先月のParis同窓会で、こんな質問をいただいたのです。
 
「人間関係が切れたいきさつについて、わざわざ公開するのは何でか??」
 
 
 
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好きだと思ってた人や

素敵だなと思ってた人が

 

急に色褪せて見えてしまう経験、みなさんにはありませんか?

 

 

私それよくやっちゃうんですよね…。

ある意味、逆の色メガネで見てしまうというか…。

もしくは単なる節穴か…笑。

 

 

『人間関係が切れたいきさつについて、わざわざ公開するのは何でか??』

 

とある話の流れで聞いたことがありました。

すると、その人は

 

『書かないと前に進めないから。子供だと思われてもしょうがないけど、事実起こったことだし、もうそうするしかない。』

 

と言っていました。

 

『えー、私は恥ずかしくてもうなかった事にしたいです。』

 

とっさにこんなことを言ったような。

 

 

 

え?恥ずかしい??

何が??

 

 

その時、前述の怒りの原因がわかったんです。

 

つまり恥ずかしさからの怒りでした。

 

 

こんな人を堂々と好きと言っていた自分が恥ずかしい!!

穴があったら入りたいくらいの!!

 

 

 

結局、私はその人を好きだったことを隠したかったんですよね。

 

 

それは、

私の人を見る目のなさとか、

 

ちょっとした違和感があったのに見て見ぬふりをした自分への不甲斐なさとか、

 

好きを急に嫌いに変える怖さとか…

 

 

もう色々隠したかった。

そんな諸々を見たくなくて怒りに変換していたんだなぁ。

 

 

相手は問題じゃない、という典型的な例ですね…。

 

これ、設定変更のテストがあったら出そうな勢いです 笑。

 

 

この場面についても、

 

恥ずかしさ(その人も恥ずかしいと感じたらしい)をちゃんと見て先へ進む景色と

恥ずかしさを隠して進むそれは

全く違うんだろう。

 

 

何はともあれ

何ヶ月もモヤり続けていた案件をやっとフラットに見られるようになりました。

長い旅路でございましたよ、ホント…。

 

 

 

宇宙にたゆたうインスピレーションは

最善なタイミングで来てくれる。

 

タイムラグが人生を豊かに彩ってくれることもあるよね。

 

御意!

 

 

 

 

そして、このモヤの出口を指し示してくれたのは、信頼している人たちとの会話がきっかけなのです。

 

人との繋がりは本当に有難いですね。。

 

 

 

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私もめっちゃ、めっちゃ、めーーっちゃ、恥ずかしいですよ。

 

しかし、しれっと

「なかったこと」にしちゃうのは

もっともっともっと恥ずかしいです。自分に対して。

 

 

この方は「怒り」でそれに気づいたと書いていて

やっぱり丁寧に自分を見て、自分の感情を疑うことってその奥の設定に気づくチャンスになるんだな〜って思いました。

 

 

 

 

 

 

そして、「わざわざ公開」してるわけじゃないんですよ。

 

 

 

「今日、こんな人と出会いました。こんなことを感じました。」

 

「この人と会ってこんなことをしました。こんな風に感じました。」

 

「こう感じて、距離を置くことにしました。」

 

 

なぜ3番目だけが「わざわざ書くことじゃない」となってしまうのかは

やっぱり「ネガティブ」なこと、という世間の設定があるからだと思います。

 

 

で、私もやっぱり少しそう思う!

世間の道徳は無意識で体に染み込んでいるからね。

 

 

だから、タイムラグが生じます。

グレーで持っておく期間。

 

 

 

 

 

 

最終的には、私は書くこと=言語化することで、完全に自分の中で前に進み、昇華し、許しています。

 

 

自分に許しているということは、相手も許しているということ。

どちらも自由でいいよ、ってこと。

 

 

 

でもね私やっぱり「設定変更」を伝えていて

この「設定変更」を体現していますし

 

 

人間関係が一番学べると思うの!

 

一番取りこぼしやすいのもここ!

 

 

 

恋愛、パートナーシップもそうだし

ビジネスも、お金も、全部が「コミュニケーション」だから。

 

 

 

ただ無かったことにするのは

ただただ胃に流し込むのと一緒。

 

これは、いつまでたっても「許せない」

自分も、相手も。

 

 

 

嫌だった、という気持ちと

許さない、っていう気持ちは全くの別物なんですハート

 

 

嫌だった、というそのままで許せるし

傷ついた、というそのままで許せるし。

 

 

許すというのは、「完全に修復した!」となることじゃない笑

 

 

「嫌だった、傷ついた」こう誰かが伝えてきた時に

勝手に「責められてる!」と感じ「許す、許さない」の呪いに繋げてしまうのであればそこでこそ「投影の法則」使ってね。

 

 

 

 

 

素敵だと思ってたんだけどな。

好きだったんだけどな。

 

という気持ちと

 

なんか違うな。嫌だな。

 

という気持ちは

相反するけど、同時にもっておける。

 

 

 

悲しかった気持ちを持ったまま許せるし

ということは逆も同じ。

許すというのは何事もなかったかのように振る舞うことでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはね〜〜

あれに似てます。

 

 

 

懺悔。

 

 

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生き物を殺すのはいけないことです。

 

 

 

これは誰でもわかる道徳観。

同じ「いのち」だもんね。

 

 

 

でも、生きるために、殺すでしょう?

お肉もお魚も、野菜も木の実も

「いのち」をいただくじゃないですか。

 

 

私たちって弱いんですよ。

「何も殺しません」なんて誰も守れないんですよ。

 

それを自覚するかどうかですよね。

開きなおりじゃなくてね!(これは八つ当たり)

 

 

 

ちゃんと明らかに見るんです。

自覚するんです。

 

その時、他人も許せます。

 

 

 

 

で、自分にも許せます。

どう料理して、繁栄につなげてもいいですよ。

ってこと。

 

 

 

いただきます。

ごちそうさま。

 

 

 

これは懺悔の言葉です。

しっかりとお詫びしながら、その経験も美味しくいただき、血肉にします。

 

 

その学びはどう自分の繁栄に繋げていくかは人それぞれだろうけど

私の場合は、感じてそれがどう繋がったかを表現すること。

 

 

 

だから、まあ

人間関係が切れたことを書くのは嫌がらせだ!!とか

絶対にありえない!!とか

いう人もいるだろうね。

 

 

それはもちろん考えるし、

 

「みんなにそう思われるだろうな・・・」

「あんなにオススメしてたのにさきこさん、結局離れるのかよ!ってがっかりされるだろうな・・・」

「あんなに一緒にやってたのに、こんなこと赤裸々に書いちゃうの?ひどい!って思われるだろうな・・・」

 

と、一通りモヤモヤした後で

 

 

それでも私は私の人生に繋げていく

 

 

と、「私の経験」として書いてます。

それが私の中では「設定変更」受講生に対しても誠意だと思ってるし。

攻撃じゃないからそりゃ、実名は書かないですよ(笑)

 

 

 

 

 

誰にどう思われても、世間にどう思われても、

私は私の感じたこと、好きなことを表現していく

 

 

これは数年前に「自分を生きる」と決めた時に誓ったこと。

 

かといってそれは開き直りの言い訳のように掲げず、押し付けず、

粛々と胸にしっかり抱いていれば、いいのです。

 

 

 

 

誰にどう思われてもいい。自分だけは自分をちゃんと見てあげる。

 

という自分への信頼と

 

たくさんの人と分かち合い、喜び合いたい、

 

という気持ちは同時に持っておくんですハートハート

 

 

 

 

 

 

 

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