忘れないうちに書いておこう。
今日からアーユルヴェーダの治療が始まったんだけど最高だった。涙が出た。
「大事に扱ってもらう」とか
「丁寧に体を見てもらう」とか
そういう事より、もっと奥のところで
自分の肉体がものすごく尊く、大事なものだということを、魂レベルで、ハッと思い出す感覚があった。
治療って本当に
なんていうか・・・
もちろん何をやるか、どういう医学をするか、
どんなものを使うか、どんな手当をするか
はとても大事だけれど。
それ以前に私たち自身が
「この肉体はとても大事なものです」
「この肉体に最高に感謝しています」
という意識、感覚をしっかり思い出すことが、治療にはとても大事だと思った。
自然治癒力も免疫力も必ず自ら生まれる。
日々、「この肉体は私にとって大切なものです」というエネルギーで生きること。
これは「健康」全ての土台だなと思った。
1時間もかけて丁寧に問診して治療内容を決めてくれる。
トリートメントに入る前に神様の歌を歌って炎を目の前でゆらゆらとかざしてくれて、
その後ヘッドにびっくりするほどたくさんのオイルを垂らし、マッサージを始めてくれた時、
そうだった、と涙が出ました。
私はこの肉体が、とても大切なのだった。
この肉体はとても尊いものなのだった。
ということを思い出した。
それは「私は大切♡」っていう上っ面のそれじゃなくて、魂と肉体を切り離して、しみじみ思い出した。
「魂」がこの肉体を持ち、この世に「私」として出て来たときに、ありがとうってきっとすごく思ったはずなんだった。
肉体の中に私の心や意識や魂が「入っている」ように錯覚しちゃうから麻痺してしまうけど、この肉体は私の意識、魂が「使っている」もの。
手を使う、
足を使う、
声を使う、
鼻を使う、
頭を使う、、、
感じられること全てが喜び。
それはこの肉体があるから。
当たり前に「肉体は自分のもの、自分が全部支配しているもの」って傲慢になるから肉体はひねくれる。
私たちの魂(意識)は、そもそも肉体の中に入っているものじゃないけれど、
この肉体を介して、たくさんのことを感じたり、経験したりしている。
身体の声を聴く、というのは
この肉体への「感謝」に溢れた姿勢だなぁと思ったのです。
何も考えなくても手は動き足は歩き
脳は何か感情を生み出すけど
これを「私(魂・意識)」は使っているのだ
という自覚と、丁寧にその使い方を見直す機会、
それがリトリートだなと思った。
ノートにも布ナプキンにも繋がる。
切り離してみる事。
自分がどう脳を使って何を生み出してるのか自覚する事。
この肉体や脳はどんなサイクルでどう機能しているのか?
私は本当に魂の望みに向けて使うことができているのか?
そこを丁寧に見ることって感謝以外の何物でもないと思うんです。
そして自覚した時に(明らめる)
本当に最高の使い方ができる
私は「たとえ病を得たとしても健康であることはできる」と思っているのだけれど、
それは今、できる限りでこの奇跡の肉体や脳を
魂の望む方向へ向けて使って行くこと。
それが一番の、本当の私たちが望む「喜び」「健やかさ」だと思います。
ドクターもセラピストもみんな優しく一つの「肉体」を「肉体」を以ってケアしてくれる。それぞれのその肉体への感謝、使い方が、私の魂の思いを呼び覚ましてくれるのだと思った。
自分の肉体に対し、そう思い出したら、
子供たちや彼やお母さん、
私が大切に思う人たち全て、
肉体を介したもの同士が
触れ合い、一緒に過ごし、「感じ合える」という奇跡の一瞬一瞬が、
本当に尊く幸せな事だとさらに強く思った。
本当に、この私と出会ってくれてありがとうって思った。
そして「今しかない、この一瞬」ということを悲観的に見るのでもなく、勢いでわがままに突っ走る言い訳にするのでもなく、
全てが一瞬の奇跡なのだから、
どれを選んで行くのか?というのは
自分自身の心や魂、肉体と対話して「折り合い」をつけて行くこと。
その決めた「折り合い」は自分だけのもの。
やっぱりこの時の問いと繋がった。
私は子供たちや彼、家族と過ごす時間もとても大切で、こうして何か魂の求めることに使う時間もとても大切。
その「一瞬」の中で、どれを選んで行くかというのは、私だけが決めなくてはならない。
誰のせいにもしないし、言い訳もしない。
罪悪感や迷いがあるなら、拾い上げてもっともっと肉体と心の声を聴いて、
その中で折り合いをつけながら、その一瞬を選んで生きたいなと思いました。
最高の人生を送りたい
そしてそれをやっぱり女性のみんなに伝えたい。