部屋を片付けていたら、イタリアに住んでいた頃の封筒が出てきた。
おもてには「belle arti」(「美術」の意)と書かれてある。
中身は美術館のパンフレットやチケットの半券などで、この約二十年間一度も目にせず、探してすらいなかったものである。
今後も手に取ることは無いだろう。
すべて資源ごみ行きにすることにした。

だが、一応と思って調べてみると、こんなものが…


 

そして、その中に挟まれていたのは…

 

おお。
マエストロに頼み込んでいただいたもの(当時は私も若かった)。

数度の引っ越しにより既に失われたと思い込んでいた。
まさか美術関連の書類のなかに入っていたとは。

僕の研究対象であるペッタッツォーニのアーカイヴがボローニャ近郊にある関係で、留学中、何度もボローニャに足を運んだ。
モーツァルト管の本拠地で開かれたこのコンサートを聴いたのも、調査の狭間の週末であった。


マエストロ・アッバードは若手奏者たちと実に愉しそうに「音楽して」(musicare)おり、モーツァルトはコミュニケーションの「場」なのだなと感じたことを覚えている。

(実はその後、僕はアッバードのモーツァルトをまったく聴かなくなり、ピリオド楽器による演奏ばかりの状態へと戻ってしまった。)

今回改めてプログラムを見て驚いたのは、ハフナー・セレナーデにおけるヴァイオリン・ソロの奏者名。
ヴィヴィアン・ハグナーだったなんて。
(もちろん巧かったけれど、ジュリアーノ・カルミニョーラじゃなくて残念という記憶しかなかった。後年、紀尾井ホールでのリサイタルを聴きに行ったとき、「初ハグナーだ」と興奮していた自分は何だったのか。)

コンサートは、前半が交響曲第33番、後半がハフナー・セレナーデの所謂「オール・モーツァルト・プログラム」。
実に魅惑的な響きである。

だがこうした「オール・モーツァルト・プログラム」は普遍的な現象ではなく、作曲者の没後、モーツァルトの交響曲や管弦楽曲がほとんど演奏されなくなったことはよく知られている。


例えば、ゲルノート・グルーバー『モーツァルト受容の二〇〇年史』(山地良造訳、音楽之友社、1994年)には、「一八一八年から開催された有名なニーダーライン音楽祭のプログラム」(222頁)について、以下のような記述がある。
(同書には記されていないが「ニーダーライン音楽祭(Niederrheinisches Musikfest)」とは、ブルクミュラー兄弟の父であるフリートリヒらが始めた音楽祭である。)

「さらに驚くことには、モーツァルトの交響曲が初めて演奏されたのはようやく一八三四年になってからなのである。演奏曲目は《ジュピター》交響曲だったが、このあと一八四四年と六一年にニ長調交響曲【K五〇四の《プラハ》か】が演奏され、一八四六年にはト短調交響曲がプログラムに載っている」(同書222頁)

音楽祭開始後16年間、モーツァルトの交響曲が演奏されなかったわけであるが、事例をもう一つ見てみたい。

ヴィーン・フィル(Wiener Philharmoniker)公式HPの「Konzertarchiv」

これは、1842年の楽団創設後の全コンサートの一覧で(もちろん、学校のためのコンサート《Schulkonzert》や、スポンサーのためのものは含まれていない)、作曲者、曲目、演奏者、演奏会場などで検索することができる、とてもスリリングなサイトである。

初期の演目を見てみると、そもそも作曲者の自作自演と、大曲一曲のみのものを除けば、一人の作曲家の複数の曲から成るコンサート自体が少ない。それでも「オール・ベートーヴェン・プログラム」や「オール・シューベルト・プログラム」は存在する。一方「オール・モーツァルト・プログラム」は、ハンス・リヒターによる1888年1月4日のコンサートまで、46年間一度もないのである。(繰り返すが「レクイエム」一曲のコンサートを「オール・モーツァルト・プログラム」とは言わないので、それは除いてある。)

このコンサートは、ヴィ―ンにモーツァルト記念碑を建立するための慈善演奏会であり、プログラムは以下のとおりである。

「魔笛」序曲
協奏交響曲KV364
アヴェ・ヴェルム・コルプス
ピアノ協奏曲第20番
交響曲第40番

現代の感覚からすると、曲数が少し多いように感じるけれど(もちろんモーツァルトの時代からすると、少ない)、「ゴールデン・プロ」である。
さすが、リヒター!

こんなプログラムのコンサートは、ヴィ―ンでも100年ぶりではなかったのかしら。
(ピアノ協奏曲は方々で演奏されているはずだけど。)

 

音楽テイストの変化って面白い。

 

と、長々と書いていたら、晩年のアッバードのモーツァルトが恋しくなった。

約二十年ぶりの「再会」を愉しむつもりである。