食事会、同窓会、親睦会、誕生会、法事・・・etc様々な時に、幹事となり、お店を予約したりすると思う。私も、父や母の法事で親戚を呼んだ時、お店を予約した。その際、いくつかトラブルがあったので、それを書こうと思う。トラブルには、予測不可能の事態でやむをえない場合と、予測可能で避けられる場合があると思う。これから書くのは、予測可能な場合なので、頭に入れておくとトラブルを防ぐ事が出来る。3つ例を書くので、参考にしていただけると幸いである。

 

① 会場のレイアウトは、出来れば、事前に実際に見ておいた方がいい

 父の法事で、私の田舎でも有名な料亭の支店でのこと。事前に、そのお店から、会場のレイアウト(席次表)が送られてきて、名前を記入して返送するように言われていた。お店としては、席に名前を出したかったのだと思う。たしかに、合理的に考えるなら、席次など決めずに、店に着いた順に奥から詰めて座っていけば、いいかもしれないが、日本には、上座、下座という考え方があり、そうもいかない。渡された図に、親戚の席次を決めた。叔父たちの兄弟の順、それぞれの家族が、1ヶ所に固まるように、私たち家族は、出入り口に近い下座にという具合に、それなりに考えて配置した。しかし、実際には、トラブルが起きた。それは、Aという部屋の図が送られて来ていたが、実際に通されたのがBという部屋だったために起こった。同じ作りの部屋であれば、それでも問題ないのだが、部屋の向きが逆になっていた。なので、左右が反対になり、上座下座が、逆で、私たちが、出入り口ではなく、窓側の上座に近い方に座ることになってしまっていた。それぞれの家族の人数や、子供用のお膳などもあり、簡単にレイアウトを直すわけにもいかないので、そのように座るしかなかった。また、そのため、お土産についても、私たちが意図したのとは、違う人の所に置かれてしまった。前日に、現地入りしていたので、レイアウトを送ってあることで安心してしまっていて、事前に会場を見ておかなかったことを後悔した。これは、見ておけば、防ぐ事が出来たことだった。

 

② アレルギー情報は、正確に伝えること

 食物アレルギーは、命にかかわることなので、家族であれば、ごく当たり前のことように知っている。そのため、油断があり、お店に細かく伝えないことがある。①と同じ時であるが、私の甥っ子には、生卵のアレルギーがある。ただし、それは、鶏卵についてであり、鶏卵だっとしても火が通っていれば問題ない。しかし、家族にとっては、当たり前の事項なので、お店に伝える時、単に、卵アレルギーとしか伝えなかった。それが、失敗だった。甥っ子は、イクラは、大好きなのだが、お店側が、卵アレルギーへの配慮として、甥っ子のお膳だけ、イクラが乗っていなかったのである。これは、正確に伝えなかった私に非があるので、お店を責めるわけには、いかない。私が正確に伝えなかったせいで、甥っ子が大好きなものが食べられず非常に申し訳ないことをしたと思っている。

 

③ 料理の変更は、何度も確認すること、電話口だけじゃなくて、お店に行った時、直接口頭でも確認した方がいい

 会食の場合、料理についても予め決めて予約する場合が多いと思う。これは、母の法事の時の事で、カジュアルな居酒屋での会食で起こった事。以前からお店に電話で、何度も連絡をとり、例えば、部屋の事、足が悪い人がいるので座敷は、NGで、本来は、椅子席がベストだが、それはその店にはないので、掘りごたつ式の個室であること、地酒のセットをつけることなど注文した。そして、少し経ってから、私は、叔母の1人が、鶏肉がダメなことを思い出したので、お店に電話して、料理の変更が可能かどうか聞いた。すると店側が値段を変えずに、その料理をある料理と変更することが可能であると言った。その料理の食材は、亡母の思い出にもつながる食材なので、そのことなども、挨拶でしゃべれるしいいと思った。さらに、叔母1人だけ違う料理というのも仲間はずれみたいでよくないと思い、全員の料理をそれに替えることを考えた。電話口で変更をお願いし、1人分じゃなくて全員分だよという意味で、私は、全部で11人だったので、11人分だよと繰り返すことで、念を押したつもりだった。にもかかわらず、お店は、勝手に1人分の変更と解釈し、1人分だけ、その料理を持ってきた。その前にも、安くあげるため、私1人だけ、ノンアルコールのセットに変更してもらったり、お店に手間をかけさせているということはあるものの、勝手に解釈されたことは、納得できない、しかし、メールを受け付けているお店なら、メールという形で、書いたものが残っていて確認可能だが、電話だと記録が残らないので、言った言わないになってしまう。なので、変更等、重要事項がある場合は、電話口だけじゃなくて、お店の人と実際に会って確認する必要があるんだなと学んだ。

 

 

 

 

先日、はじめて、大阪の守口というところへ行き、前からひいきにしているINさんのライブを聞いてきた。守口は、この間、訪れた枚方(ひらかた)と一緒で、東海道の続きの宿場町の一つだ。単独ライブではないので、中には、ちょっと苦手なタイプの人もいたものの色々な人が出て面白かった。中には、1人でカントリーを歌った人もいた。その人もトーク言っていたのだが、カントリーは、フィドル(バイオリン)、スチールギター、バンジョーなどを加えたバンド形式でやる人は多いかもだけど、ソロで歌う人は、なかなかいない。かつては、カントリー&ウエスタンでは、ジミー時田、小坂一也、大野義夫、寺本圭一、かまやつひろし、いかりや長介、寺内タケシなど、有名歌手がいっぱいたし、「カントリーロード」「ジャンバラヤ」「デイビークロケットの歌」さらには、歌詞を変えて、ヨドバシカメラの歌として知られている「愛しのクレメンタイン」など、よく知られているヒット曲もあった。

 その中で、皆がよく知っている曲ということで、「大きな古時計」をやった。この曲は、戦前にミミー宮島という人が、いまとは、違う歌詞で、ジャズアレンジで歌ったのが、日本では最初。その後、NHK、みんなのうたで、よく知られている歌詞で、歌われた。この歌詞は、アニソンの作詞でも知られている。保富康午という作詞家のもの。保富氏は、父の会社の同僚だった人で、それまで大阪の人と接触したことが無かった父にとってカルチャーショックだった人。父が最初に言われた一言が、父の絞めていたネクタイを指さして、「これ、なんぼ?」というものだったそうだ。

 なお、父も参列した同氏の葬儀では、デュークエイセスが、古時計を歌ったそうだ。

いよいよ本題に入るが、いま気になっているのは、歌詞の解釈である。日本語の歌詞では、「100年休まずに動いていた」とあり、この100年というのは、おじいさんが生まれてから亡くなるまでの100年間という意味にとれると思う。しかしながら、原詩においては、100年ではなく、90年となっており、その90年というのは、おじいさんが亡くなってから90年という意味にとれると思う。つまり、おじいさんがいなくなって、ネジを巻いてくれる人がいなくなり、時計も、おじいさんとおなじように、時を刻むのを止めてしまったという意味合いにとれると思うのだ。

 このブログを読んだ皆様は、どのように、解釈していらっしゃるだろうか?教えていただけると幸いだ。

母の新盆で、新潟に墓参りに行った。そこで、前からやりたいと思っていた廃線跡歩きをした。

当初は、中心部から郊外へ向かって歩くつもりだったが、事情により反対になった。

 

まずは、「東関屋駅」から、母の実家前にあった駅で、小学生の時は、ここから、よく1駅、県庁前まで乗ったものだった。晩年の東関屋駅構内の写真を添えて置く。晩年の駅舎は、コンビニを併設していたので、それだけでも残っていないかと思ったが、残っていなくて、跡地には、「おもと園」という老人福祉施設が建っていた。

 

さらに、しばらく中心部に向って歩いて行くと私立新潟第一高校に、さしかかる手前に、「鉄軌分界点」の跡があった。ここから、東関屋駅移行は、普通の鉄道になり、反対に、ここまでは、路上の併用軌道を走る路面電車となる分かれ目ということ。新潟交通電車線は、一部だけが、路面電車という特殊な鉄道で、そのため、雑誌の路面電車特集などでも扱われていないことが多い。同様の鉄道は、福井市内にもあったようだ。

 

この先は、私が乗った頃には、すでに無かったが、戦時中まで、終点の県庁前までの間に、数か所の停留所が設けられていた時代があったそうだ。そこで、停留所があったと思われる付近の写真も並べて見る。なお、停留所は、東関屋駅や県庁前駅のようにプラットホームがあるわけではなく、いわゆる電停なので、通常の車両では、床が高すぎて乗降できないため、この区間を折り返し運転していた床の低い車両のみが停車していたという。

 

「硫酸会社前」停留所跡付近。 新潟第一高校を過ぎた辺りに、かつて1896(明治29)年創業の硫酸会社があり、石油精製に必要な硫酸、過燐酸肥料の製造をしていて、異臭を放っていたという。電停は、1936(昭和11)年4月11日~1944(昭和19)年9月1日まで設置されていた。国鉄越後線から硫酸会社への商品輸送のための引き込み貨物線もあった。

 

 

 

 

「軽金前」停留所跡付近。関屋方面から来ると千歳橋に曲がる交差点を過ぎた所。軽金は、橋を渡って反対側、現在の県庁の近くにあったので、ここで降りて、当時付近にあった塩の橋を渡ったのではないかと思われる。電停の中では、一番後の設置で、1941(昭和16)年3月8日~1944(昭和19)年9月1日まで存在した。

 

 

 

 

現在は、JR越後線のガードを潜って旧線跡は、クロスオーバーしている。1951(昭和26)年12月15日以前は、クロスオーバーせず、新潟交通と並行して走っていた。このガードを過ぎた辺りが、「中学校前」停留所跡付近。近くに、旧制新潟中学校(現、県立新潟高校)がある。電停は、1935(昭和10)年6月27日~1944(昭和19)年9月1日まで設置されていた。

 

 

 

「白山浦二丁目(商業通)」電停付近。電停は、1936(昭和11)年4月11日~1944(昭和19)年9月1日まで設置されていた。

ここでいう商業というのは、旧制の商業学校、現在の新潟県立新潟商業高校のことである。電停は、1936(昭和11)年4月11日~1944(昭和19)年9月1日まで設置されていた。

父の生家は、この停留所と前掲の中学校前の中間にあったそうだ。

 

 

「白山浦一丁目(白山駅前)」電停付近。現在でも、左に曲がるとJR白山駅に至る。昭和26年以前は、反対に右に曲がると国鉄白山駅に至った。電停は、1936(昭和11)年4月11日~1944(昭和19)年9月1日まで設置されていた。

 

 

 

 

 

「監督署前」電停付近。かつて、監督署と呼ばれる公共施設があった。場所としては、旧電車通りの終点付近。電停は、1936(昭和11)年4月11日~1944(昭和19)年9月1日まで設置されていた。

 

 

 

 

 

終点「県庁前」駅跡。ここには、社屋を兼ねた「県庁前駅」があった。新潟市発行の『新新潟歴史双書5鉄道と新潟』より当時の駅舎の写真と現在近くにある同駅舎を模したと言われる公衆トイレを掲載する。駅は、1933(昭和8)年7月28日開業し、1985(昭和60)年6月1日、県庁舎移転に伴い、「白山前」駅と改称。1992(平成4)年3月20日、軌道部分(路面電車の部分)廃止によって廃止になった。現在は、新交通システムBRTの駅として復活している。

 

最後にJR越後線の旧線にあった初代白山駅について

現在の白山駅は、2代目で、1951(昭和26)年12月15日に、移転開業した。以前の越後線は、前掲のガードのところでクロスオーバーせずに、そのまま直進していた。

初代白山駅の跡は、新潟市立鏡淵小学校となっている。あわせて、初代白山駅の写真を県庁前駅の写真と同様に、新潟市発行の「鉄道と新潟」より載せて置く。当時としては、めずらしい2階建ての駅舎で、新潟が誇る西洋料理店「イタリア軒」の支店が入っていたという。

 

旧線跡の通りを関屋側に向けて撮った写真と旧線跡から白山駅跡方面を向かって撮った写真。

 

おまけであるが、かつての新潟交通の車両を思わせるデザインのバスが、現在街中を走っている。写真は、取れなかったが、電車通りで走っているのを見かけた。参考までに、以前、別の場所で撮った写真を掲載する。