毎年のように信州を旅していた時期があった。
信濃追分に足を向けることが一番多かった。
堀辰雄文学記念館を訪問し、
そのあとで、泉洞寺裏手にひっそりと立つ小さな石仏にお参りする。
堀辰雄が愛したあの像の前に行くと、不思議とあたたかい気持ちになる。
そのひとときがたまらなかった。
大学院生の頃、関西で開かれる学会に参加するときは、
決まって一泊余分に泊まり、奈良の寺社を巡ったものである。
当時は学会に自費で参加していたため束縛はなく、
懐はたいそう寂しかったが、時間だけはあった。
どちらを旅する時も、鞄のなかに入っていたのは、いつも『大和路・信濃路』であった。
厳しい時代に堀辰雄はなぜこれほど静謐な文章を書くことができたのだろう(*)。
彼の「強さ」に私はずっと憧れている。
現在流通しているものとしては、新潮文庫の『大和路・信濃路』がある。
字が大きいため読みやすいし、茶色のスピン(栞の代わりになる、あの紐!)はいつだって素敵だ。
だがいくつかの重要なテクストが省かれているのが、残念でならない。
たとえば「樹下」。
たしかに、これは『婦人公論』での「大和路・信濃路」の連載が終わった後に、書かれたものである。
けれど、1954年に人文書院から刊行された単行本では「序」の役割を果たしていた文章であり、
泉洞寺裏手のあの石像の描写から始まり、中宮寺の観音像へと話題が移っていくのである。
その点、2018年に本郷書森が限定300部で刊行した『大和路』は素晴らしい。
ただ、タイトルが示しているように収録されているのは『大和路』のみである。
歳を重ねるにつれ、私は「ある一冊の本」を強く求めるようになってきた。
1942(昭和17)年から1949(昭和24)年にかけて書かれた、
奈良と信州についての随筆風の作品群・書簡・日記の集成である。
堀辰雄は1953(昭和28)年5月に亡くなっているので、その「晩年」を知るための格好の材料ともなる。
そこで、手元の版を見比べながら、いつしか「自分が本当に読みたい一冊」の輪郭を考えるようになった。
内容案は以下のとおりである。(右欄は既刊各版への収録状況。空欄は未収録)
(クリックしていただけると拡大可能です)
青磁: 『花あしび』青磁社、1946年
人文: 『大和路・信濃路』、人文書院、1954年(神西清と谷田昌平による)
新潮: 『大和路・信濃路』、新潮文庫、1955年
角川: 『大和路・信濃路』、角川文庫、1960年
本郷: 『大和路』、本郷書森、2018年
手前味噌になるが、『大和路・信濃路』だけでなく『花あしび』でも冒頭に置かれていた、前述の「樹下」から始まり、「豆自伝」で終わる構成は、悪くないと思っている。
「豆自伝」はその名の通りごく短いが、読み終えたあとに静かな余韻が残る。
これは研究書ではない。
旅の最上の「連れ」となる一冊である。
だからこそ文庫が相応しい。
どこかの出版社がこの企画を採用してくださらないだろうか。
全力で解説を書かせていただく所存である。
註(*)
「大和路」は、主に以下の奈良旅行に基づく。
1937(昭和12)年、晩春
1939(昭和14)年、晩春~初夏に神西清と
1941(昭和16)年、秋→「十月」、12月→「古墳」
1943(昭和18)年、春に夫人と →「浄瑠璃寺の春」
追記
「ノオト」など本当に必要かと思われるかもしれない。
だが、たとえば以下の一節をお読みいただきたい。収録にご納得いただけるのではないだろうか。
興福寺の阿修羅像について
「この天平様式がその花を開かんとして尚、蕾としての姿を留めているこの十大弟子の像に見出される美しさは、その水々しさの故に自ら一種の趣を帯びるのである。例えば八部衆の中なる阿修羅像の如き、何か遥かなものをみつめている如き眼差しや、つつましげに結んだ口元には一種の寂しさを幽かに帯びてはいるが、然しその柔らかさではあるが引き緊った頬には、やはり少年のみの素直な且つ愛くるしいものを湛えている。此幼きものの美しさは恂に白鳳の精神であった。」
『大和路・信濃路』、人文書院、1954年、191頁。
『堀辰雄全集 第七巻』、筑摩書房、1980年、517-518頁。
「ノオト」はこうした記述の宝庫なのである。
余談ながら、彼は自分の書棚の配置予定表(のようなもの)を残している。「宗教」のコーナーのメインは姉崎正治であった。さすが堀辰雄である。