リース『宗教の起源』が『中外日報』で紹介されました。


ジュリアン・リース『宗教の起源』(江川純一監修、小藤朋保・溝口大助訳、国書刊行会、2025年)

https://www.chugainippoh.co.jp/article/kanren/books/20260306-001.html



深く感謝申し上げます。


数々の写真をご覧いただきたいし、リースによる一貫した「宗教」理解(賛否あるかと思います)にも是非触れていただきたいです。


面白い本であることは請け合います。

どうぞよろしくお願いいたします。

3月8日、東京大学文学部にて、ペッタッツォーニ『神の全知――原始宗教における最高存在――』(国書刊行会、2026年)の合評会が開かれました。


私と鶴岡先生によるプレゼンの後、3名の先生方からそれぞれ、宗教的ア・プリオリとの親和性、認知宗教論との連結、エリアーデとの差異についてコメントと質問を頂き、全体討論を行いました。


2時間あれば充分と思っていたのですが、コメントや質問が相次ぎ、まったく時間が足りません。嬉しい誤算でした。


科研研究会という、やや閉じた場であったにも関わらず、ZOOMも合わせると名誉教授世代から修士課程の院生に至るまで多数の方々がご参加くださり、本当にありがたかったです。


この場を借りて御礼申し上げます。


ペッタッツォーニにおける歴史主義的な部分と、宗教現象学的な部分との共存がやはり興味深いですよね。現在の研究に生かせる部分と、そうでない部分に関するさらなる検討が必要です。


本書に関しては、来年度、一般向けのオープンな集まりを開催するつもりでおります。その際は告知いたします。どうぞよろしくお願いします。



追記


非常勤先の音大で毎週のように開かれている公開演奏会、(元・現)受講生たちによる各所でのリサイタル、それらを聴くことは私にとって大いなる喜びで、確実に研究活動の糧となっています。


「多忙な仕事」が「優雅な生活(くらし)」に結びつかないのがわれわれ(これ、若い方々に通じるだろうか…)。そんななか、若い音楽家たちとの対話が、どれだけ「潤い」となっていることか。


いつも本当にありがとうございます。


宗教学の文献リストを更新し「第二版2026年修正稿」としました。


本気で宗教学を学びたい人のための文献リスト第二版(2026年修正稿)

 

今回追加したのは、ペッタッツォーニ『神の全知――原始宗教における最高存在――』(国書刊行会)です。

自分が関わった本は基本的に対象外していますが、単著ではなく編訳書ですし、やはり外せないと判断し加えました。

(ページの一番下です。)

 

ご自由にご活用ください。

今回から「最高存在」を扱いますが、まずはその前提について考えてみましょう。
本書所収の「解説・解題」よりも、さらに分かりやすい記述を目指しますね。

西洋世界において「神(dio)」と言えば長らくキリスト教とユダヤ教のそれを指し、それ以外は「偽りのもの」「劣ったもの」とされていました。
近代の概念である「宗教(religione)」についても同様です。20世紀初めにおいてでさえもそのような見方が支配的でした。

既に宗教についての世俗的研究(つまり教会の立場からではない宗教研究)が開始されていましたが、19世紀に支配的だった宗教進化論の内実は、価値判断を伴う「宗教進歩論」でした(この宗教進化(進歩)論はチャールズ・ダーウィンの進化論とは異なりますので、ご注意ください)。
19世紀の宗教進化(進歩)論では、当たり前のように一神教は階段の頂点に、多神教はその下に、同時代世界各地の原住民たちの宗教(「原始宗教」)は階段の一番下に、置かれていました。

そんななか、スコットランドのアンドルー・ラングが1890年代に「最高存在(supreme beings)」という概念を提出し、所謂「原始社会(未開社会)」にも一なるものへの信仰が見られることを明らかにしました。天空を擬人化したものを一なる最高のものとして崇拝の対象とする、ラングはそうした事例をかき集めていました。

我が国ではあまり注目されていないようですが、ここはけっこう重要です。

つまりそれは、低いレベルのものとされていた「原始宗教」に、「高等」で「進化(進歩)の最終段階」とされていた一神教的な要素がみられることの指摘だったのです。
さらに、宗教はフェティシズムやアニミズムやマナや呪術から発生したとする各種学説では神観念の発生がうまく説明できなかったのですが、この面でも最高存在論は魅力的なものでした。

ラングの説は、一神教こそが最古の宗教であるとするヴィルヘルム・シュミットの「原始一神教説」へと繋がっていきます。

19世紀の宗教進化(進歩)論(最高のものである一神教が一番最後)、20世紀の原始一神教説(最高のものである一神教が一番最初)、一見相矛盾するこれらの説に同時に向かい合ったのが、ペッタッツォーニです。

次回、ペッタッツォーニは最高存在概念を用いて、何をしようとしたのかについて考えたいと思います。

 

今回の訳書に収められているイタリア語著作のタイトルは『原始宗教における最高存在(神の全知)』で、日本語版の『神の全知――原始宗教における最高存在――』とは本題・副題が逆になっています。『神の全知』は1955年の著作のタイトルであり、『原始宗教における最高存在(神の全知)』(1957年)は、その縮約/増補版です。

 

つまり、事例の紹介については大幅に圧縮されているけれど、理論に関しては付け加えられた点が多々あるという、やや複雑な書物なのです。

 

事例が地域別に並べられた1955年版の大著を翻訳することも考えましたが、まずはペッタッツォーニ宗教史学の最終形を示したいという思いから、彼の最後の著作を翻訳することにしました(いずれ機会があれば、1955年版の翻訳も考えたいと思っています)。

 

ペッタッツォーニという人は自己アピールがやや苦手で、商売っ気がないというか、(良く言えば)おもねりがないというか、著作についても「足し算」ではなく「引き算」で作る人です。そのためか、最後の著作も素っ気なく、やや分かりにくい。

 

そこで、全体を二部構成とし、第二部『原始宗教における最高存在(神の全知)』 の前に、著作の基礎を成す諸論考七本を三つの主題に分けて収録することにしました。それが第一部の「一神教/多神教論」、「神話論」、「宗教史学方法論」です。

 

論文「比較方法」のみ、『原始宗教における最高存在(神の全知)』 以後に発表されたものですが、そのアイデアは以前から存在していたものですので、これら七本を先にお読みいただけると、第二部の著作がぐっと分かりやすくなるはずです。

もちろん、まず第二部から挑戦してみるのも、面白いと思います。

 

次回以降、「一神教/多神教論」が実は「最高存在論」であることについて、ご説明します。

ジュリアン・リース、『宗教の起源』(江川純一 監修、小藤朋保・溝口大助 訳、国書刊行会、2025年)の書評が、『週刊読書人』2026年2月27日号に掲載されました。

 

評者は、我が国を代表する神話学者で和光大学名誉教授の松村一男先生です。

 

 

学問史における著者リースの位置づけだけでなく、彼が採用している宗教現象学についても分かりやすく説明されている、非常にありがたい文章です。

 

また興味深いのは、同タイトルのロビン・ダンバー『宗教の起源――私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか――』(小田哲訳、白揚社、2023年)とリースの著書が矛盾しないことに関する指摘です。

松村一男先生に厚く御礼申し上げます。

 

ちなみにジュリアン・リースはペッタッツォーニの影響を強く受けています。

 

『週刊読書人』とリース『宗教の起源』を、書店や図書館でお手に取っていただけると嬉しいです。

 

 

追加

『宗教の起源』について、版元がこんな資料を作ってくださっていたことを、昨日(2026年3月7日)知りました。

https://www.kokusho.co.jp/catalog/9784336066718.pdf (pdf注意)

なにとぞよろしくお願いします。

 

最高気温がマイナスで、毛糸の帽子とダウンコートが必須の欧州から帰国して、ビックリ。

もう春の陽気じゃないですか!

この調子では四月下旬から「夏」になりそうですね…涙

 

さて、予定よりも少し早くペッタッツォーニ『神の全知』が刊行されたようです。

 

本書はイタリア語(一部フランス語)からの日本語訳でやや難解ですが、解説が二本収められています。大学院時代の師である鶴岡先生による見事な解説「古典的宗教学のなかのペッタッツォーニ」が約20頁、拙解説・解題「ペッタッツォーニを読み解くために」が約40頁。両方を読んでいただけると見通しが少し良くなるはずです。なにとぞよろしくお願いします。
 

ペッタッツォーニ訳書の刊行により、これまでの仕事は以下のようになりました(表紙に自分の名前があるもののみ)。

うーん、単著が少なすぎますね。

いっそう精進します。

 

 

追伸

 

告知していた「ペッタッツォーニ訳書紹介」が①で止まってしまっており、申し訳ありません。

近日中に再開するつもりです。

 

 
『巨石――イギリス・アイルランドの古代を歩く』(早川書房、2006年)で知られる山田英春さんが、本書にぴったりの写真を選び、素敵なカバーを作ってくださいました。
 
「グンデストルップの大釜(Gundestrup cauldron)」と呼ばれている、デンマークで発見された紀元前1世紀頃の銀製品に描かれていた図像です。
 
これをペッタッツォーニは古代ケルトのケルヌンノス(Cernunnos)だとしており、最高存在の三類型のひとつである「動物の主(しゅ)」との関連を示唆しています。
 
最高存在と何でしょうか?
 
「動物の主」は何を意味するのでしょうか?
 
少しづつ説明していきますね。

 

来月24日、いよいよ発売となります。

 


ラッファエーレ・ペッタッツォーニ

『神の全知――原始宗教における最高存在――』
江川純一 編訳

解説・解題(江川純一)
解説(鶴岡賀雄)
発売日 2026/02/24
396 頁 
定価6,820円 (本体価格6,200円)

 

 
本日は予告のみでご容赦ください。
今後、数回に分けて、内容を紹介いたします。
なにとぞよろしくお願いいたします。

毎年のように信州を旅していた時期があった。
信濃追分に足を向けることが一番多かった。
堀辰雄文学記念館を訪問し、
そのあとで、泉洞寺裏手にひっそりと立つ小さな石仏にお参りする。
堀辰雄が愛したあの像の前に行くと、不思議とあたたかい気持ちになる。
そのひとときがたまらなかった。

大学院生の頃、関西で開かれる学会に参加するときは、
決まって一泊余分に泊まり、奈良の寺社を巡ったものである。
当時は学会に自費で参加していたため束縛はなく、
懐はたいそう寂しかったが、時間だけはあった。

どちらを旅する時も、鞄のなかに入っていたのは、いつも『大和路・信濃路』であった。
厳しい時代に堀辰雄はなぜこれほど静謐な文章を書くことができたのだろう(*)。
彼の「強さ」に私はずっと憧れている。

現在流通しているものとしては、新潮文庫の『大和路・信濃路』がある。
字が大きいため読みやすいし、茶色のスピン(栞の代わりになる、あの紐!)はいつだって素敵だ。

だがいくつかの重要なテクストが省かれているのが、残念でならない。
たとえば「樹下」。
たしかに、これは『婦人公論』での「大和路・信濃路」の連載が終わった後に、書かれたものである。
けれど、1954年に人文書院から刊行された単行本では「序」の役割を果たしていた文章であり、

泉洞寺裏手のあの石像の描写から始まり、中宮寺の観音像へと話題が移っていくのである。

その点、2018年に本郷書森が限定300部で刊行した『大和路』は素晴らしい。
ただ、タイトルが示しているように収録されているのは『大和路』のみである。

歳を重ねるにつれ、私は「ある一冊の本」を強く求めるようになってきた。

1942(昭和17)年から1949(昭和24)年にかけて書かれた、

奈良と信州についての随筆風の作品群・書簡・日記の集成である。

堀辰雄は1953(昭和28)年5月に亡くなっているので、その「晩年」を知るための格好の材料ともなる。

そこで、手元の版を見比べながら、いつしか「自分が本当に読みたい一冊」の輪郭を考えるようになった。
内容案は以下のとおりである。(右欄は既刊各版への収録状況。空欄は未収録)

(クリックしていただけると拡大可能です)

   

青磁: 『花あしび』青磁社、1946年
人文: 『大和路・信濃路』、人文書院、1954年(神西清と谷田昌平による)
新潮: 『大和路・信濃路』、新潮文庫、1955年
角川: 『大和路・信濃路』、角川文庫、1960年
本郷: 『大和路』、本郷書森、2018年

手前味噌になるが、『大和路・信濃路』だけでなく『花あしび』でも冒頭に置かれていた、前述の「樹下」から始まり、「豆自伝」で終わる構成は、悪くないと思っている。
「豆自伝」はその名の通りごく短いが、読み終えたあとに静かな余韻が残る。


これは研究書ではない。

旅の最上の「連れ」となる一冊である。

だからこそ文庫が相応しい。

どこかの出版社がこの企画を採用してくださらないだろうか。
全力で解説を書かせていただく所存である。


註(*)

「大和路」は、主に以下の奈良旅行に基づく。
 1937(昭和12)年、晩春
 1939(昭和14)年、晩春~初夏に神西清と
 1941(昭和16)年、秋→「十月」、12月→「古墳」
 1943(昭和18)年、春に夫人と →「浄瑠璃寺の春」

 

 

追記

 

「ノオト」など本当に必要かと思われるかもしれない。

だが、たとえば以下の一節をお読みいただきたい。収録にご納得いただけるのではないだろうか。

 

興福寺の阿修羅像について

「この天平様式がその花を開かんとして尚、蕾としての姿を留めているこの十大弟子の像に見出される美しさは、その水々しさの故に自ら一種の趣を帯びるのである。例えば八部衆の中なる阿修羅像の如き、何か遥かなものをみつめている如き眼差しや、つつましげに結んだ口元には一種の寂しさを幽かに帯びてはいるが、然しその柔らかさではあるが引き緊った頬には、やはり少年のみの素直な且つ愛くるしいものを湛えている。此幼きものの美しさは恂に白鳳の精神であった。」

『大和路・信濃路』、人文書院、1954年、191頁。
『堀辰雄全集 第七巻』、筑摩書房、1980年、517-518頁。


「ノオト」はこうした記述の宝庫なのである。


余談ながら、彼は自分の書棚の配置予定表(のようなもの)を残している。「宗教」のコーナーのメインは姉崎正治であった。さすが堀辰雄である。