店の店員さんは若いお兄さんで、ボクが乗っている自転車も、お兄さんのおすすめで買ったものだ。
ボクが幸せについてたずねると、お兄さんは「幸せかぁ」とつぶやき、腕組みをした。
「そうだなぁ。オレはバイクが趣味なので、仲間とツーリングしている時が幸せかな。山の峠を走っていると、風になった気分を味わえるんだ」
そう言ってお兄さんは、バイクの写真をボクに見せてくれた。確かにかっこいいけど、バイクなんて小学生のボクにはまだ早い。店に置いてある、自転車の方が魅力的だった。
ボクはもう一軒「うおまさ」という魚屋さんに寄ってみることにした。店主の源三おじさんとは家族ぐるみのつきあいで、ボクも小さなころから可愛がってもらっている。
「この歳になると生きていくのに精いっぱいで、幸せを感じる余裕なんてねぇなぁ。まぁ強いて言えば、酒飲みながら野球中継見るくらいかな」
「ところで哲人、母ちゃんはいつ退院するんだ?」
「今日だよ。もうすぐ家に帰ってくる」
それを聞くなり、おじさんは大きな赤いタイを袋につつみ、ボクに手渡してくれた。
「持っていけ。退院祝いだ」
「いいの?ありがとう」
「哲人、今日からまた、母ちゃんに甘えられるな」
ガッハッハと、おじさんがからかうように笑った。ボクは赤くなった顔を伏せながら店を出た。時計を見ると、午後の四時をまわっている。そろそろお母さんが帰ってくる時間だ。ボクはきりあげて、自宅に戻ることにした。あまり絵の参考にはならなかったけど、いろいろな話を聞けて楽しかった。幸せのかたちなんて人それぞれで、ひとつに決まってないのかもしれない。
おじさんにもらったタイを家の冷蔵庫にしまい、ふたたび机の画用紙に向き合う。それでも、いっこうに筆は進まなかった。正直言うと、お母さんの退院にそわそわして、絵の宿題どころじゃなくなっていた。
「やっぱり、描けそうにないや」
先生には怒られるだろうけど、素直に「描けませんでした」とあやまろう。いきさつを話したら、先生も許してくれるかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。部屋の窓から、お父さんの車がガレージに入るのが見えた。お母さんを乗せて、病院から帰って来たんだ。ボクははじかれたように部屋を飛び出し、階段をかけおりていった。しばらく待っていると玄関のドアが開いて、荷物を持ったお父さんが入って来た。そしてお父さんの後ろには、退院したお母さんの姿があった。
病院には何度も見舞いに行ったけど、自宅でお母さんを見るのはひさしぶりだ。やっぱり入院前よりも、顔がほっそりしたように見える。ボクはこの二週間、ずっと言いたかった言葉をかけた。
「おかえり、お母さん」
「ただいま、哲人。お父さんの言うこと聞いて、いい子にしてた?」
そう言ってお母さんは、ボクの頭をポンポンたたいた。いつまでも子どもあつかいなんだから…でも思っていたより元気そうで、ボクはひとまず安心した。
「それにしても、ひどい散らかりようね」
家の中を見渡して、お母さんがあきれたようにつぶやいた。確かにお母さんが不在の間、掃除はまったくといっていいほどしていない。それどころか、ボクもお父さんも、掃除機の使い方すらよく分からなかった。結局この家は、お母さんがいないと何もはじまらないのだ。
台所の冷蔵庫を開けたお母さんは、中を見て「あら?」と声をもらした。
「哲人、このタイどうしたの?」
「うおまさの源三おじさんにもらったんだ。退院祝いなんだって」
「そうなの。源さんにお礼を言わなきゃね。あとでいただきましょう」
お母さんはそう言うと、さっそく台所に立って調理をはじめた。ボクはその背中に「お母さん」と声をかけた。退院の日が八月三十一日に決まってから、ボクには気になっていたことがある。
お母さんが手を止めて、ボクの方にふり返った。
「なに?」
「ううん…なんでもない」
「どうしたのよ、変な子ね」
ボクはなにも言えず、だまってうつむいた。本当のことを知る勇気がなかった。ただの取りこし苦労であれば、ボクの気も晴れるんだけど。
夕食の時間となり、食卓にはおじさんからもらったタイと、出前で頼んだお寿司が並んだ。お母さんの入院中は、お父さんとふたりきりのさびしい夕食だった。お母さんが戻って三人になると、会話もはずむし食欲も増すから不思議だ。
食事の最中、お母さんがボクを見て、申しわけなさそうに口を開いた。
「ごめんね、哲人。お母さんのせいで、今年の夏は旅行に行けなかったわね」
「いいよ、そんなこと。旅行なんていつでも行けるし」
それを聞いたお父さんが、コップにビールを注ぎながら続いた。
「秋になってすずしくなれば、三人で山へ行かないか?哲人でも登れる山を見つけたんだ。もちろん、母さんの体調が戻っていればの話だけど」
「わたしなら平気よ。若いころ山岳部で鍛えた『山ガール』ですからね」
「ガール?お母さん、もうとっくにガールじゃないよ」
ボクの言葉に、お母さんが口をとがらせた。
「『とっくに』は言いすぎでしょ。見た目は変わっても、心の中はガールのままなの」
「哲人、デリカシーのない男は、女の子にモテないぞ」
お父さんがそう言って、ボクをたしなめる。ふたりに怒られながらも、なぜかボクはなつかしい気持ちになった。こういうなんでもないやり取りをしていると、いつも通りの日常が戻ったんだと実感する。
食事が終わり、お父さんがトイレにたったのをきっかけに、ボクはさっき聞けなかったことを、お母さんに聞いてみようと思った。そうしないと、心の奥のモヤモヤを、これからも引きずってしまうような気がした。
「あの…お母さん」
「なに?どうしたの?」
「ボクの新学期に合わせて、無理に退院したわけじゃないよね」
入院中、お母さんが「哲人の新学期までに退院したい」と言ったのを聞いていたからだ。お母さんは目を見開いて、ボクの顔を見た。
「あたり前でしょ。そんなわけないじゃない」
「それならいいんだけど。ずっと気になっていたから」
するとお母さんは笑みを浮かべ、小さなため息をこぼした。
「哲人は心配性ね…退院が今日に決まったのは偶然よ。わたしならもう大丈夫だから、安心して」
お母さんがそう言って、こくりとうなづいた。それを見てボクは、心からホッとした。胸をおおっていた重苦しい雲が消え、心の中に、きれいな青空が広がった気分だった。
その瞬間、ボクはすっかり忘れていた、絵の宿題のことを思い出した。
『夏休みの間におきた、幸せな出来ごとを描きなさい』
今なら、宿題の絵を描けるかもしれない。
「やり残した宿題やってくる」
ボクは立ち上がると、急いで自分の部屋へ向かった。机に腰をおろし、鉛筆で画用紙に下描きを描いていく。それが終わるとパレットに絵の具をしぼり、筆で色を塗っていった。あれだけ苦労していたのがウソのように、すらすらと筆が動いた。
一時間後、ボクはすべての色をぬり終えた。
「出来た…」
画用紙に描いたのは、お父さん、お母さん、ボクが、家で食卓を囲んでいる絵だった。食卓にはタイとお寿司が並び、まん中にお父さん、右側にボク、左側にお母さんが、笑顔を浮かべてすわっている。出来あがった絵を眺めて、ボクは顔が赤くなった。なんて下手くそな絵なんだろう。いや、それよりも、これって家族三人がご飯を食べてるだけじゃないか。花火大会や、表彰台や、ドバイ旅行にくらべると、しょぼいにもほどがある。
「でも、いいか…」
少し恥ずかしいけど、しょうがない。家族が笑いながら、いっしょにご飯を食べる。これが今のボクがみちびき出した「幸せ」の答えなんだから。
ボクははにかんでうなずくと、描きあげた絵を丸め、壁にかけてあるランドセルに差しこんだ。
