2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、日本発着の欧州便は北極圏ルート、もしくは中央アジア横断ルートの飛行を余儀なくされており、フライト時間は約2~3時間長く、それに伴い運賃も高くなっている。困ったことである。

 僕はどのクラスに乗ってもほとんど眠ることができない。加えて、眼があまり強くないため、暗闇の中で座席のモニタやPCを長時間見つめることも、読書灯を用いて本を読み続けることもできない。したがってほとんどの場合、ノイズキャンセリングのヘッドフォンで音楽を小さな音で聴きながら、じっと耐えることとなる。

 緊張を強いられるものや、長時間聴いていると疲れてしまうものは、機内では苦しい。

 つまり、地上に居るときなら至宝である、アーノンクールのモーツァルト、グールドのベートーヴェン、グッドールのヴァーグナー、ブーレーズのヴェーベルン等を再生する気にはなれない。そうなると、好みの音楽のなかでも以下のような条件を満たすものが必要となってくる。

・意識を向けることも遠ざけることもできるもの
  →ただ流していても心地よく、集中すると時を忘れられる、そんなアルバム群。

・適度な変化があるもの
  →一定の「差異と反復」が求められる。

・二~三時間程度のまとまりを有するもの
  →何時間も聴いているわけにはいかない。音楽と沈黙のサイクルが重要であろう。

 これらの条件をクリアして、機内で再生される機会が多いものを、何の参考にもならないかもしれないけれど、ご紹介したい。

 ひとつ目は、イタリアのオッターヴィオ・ダントーネ(Ottavio Dantone)指揮アッカデーミア・ビザンティーナ(Accademia Bizantina)によるヴィヴァルディの協奏曲集成。
 ARTS、Archiv、naïveなどのレーベルを越えて自分独自にまとめたもので、どこから聴いてもよいし、ヴァイオリン協奏曲以外のコンチェルトも含まれているので飽きない。なにより、ダントーネが紡ぎ出す音楽は格調高く、過激な部分があったとしても過剰ではない。かと言って、単調で大人しすぎるわけでもなく、ヴィヴァルディ特有の「ドライヴ」が見事に仕込まれている。

 ダントーネのヴィヴァルディは最も移動に適した音楽のひとつだと僕は思っている。
(関係ないけど、かつて南仏の都市のCDショップ《もはや数が少なくなってしまった…》に行くたびに、「ヴィヴァルディ特設コーナー」を見かけたので驚いたことがある。イタリアでそんなことはなかったのに。なぜなのかしら。)


 ふたつ目は、晩年のジェリー・マリガン(Gerry Mulligan)がテラーク・レーベルに録音した「三部作」、すなわち『Paraiso』、『Dream A Little Dream』、『Dragonfly』。それぞれヴォーカル付、クォルテット、(主として)ビッグバンドとヴァラエティに富んでおり、通して聴くと約三時間となる。
 1990年代に入り、マリガンはより慈しみを込めてバリトン・サックスを吹くようになった。出てくる音がマイルドになり、ワンフレーズ、ワンフレーズがいっそうニュアンスを帯びるようになった。吹き放たれた音は、空間を占有するのではなく空間に溶け込んで淡い色をつける。衰えなんてかけらもみられない。枯れもない。音楽の深度が深まった。いや、むしろ音楽の懐が深くなったと言うべきだろう。
 長くなってしまうので少しだけ取り上げると、アルバム『Paraiso』は、焦点がきっちりとブラジルに当てられており、全編を通して、ジャニ・ドゥボキ(Jane Duboc)のヴォーカルと、マリガンのバリトンの二重唱を聴くことができる。たとえば、こんな具合に。


O Bom Alvinho

(これ、マリガンのオリジナルなんです《歌詞はドゥボキによる》。とても素敵ですよね。)

 二十代の頃に夢中で聴いたこのアルバムに耳を傾けていると、自分がいま楽園(Paraiso)に、もしくは「はじめの時」(何のことかわからない場合は、エリアーデの著作を!)に向かっているような心持ちになる。たとえ実際の目的地がバキバキに乾燥した真冬の中欧だったとしても。

 暗闇のなかで聴く「Noblesse」(『Dream A Little Dream』所収)や「Little Glory」(『Dragonfly』所収)。所謂ジャズの流れとは無関係にマリガンはマリガンの時間を生きたのであって、彼がいなくなってもその時間は流れ続けているのだな、そんなことを考える。「聴く」という行為を通して、僕たちは現在でも彼の時間を共有し、その振動を分かち合うことができる。

 そして、三時間があっという間に過ぎる。その上、気分も良い。まさしく「長時間フライトの伴侶」なのである。

 唯一の問題は、地上でこれらのアルバムを聴くと、機内を思い出してしまうこと。

 ま、仕方ないか。