秋の入場券を購入した。その為にはクレディットカードを使うしかなかった。それでいいのだが、ここ二か月ほど問題があった。購入する時の認証システムで、タブレットなどで承認を出すのが叶わなかった。理由が分からなかったので銀行のホットラインなどで時間をかけたが埒が明かなかった。方法として、新たにスマートフォーンや新しいタブレットも登録した。現在二種類の口座で三台の端末機をPCに加えて使っている。オンラインバンキングがなければスマートフォーンも必要がなかった。

車載の為に購入したのだが古いアンドロイドがいつまで使えるか分らず、流石に最近はアンドロイド7「ヌガー」ではYouTubeでさえ使えなくなっていたので、その反応速度以上に限界を感じていて、殆ど使えるアプリが無くなって来ていたのだ。そこで先ずは車載用のスマートフォーンを登録して、今回新アンドロイドを登録した。

そのことと承認システムの成否は直接は関わらなかったので、新たにもう一つの口座に新しい15「バクラヴァー」を登録した。その機能を試すためにダブルブッキングとなるが、ハムブルクとドレスデンの宿を探してみた。双方とも評価点数は低いのだが半額から三割ぐらい様なより劇場に近い物件を見つけた。試しに予約の為のカード認証をしたら上手く運んだ。それで異なるカードを使うことなく入場券を買える可能性が見えて来た。以前通りである。その差額だけで入場券が買える。

日本でも話題になっていたバムベルク交響楽団極東公演に帯同した記者の記事が載っていた。通常にはない訃報二つ囲み以外の全面記事である。ざっと目を通した。知らない人が台北から書いているので、特派員かも知らない。

日本の人が興味あるのはカツーンが日本で共演してということのようで、それに関しては「技術的に弾いていても個性がない」の一言であるが、コンサート入賞者ならその程度という共通認識を出るものではない。勿論我々の興味があるのはその普段は見慣れないような客層やその反応がそしてその興行の裏こそがこの文化記事の本旨でもある。

そこで最早日本ではそのようなエンタメ興行にしなければ商売にならない事。それに比較して韓国ではボンソリというお国の奏者が全身全霊で魅せるという朝鮮文化と日本のそれとの差異が綴られ、その後のより洋楽事始めの台湾の状況を綴る。

勿論、日本が熟成してそのような交響楽団演奏会が音楽芸術的な意味をあまり持たない一方、韓国では本公演の前に三回も三星による自己演奏会が開かれて関係者が集ったということだ。これは、嘗ての東芝などの冠演奏会から、韓国のそれ、そして台湾へとその洋楽事始めの歴史が示されている。

交響楽団の支配人から、日本だけツアーというのは考えられなくなり、こうしたポピュラーコンサートの形でしかありえないことが語られる。それでも今回チェコのフィルハーモニーに就任することになった指揮者のフルシャが語るには、ツアーで最高到達点に達したと、昨年私が批判したことに対して答えとしている。それが日本人特有の両手を上げて拍手するそれを導き出したフルシャ指揮バムベルク交響楽団の実力となる。



参照:
Asien liebt Alt-Europa, Robin Passon, FAZ vom 26.6.2025
シーズンオフの片付け 2025-07-08 | 雑感
深圳の道格が安く 2025-06-27 | 雑感
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音

暫しの清々しい日々を過ごした。肌寒く夜間は外で食事が出来ない程だった。窓を閉め切って就寝すると深さが違う。束の間の避暑であった。週末にかけて摂氏30度を掠めて、月末へと上がってくるだろうが、夏至を越えてなんとなく峠を過ぎたと感じた。蒸し暑くさえならなければ気持ちのよい夏を過ごせそうだ。

個人的には来週の歯医者で終われば夏休みとなる。床屋は来週までで三週間の夏休みとなる。まだどうするか決めていないが、暑さが控えめならばまだ頑張れる。夏休みの宿題は改めて纏める。その前に税務関連を終えてしまう。

先日フランクフルトからの復路のアウトバーンで異物を撥ねた。フランクフルトから高速で南に向かって走っていて、ダルムシュタットの分岐の手前で自動的に速度が落ちた時である。思わず回生エネルギーの状況を見て、前を見たら追い越し車線の五分の三ほどの黒いバムパーのような物が横たわっていた。モニターを観ていなければ回避可能だったのだが、右方へ回避をしたがそれ以上は出来ずに運転席側で踏んだ。右車線を確認する余裕はなかった。前輪で弾いて、その後運転席後方で跳ね返る音がした。

そこは合わせて五車線以上あるので寄せて停車することも不可能で、警察に通報することもならなかった。予定より早く帰宅出来る処だったのだが流石に足が落ちた。車庫入れ後に確認すると下側に傷がついていた。

半年で8000kmを走破したが、その前々日迄の修理と含めて、愈々処女性も失せた。ある意味漸く馴染みが出てくる感じである。週明けに早速一週間前にメーカー保証で修理したマイスターに傷を見せた。最初は気が付かなかったがどうも前車を修理して貰ったマイスターと同じではないかと思った。前車は3年3ヶ月程の時に事故を起こした。既に五万キロ程走行していた。当時は仕事で毎日チューリッヒ往復などを頻繁に行っていたので年間二万キロ以上乗っていた。新車価格の半分ぐらいの修理価格を保険で出させたが、その修理の影響は最後まで出なかった。当時は乗り換えも考えたが、普通以上に長く乗れたので資を取り返した。

今回はそこまで乗り繋ぐ予定はないので、逆に10年程でまだ下取りが可能な状況を保つ予定なので、今回の塗装の傷も逸早く信頼おける専門家の判断を直接仰いだ。なぜならば塗装傷から錆が広がるということだから、即最も安く原状回復を狙った。結果、そこは高分子素材のカウルなので何も起こらないということだった。見た目も下側なので覗き込まないと分からない。オーナーの気持ちだけである。

見積もりはやはり1300ユーロを越えていた。返事はしていないが、先ずは最初の車検迄様子を見て、その時までに至急に手当てする傷があれば同時に修理させればよいと考える。前車の事故大修理の数か月間の間に二回も同じ場所で野兎と鹿を轢いた。不可抗力で保険も効いて、一度はラディエター迄大破したが、最初の車検即ち保証期間中までに少なくとも三回の事故と修理、その他ボードコムピュターの保証での取り換えやサイドミラーの傷などがあった。

この夏休みで余り車を動かさないので最終的にはそこそこの走行距離で収まる予定だが、ここ二年程が無事故運転の勝負どころではないかと思う。事故で傷めないと乗り熟せないようでは痛々しい。当分遠出がないので来週ぐらいに洗車をしておこう。



参照:
代車を乗りまわして 2025-07-09 | 雑感
週末旅行前の確認事項 2025-05-14 | 雑感

漸く落ち着いた気がする。なんだかんだと落ち着かなかった。なによりも車の修理で、四日間も車を預けて、その間に同車格の二台を乗った。その経験は決して無駄にはならなかったと思う。

一台目に関しては貶していたが、二台目もE200D というものでデザインはべーシックでブリキが多く使われている分重くなっているのだろう。そしてほとんど何もオプションがついていなかった。

やばいと思ったのは速度設定していて、ヴォルムスの街に入る門を越えた陸橋で時速70kmから全く減速しなかった。なぜならば360度カメラで速度表示を読み込まないからだ。気が付かずに50kmのところを70kmで走っていた。数百メートルで記念写真を撮られていなければよいのだが — 因みにライン河の橋の上から向かって右側に見えるのがルターが尋問を受けた公会議のウォルムスの荘園と聖堂。

また気が付いたのは自動運転の設定が時速160kmまでの設定になっていた。最高速自体も190kmぐらいだろう。ブレーキは前車よりも大分悪いと感じた。つまり車輛によってさまざまな設定を変えてあるということだ。つまり自動運転設定210kmまでしか知らないが、その上があるのかどうか?例えば250kmでリミッターの入っていない車輛はどうなっているのか?

例えば最高速度300km出る車なら260kmでも安定して走れる筈だ。但しどれほどブレーキ能力が高くても現在のシステムならば横の車線からの車に対応できるのかどうか疑問である。速度差で時速100kmは侮れない。もしより高速で巡行運転できるようならば欲しい。恐らく違うような気がする。

なるほど時速210kmでの自動運転はそれ程早くないかもしれないが疲れて眠くてもその速度で走れる意味は大きい。どうしても夜間はカーヴの先が見難くなるので、ブレーキを踏んでスローインする傾向になり、中々速度をキープ出来なかったからである。

ミュンヘンからアウグスブルクは漆黒でも食事をしながらの走行が可能であるが、アウグスブルクからウルムは大きな上下動とカーヴが続いて二車線が主になるので — 勿論殆どの形状は記憶に残っている —、ハンドルを握る必要がある。秋には機会があると思うがどうだろう。

もう一つ驚いたのは車高が全く異なっていたことで、二輪駆動とサスペンションの都合でか゚10㎝ほど低かった。その一方最低地上高は調整できないので、結構高い感じでワイン地所でも底をすることはなかった。ジャンジャンハンドルを切ってドリフト風に試してみたが、全く異なる車だった。

二輪駆動の車輛にはAMGモデルの底を切ってある円環でない方が扱いやすいと感じた。やはり後輪駆動は操舵感があって運動性は悪くない。路面が悪くなると限界値に近づくということでもある。今後とも四輪駆動にしか乗りたくないと感じるのはそこである。

同時に自動操縦こそが今後の車輛の全てであるので、内燃機関で駆動輪を動かしてという車輛も一般路上では合理的に存続する可能性は全くないと確信する。問題は時間の問題で、あとどれぐらい過渡期が続くかである。



参照:
フェークな品質管理 2025-07-02 | テクニック
骨肉の争いの経験と記憶 2007-06-10 | 生活

オペラアワードの投票をする。どうも二回受賞はパパーノとペトレンコらしい。此処でエンゲルがこのシーズンに成功したものは数少ない。それでもライマンの「ランヴィスブル」だけはそこに加えておくべきだ。作品として取り分け強いものではないが、歴史的に「ヴェルテル」程度の上演が為されるのを確認したのが公演の最大の価値だった。エンゲルに関しては来シーズンは可能性が大分高まる。一方ペトレンコは「蝶々さん」のみで推挙とまでは至らなかった。歴史的価値が違う。

その点演出のリーヴァ―モーアは推挙したい。その美術のジオ・フォルマとD-Wokにもそこに将来性をみた。異論はないだろう。

女性歌手は蝶々さんのブラットで問題なしで、フェスティヴァルとして最後ということでバーデンバーデン復活祭を挙げる。

生涯活動の功績は亡くなっていてもアリベルト•ライマンである。男性歌手は難しいが、スカラ座のオックス男爵でグロイスベックを敢えて挙げたい。

音楽劇場作品では新制作第三演の「ランヴィジブル」はノミネートされる可能性は強い。そのカムパニーはフランクフルトオペラとなる。

新作は、残念乍らハノーファーを体験できなかったので、分からない。

オペラカムパニーは、オネゲル再演を含めてフランクフルトでいいと思う。

新星は「ランヴィシブル」演出のレフラーで決まりだ。

私のノミネートが複数選ばれるようでないオペラアワードなんて潜りでしかない。市場の如何に関わらず、芸術音楽性というものにはそれ程の評価の差異がない。

配送されたタブレットカヴァー、大きさも合って使えている。まだいくつかのアプリが移行出来ていないが、使えるようになってきている。

想定通り、カヴァーをつけて700グラムを超えて以前のものよりも30グラムほど重くなったが持った感じは大きくなった分、軽く感じる。一番の問題は二つのスイッチが押しにくくなったことで、これは何れ異なったカヴァーで改善する。

ディスプレー自体は眼の保護モードにすると色が薄く、頼りないが、調整は可能であるようだ。なによりも眼が疲れないことがよいので直ぐに調整できるアイコンを上手に使えるのではないか。どこかに書いてあった光量に自然に合わせる機構は付いている様だ。その他の機能性に関しては現在のところ不満はない。

千立て古いタブレットに移転インストールしたLINEもこの新しい方に移転させるべきだろうか。因みに若干心配していたDRAMによるコピー防止のシステムも一度外してあるコピーの再生などには一切影響しない。抑々外さずにコピーなど出来るとは考えられないので、全く違う世界のことなのだろう。



参照:
パープル色の機能性 2025-07-04 | 雑感
扱いやすくも困難 2025-07-06 | 文化一般

日曜日の夕刻は中継を観た。最近はそういう機会は減っている。必要ならば出かけるからだが、ミュンヘンのオペラ祭からメインイヴェントだった。先日初日がラディオで中継された新制作「ドンジョヴァンニ」で、演出が観れるのがみそだった。

初日と比較して演奏は改善されている印象はあった。然しポザーピナの「転校生」を入れた演出はお話しにならなかった。同時にラディオで聴いていて不可解なところを映像で確認して、やはり指揮者の責任が分かった。

トレイラーやらインタヴューが流れていて、そして会場のスカスカ感も分かった。音楽的には、バイエルン州総監督のユロウスキーが正しいリズムが取れていないことが致命傷と分かった。ペトレンコと同じ年代でベルリンに移り住んでいても、また有名音楽家出身でも習うことが習えていない。独墺音楽が指揮出来ない。

ペトレンコへの推薦を受けていても、2004年のバイロイト迄ユダヤ系ロシア人などはあまり相手にしていなかったのだが、そこで確信したのは、ペトレンコは何でも振れる以上に独墺音楽の歴史を歩んでいる人だということだった。

そこが大きな相違で、独逸語の語彙も豊富で口だけが先行するようなユロウスキーであるが、名門音楽家でそこが出来ていないというのはやはり才能の差が著しい。それでも私たちがユロウスキーを推したのはそれ以上の公演を実現してくれると期待していたからである。その最も期待されていたのがデモーニッシュな「ドンジョヴァンニ」であり、指揮の巨人クレムペラーのようなものを考えていたからである。その意味からしても「製造責任」まではないのだが、批判する責務を感じている。

それによって正しいフレージングが儘ならず、歌手が歌い難くなっていることから、初日にも「主役クリメルの歌唱を台無し」にしていたという批評通りで、個人的には「ブルートハウス」ブレークスルーしたベッカーが歌うドンナアンナの歌唱を確認して、再びドレスデンでエンゲル指揮で大成功するかどうかの下調べであった。

初日の批判もあった故か指揮者もその点は留意していたようで出来るだけ歌の特に長いフレージングを潰さないような配慮はしていた。それでも他の歌手も含んで、ペトレンコ時代に乗っていた人は注目されたが、ベッカーの様にエンゲルあってこそ年間最優秀賞受賞となっている。あの大会場であれだけ声が出てアンナドンナを歌えるので頂点に出るだろう。大ホールでもニールンドの様に柔らかな声も出せている。

ユロウスキーがペトレンコの様に超一流の指揮者になることはもうなくなっているのだが、独墺音楽レパートリーでこの程度は丁度前々任者のケントナガノとあまり変わらない。そのナガノもリヨンで活躍していて、ドルニー支配人関連となる。

昨年噂の出た次期支配人にシュトッツガルトのショーナーが挙がっていたが誰を指揮者にするかである。仲間のエンゲルがそういう指揮者でない分大変である。ハーンもまだレパートリーが足らない。

エンゲルの影響を受けて色々やっているユロウスキーであるが、数珠してピアノ弾いている様じゃ駄目だよね。



参照:
センス悪いモーツァルト 2025-06-28 | 音
中劇場での音響と視界 2025-04-09 | 文化一般

再演「火刑台のジャンヌダルク」楽日、堪能した。再演初日の公演からドビュシーのカンタータ「選ばれし乙女」のお勉強しか出来なかったが、当夜の重点は後半のオネゲルだった。こちらが見事な指揮で、この楽曲を振らせてエンゲルは第一人者だと思わせた。それ程指揮がよくなっていて、音楽が見て取れた。今回の再演指揮で何かが変わった。恐らく本人の指揮への意識が強まったのだろう。

前回と異なったのはオラトリオの音楽構造が演出に沿って明白になったことで、舞台がなくても強い印象を残す演奏が可能になっていた。それは演出の意図がとても分かりやすくなったことでもある。音楽劇場の核はその音楽にある。改めてそれを確認させる公演だった。

明らかに演奏者の音楽的な意志が異なっていた。それ程に音楽的な語法、ここでは多種な要素が組み合わされるポストモダーンな方法で、デキシージャズから中世の歌謡までが同じ様に表現内容となっている。それは初演からバロック演奏迄を指揮する音楽劇場の第一人者としてこの楽曲を指導するのに何一つ欠くことはなかったであろう。それでも初日はそこ迄整理されていなかった。それは所謂演奏実践というものでもあろう。

音楽劇場の聴衆にとってはそうした要素が如何に纏まった印象として訴えかける劇があるかに評価が為される。ポストモダーンな不統一感や複雑さを越えて手際よく捌かれることなどはそれの前提でしかなく、勿論意味不明の儘では体を為さない。オペラは死んだが劇場は活きているのが前提である。

社会派のグループの演出意図は創作1930年代を鑑みての捉え方と表現である。そこで描かれる状況が現代の中世化だというものである。その一つの表現としてポストモダーンな音楽表現もあるということだ。実際に新制作初日を振っていた指揮者はこの楽曲を十八番としながらもそのように読んでいる。

一方エンゲルにとってはありとあらゆる書法を使った楽曲でそれも表現方法として限界の無い楽曲を日常茶飯に扱っている。それらを如何に作曲家の旨に従って音化するだけの仕事である。

その意味からすれば、ドビュシーよりもオネゲルの方が音楽的に遥かに扱いやすいに違いない。それでも要素が統一されていないことで、奏者にとってもやり難い素材だったに違いない。それを五回の本番公演とその練習の中でどのように定着させていったか。暇があったらいつか練習を見せて貰っても良いかもしれないが、それ以上に奈落の指揮で音楽が明確になって来ていたということである。

音楽表現は、文章や絵画ではないので時間と共に消えるそして漂う。そうした表現媒体で意外に難しいのは皮肉や嘲笑や風刺表現でもある。そこがドビュシーやヴァ―クナーとは異なり、その後に多く創作された楽曲にも通じている。その方法としてパロディー的に本歌取りされることが増えた背景でもある。

具体的には対位法から民謡迄を繋ぎ目もなく、または同時進行で表現する手腕である。その鮮やかさが最も強い表現となり、同時に奏者もそれに反応するだけの瞬発力が求められるだろう。その点でも若いフランクフルトの座付き楽団の適応力は高い。



参照:
ウムベルトエコーの予知 2025-07-01 | 歴史・時事
見事な指揮のドビュシー 2025-06-23 | 音

購入したタブレット、返送期限は14日迄である。現時点では送り返し事情は見つからない。先ず梱包は華為程ではないが、三星などよりも印象が良い。過剰にならないギリギリのところだろうか。

本体の重量は514グラムあるので決して軽い方ではないが、形が大きく薄型なので重量感があまりない。同時に素材の割にそれ程滑り落ちる感じもない。カメラのレンズ枠が出ているからだろうか。スイッチは長辺の左側で左手でオンオフと音量調整となるが、音量は使いにくいので、他の方法を使うことになるか。

モニターはなによりも光量自動調整がついていないのが最大の欠点であるが、その分使用電気量を絞りやすい。アプリでログインに苦労したものもあるがまずは順調で、問題なく新しいものが使えていく筈だ。

その前にケースを探して発注した。今迄はガラスプロテクターを張っていたが、先ずは無しで使えるのではないかと感じた。意外にプロテクターが傷むようなことは今迄もなかった。これはスマートフォンとはもっとも違う所ではないか。つまり入れ物に入れて蓋をしてしまうと傷まず、なによりも床に落としての衝撃を避けて角などを傷めない事の方が最も効果的かと思った。

そしてそのタブレット向きの入れ物は少なくともドイツなどには殆ど在庫がなくて、アマゾン経由で中共から送らせるようで月末の配送となっている。然しそこまで自由に使えず、期限が過ぎてから傷めそうな危険性が感じられた。

なるほどユニヴァーサル型とする大きさを選ばない形式のものはあるが、あまりにもグリップが弱くどこかで落下する危険性のあるようなものに10ユーロ以上も出せない。そこで一種類だけ内側に滑らしこむ形式のものが来週火曜日に配達で17ユーロであったので発注した。明らかに割高であるが、形が合わなければ返送するだけである。

抑々タブレット本体自体が導入価格で販売されていたので、購入したパープル色は既に値上がりして220ユーロと購入価格よりも50ユーロ高価になっている。同時にアクセサリー類もそれが売れるようになってから市場も開ける。少なくともこちらではこれからである。アクセサリー類は安くなっても本体価格が上がればリスクも高くなる。今後の故障等不都合は不明である。

ケースも重量感に大きく寄与する。出来るだけ軽くて且つ確りとグリップできるようなものが望ましい。本体が脱落したり、握ってつるつるしたり、手触りが悪いと使い辛くなる。あまりその点は中共製品であり期待はしていないのだが、一先ず機能的に使えるような製品であればよいと思っている。

タブレットも外に持ち出すようになるとケースは重要になってくるので、色々と試してみる必要もあり、複数を使い分ける方が都合の良いことがある。特に今回はネットTV電話などの機能としても使いたいので、その置き方や角度なども選択していくことになると思う。そこまで機能性が高いことを期待しているのである。



参照:
深圳の道格が安く 2025-06-27 | 雑感
シスコの黄金橋との色合い 2025-07-03 | 雑感

ジーンズが届いた。注目点はネットの色合いが実際はどうか。もう一つは久しぶりの純綿の履き心地はの二つである。前者はいいと思って購入したらキツイインディゴだったことがあるからだ。後者は今迄で一番細いのを履いているのだが、それは1%のウレタンを履いた結果だった。恐らく十代にはもっと細いものを履いていたの違いない。然しメーカーもなにもかも違った。

先ず色目は想ったよりもやはり色が着いていて、明るさよりもブルーの美しさがよい。この色には、サンフランシスコのゴールデンブルッジを背にするショッピングビルの名前がついている。それでも期待させた。

実際に受け取って見ると、これ以上にそれをイメージさせるものはないと思った。神戸もそうなのだが、やはり港町の色目だ。明るい、希望通りである。
【4K】🇺🇸🌉 Walking around Ferry Building and Ferry Building Marketplace in San Francisco🎧, California


大きさは流石に純綿は固く、履き慣らす迄の感覚がある。久しぶりに感じたジーンズらしさで、前回のものは2インチ大きかった。履いて歩くのは問題がないが、座ると腹が押さえられる。寧ろ太もももピッチり気味になって、驚くことに裾が全く長過ぎない。もう一つ長めでも履けそうなのである。足が伸びたのか?

まあ、これならば色合いと言い風合いと言い女性方にも満足頂けるだろう。近々で履いていくのは歯医者ぐらいかもしれないが、女医さんの趣味からするとジーンズで浮気心が?

兎に角、この暑い時に明るい色物を着れるのはありがたい。暑苦しくない。ウレタンが1%でも入っていないだけでも肌触りがシャッキッとしている。熱っぽくない。

朝走ってきたが、気温は既に摂氏28度になっていた。それでも37度からすれば大分涼しい。背中に朝日が当たると灼ける。それでも谷の日影が多い。タイムは流石に最悪なのだが、朝に汗を掻いておくと後が楽だ。序に夕食の火を使うものを準備しておく。冷たいお茶も準備する。夕食までに喉も潤ませておけば水分補強もビールまでの分は果たせる。ゆったり夕食が可能となる。

更に今年最高の気温上昇に備えてバルコンに赤い日除けを設置した。コロナ以降初めてだと思う。それ程ここ暫くは涼しかった。今年も6月までは肌寒い日があったのだが、急に暑くなったのだ。少なくともブルゴーニュ種の葡萄は大した出来にはならない。然しリースリング種が早めに涼しくなると可也期待できる。

純綿ジーンズが41%引きで64ユーロなのは、更に最近は珍しいエジプト製なので、とてもお得な買い物だった。抑々純綿で安売りは最近はなかった上に、純綿で明るい色のものは希少だったので、これほどの買い物はなかった。途中で購入後に89ユーロまで上がっていたが、サイズ切れで再び64ユーロにまで下がった。

こうした吟味もネットショッピングがなければ、18年前までは店のおばさんが薦めるままだった。その差異も分からずに定価で購入するだけだった。大きさも店頭で変えてきたようなもので、否応なく90ユーロ程支払っていた。



参照:
Somewhereできっと❣ 2025-06-29 | 文化一般
LGBT的多様性の色合い 2023-08-03 | 雑感

代車に乗っている。同じ車格の最も導入モデルの殆んど新車である。然し私の車の方が遥かに新しく見える。エンジンルームを開けると枯葉が大分入っていた。ディーゼルで自分で払う燃料費が安いかと思ったが決してそんないい車ではなかった。

大きな相違は駆動エンジンとプラグインハイブリッドでないごく普通のモーターの支援を受けた内燃機関エンジンである。同時に二輪駆動で、エアーサスペンションではないので後輪操舵ではない昔からの自動車である。そしてカロッセリーのデザインラインが異なる。

駆動系が異なって非力とかそういう問題ではない。ディーゼルだからやはり振動と音が大きい。スターターを押してから絶えず鼓膜が押さえられている感じである。正直ショックで、前に乗っていた車の方が耳に遥かに優しかった。なるほど上手に音が作られているのだが、それはブイブイとエンジンを鳴らす感覚の排気音でしかない。一度電気走行を経験すると絶対その世界には戻れない。

通常のエンジンであるからシステムとしては大なり小なり同じ自動運転でも全くスムースではない。これだけでも内燃機関には可能性がない。更にエンジン音なんて完全に勘違いも甚だしい。

なるほどメーカーとしては様々な市場にアピールする必要があるが、同じクラスの中でこれだけ盛大にキャクラクターカーで売るということが可能なのか?そこで最初からモデルラインは、一番数が出て儲かるラインから儲からないラインまでの差が大き過ぎると感じていた。因みに日本では最後のラインは出していない。然し中共やタイでは出している。理由は分からない。

先ずは格好だけの20インチホイールの大きなタイヤで空気羽根がないものだから何ごとかと思うほどの道路からの衝撃が走る。その一方で車体自体が地に這うような後輪駆動感が嘗てのBMWそっくりなのである — そして後輪操舵ではないので自分の車庫入れに何回もタイヤを石畳みこすりつけた。このようならばこの車を買う必要などは一切ない。兎に角長距離に振動と音と足回りで疲れるだけである。その上にエンジンが非力だからどうしろというのだ。

そして何よりも驚いたのは、最も売りたいデザインラインでの車輛下部の高分子樹脂多様は承知していたが、フェークの様に上にまで使われていて、ノックするとパチパチパンチ音になる。こんな車は紙製トラビといい勝負である。空気抜きなども明らかにフェークで、要するに形だけで購入する層を募って、更にディーゼルの満タン1200km走行っていうのは何だかと思う。裸でトルコの奥までクルド人が運転していくのだろうか?

その反面、発電機の関係か嫌にクーラーのファンが日本の通勤電車の様に冷やす。最初からこんなにガサガサしている車ならバン車でよいのではなかろうか。前の車を購入した時にもカロッセリーのトランクの蓋が薄いなと感じたのだが、今回の代車には驚いてしまった。これを何百万円も出して購入するのか?

自分の車に製造上の問題を見つけた以上に感じたのは、そうした製品を沢山市場で捌いて商売をしている様では同じ生産ラインの質が下がる一方ばかりだろうということだ。本社工場でも上の製品ラインナップ上のトリックが共通認識になっていなかったのを確認している。



参照:
漆黒でも冴えない星 2024-07-11 | 雑感
車庫での初の充電中 2024-12-13 | テクニック

再演「火刑台のジャンヌダルク」初日公演に関してはまだ言及していない。想定通りの演奏であったが、その音楽について学ぶことの方が多かった。演出に関しては細部に関しては不明な点もあった。

演奏が良かったのでその構造がよく分かった。レクチュアーであったように、視点の変化を聴衆に与えることで、作品自体が目指している様々な要素を組み合わせるポストモダーンな演奏を自然に行っていた。

よって、ドビュシーにおけるような容易に名演が奏でられるわけではないが、今迄気が付かなかった要素が顕著になっていた。それは、ジャンヌダルクが交感から、それが如何にパトスを漲らすことがない。それを初演の指揮者スーストローの批評やその発言を聞くと、ポストモダーン的な強調則ち強いコントラストなどでの表現と感じられる。

つまり指揮者本人が語っていた様に最初の「選ばれし乙女」とのコントラストが強調されていて、可也喧しく奈落を鳴らして、舞台上の台詞や歌が圧されられていたとなっている。オラトリオとして創作された、つまり舞台上の管弦楽団が奈落に押しやられて尚且つそのような音響を轟かしていたとするとそれは大変拙い。

この視点からすればエンゲル指揮での再演は、明らかに声部もコントロールされていて、尚且つ火炙り台でのそれは交感が空間を以って為されていて、「アシジの聖フランシスコ」のその盛り上がりと高揚を思い起こさせた。エンゲル自身がどうしてこの作品を再演に関与することに決心したのかはまさしくそこに狙いがあったことが分かった。それがカトリック的なパトスであるよりもより客観性を得たものであったからだ。

そこで前半の演出で本来は裸体の処女や子供たちが示されるところで、上下の空間とその雲状の層による中間域を設定する事で後半において同様に火刑台のジャンヌダルクが上から下へと下されて始まることで対応している。

ドビュシーでも演出意図通り、より具体化された精妙なバランスと同様にオネゲルにおいても明らかに秩序感のある音響構成として演奏されたのはその意図通りとなる。まさしくここが音楽劇場指揮における第一人者の指揮と二流指揮者との大きな差異である。こうした音楽の高揚感はエンゲル指揮における特徴でもあって、嘗てプロテスタンの音楽乍そうした胸熱の音楽をしたリリング教授の指揮のカトリック的発露とも言えなくもない。

プログラムを読むと、この制作のコンセプトになっている1970年代のウムベルトエコーの文章が載っている。中世ブームになった当時の火付けとなった論文の概要で、何故中世は今の時代の行きつく先で、その先にはルネッサンスがあり得るかどうかという考察である。まさしく、ジャンヌダルクの史実はそうした、つまり現在の社会における制御されえない複雑な社会であり世界での、カトリズムでは世紀末的な100年戦争における社会変動と無秩序な世俗に対応する神との交感となる。

聴衆からすれば、そこで視点のあっちこっちへの移動が劇場空間の中で生じることになる。劇場体験としては理想的な出しものと言えるのかもしれない。



参照:
日本人は惨めっぽい? 2008-08-03 | 女
見事な指揮のドビュシー 2025-06-23 | 音