ボクはもう一軒「うおまさ」という魚屋さんに寄ってみることにした。店主の源三おじさんとは家族ぐるみのつきあいで、ボクも小さなころから可愛がってもらっている。 
 ボクの質問に、おじさんは「オレの幸せだって?変なこと聞くんだな」と、声をあげて笑った。

「この歳になると生きていくのに精いっぱいで、幸せを感じる余裕なんてねぇなぁ。まぁ強いて言えば、酒飲みながら野球中継見るくらいかな」
 ボクも野球を見るのは好きだけど、お酒なんてもちろん飲まない。やっぱり子どもと大人では、幸せの感じ方がちがうみたいだ。お礼を言って帰ろうとした時、おじさんがボクを呼び止めた。

「ところで哲人、母ちゃんはいつ退院するんだ?」

「今日だよ。もうすぐ家に帰ってくる」

 それを聞くなり、おじさんは大きな赤いタイを袋につつみ、ボクに手渡してくれた。

「持っていけ。退院祝いだ」

「いいの?ありがとう」

「哲人、今日からまた、母ちゃんに甘えられるな」

 ガッハッハと、おじさんがからかうように笑った。ボクは赤くなった顔を伏せながら店を出た。時計を見ると、午後の四時をまわっている。そろそろお母さんが帰ってくる時間だ。ボクはきりあげて、自宅に戻ることにした。あまり絵の参考にはならなかったけど、いろいろな話を聞けて楽しかった。幸せのかたちなんて人それぞれで、ひとつに決まってないのかもしれない。

 おじさんにもらったタイを家の冷蔵庫にしまい、ふたたび机の画用紙に向き合う。それでも、いっこうに筆は進まなかった。正直言うと、お母さんの退院にそわそわして、絵の宿題どころじゃなくなっていた。

「やっぱり、描けそうにないや」

 先生には怒られるだろうけど、素直に「描けませんでした」とあやまろう。いきさつを話したら、先生も許してくれるかもしれない。

 そんなことを考えていた時だった。部屋の窓から、お父さんの車がガレージに入るのが見えた。お母さんを乗せて、病院から帰って来たんだ。ボクははじかれたように部屋を飛び出し、階段をかけおりていった。しばらく待っていると玄関のドアが開いて、荷物を持ったお父さんが入って来た。そしてお父さんの後ろには、退院したお母さんの姿があった。

 病院には何度も見舞いに行ったけど、自宅でお母さんを見るのはひさしぶりだ。やっぱり入院前よりも、顔がほっそりしたように見える。ボクはこの二週間、ずっと言いたかった言葉をかけた。

「おかえり、お母さん」

「ただいま、哲人。お父さんの言うこと聞いて、いい子にしてた?」

 そう言ってお母さんは、ボクの頭をポンポンたたいた。いつまでも子どもあつかいなんだから…でも思っていたより元気そうで、ボクはひとまず安心した。

「それにしても、ひどい散らかりようね」

 家の中を見渡して、お母さんがあきれたようにつぶやいた。確かにお母さんが不在の間、掃除はまったくといっていいほどしていない。それどころか、ボクもお父さんも、掃除機の使い方すらよく分からなかった。結局この家は、お母さんがいないと何もはじまらないのだ。

 台所の冷蔵庫を開けたお母さんは、中を見て「あら?」と声をもらした。

「哲人、このタイどうしたの?」

「うおまさの源三おじさんにもらったんだ。退院祝いなんだって」

「そうなの。源さんにお礼を言わなきゃね。あとでいただきましょう」

 お母さんはそう言うと、さっそく台所に立って調理をはじめた。ボクはその背中に「お母さん」と声をかけた。退院の日が八月三十一日に決まってから、ボクには気になっていたことがある。

 お母さんが手を止めて、ボクの方にふり返った。

「なに?」

「ううん…なんでもない」

「どうしたのよ、変な子ね」

 ボクはなにも言えず、だまってうつむいた。本当のことを知る勇気がなかった。ただの取りこし苦労であれば、ボクの気も晴れるんだけど。

 夕食の時間となり、食卓にはおじさんからもらったタイと、出前で頼んだお寿司が並んだ。お母さんの入院中は、お父さんとふたりきりのさびしい夕食だった。お母さんが戻って三人になると、会話もはずむし食欲も増すから不思議だ。

 食事の最中、お母さんがボクを見て、申しわけなさそうに口を開いた。

「ごめんね、哲人。お母さんのせいで、今年の夏は旅行に行けなかったわね」

「いいよ、そんなこと。旅行なんていつでも行けるし」

 それを聞いたお父さんが、コップにビールを注ぎながら続いた。

「秋になってすずしくなれば、三人で山へ行かないか?哲人でも登れる山を見つけたんだ。もちろん、母さんの体調が戻っていればの話だけど」

「わたしなら平気よ。若いころ山岳部で鍛えた『山ガール』ですからね」

「ガール?お母さん、もうとっくにガールじゃないよ」

   ボクの言葉に、お母さんが口をとがらせた。

「『とっくに』は言いすぎでしょ。見た目は変わっても、心の中はガールのままなの」

「哲人、デリカシーのない男は、女の子にモテないぞ」

 お父さんがそう言って、ボクをたしなめる。ふたりに怒られながらも、なぜかボクはなつかしい気持ちになった。こういうなんでもないやり取りをしていると、いつも通りの日常が戻ったんだと実感する。

 食事が終わり、お父さんがトイレにたったのをきっかけに、ボクはさっき聞けなかったことを、お母さんに聞いてみようと思った。そうしないと、心の奥のモヤモヤを、これからも引きずってしまうような気がした。

「あの…お母さん」

「なに?どうしたの?」

「ボクの新学期に合わせて、無理に退院したわけじゃないよね」

 入院中、お母さんが「哲人の新学期までに退院したい」と言ったのを聞いていたからだ。お母さんは目を見開いて、ボクの顔を見た。

「あたり前でしょ。そんなわけないじゃない」

「それならいいんだけど。ずっと気になっていたから」

 するとお母さんは笑みを浮かべ、小さなため息をこぼした。

「哲人は心配性ね…退院が今日に決まったのは偶然よ。わたしならもう大丈夫だから、安心して」

 お母さんがそう言って、こくりとうなづいた。それを見てボクは、心からホッとした。胸をおおっていた重苦しい雲が消え、心の中に、きれいな青空が広がった気分だった。

 その瞬間、ボクはすっかり忘れていた、絵の宿題のことを思い出した。

『夏休みの間におきた、幸せな出来ごとを描きなさい』

 今なら、宿題の絵を描けるかもしれない。

「やり残した宿題やってくる」

 ボクは立ち上がると、急いで自分の部屋へ向かった。机に腰をおろし、鉛筆で画用紙に下描きを描いていく。それが終わるとパレットに絵の具をしぼり、筆で色を塗っていった。あれだけ苦労していたのがウソのように、すらすらと筆が動いた。

 一時間後、ボクはすべての色をぬり終えた。

「出来た…」

 画用紙に描いたのは、お父さん、お母さん、ボクが、家で食卓を囲んでいる絵だった。食卓にはタイとお寿司が並び、まん中にお父さん、右側にボク、左側にお母さんが、笑顔を浮かべてすわっている。出来あがった絵を眺めて、ボクは顔が赤くなった。なんて下手くそな絵なんだろう。いや、それよりも、これって家族三人がご飯を食べてるだけじゃないか。花火大会や、表彰台や、ドバイ旅行にくらべると、しょぼいにもほどがある。

「でも、いいか…」

 少し恥ずかしいけど、しょうがない。家族が笑いながら、いっしょにご飯を食べる。これが今のボクがみちびき出した「幸せ」の答えなんだから。

 ボクははにかんでうなずくと、描きあげた絵を丸め、壁にかけてあるランドセルに差しこんだ。