愛とユーモアをたずさえた圧倒的な創造力 喜劇王チャップリン | naomi cafeにようこそ 目に見えない多次元のこと

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愛とユーモアをたずさえた圧倒的な創造力

喜劇王チャップリン

Charles Spencer Chaplin

 

                                                            

人物 Charles Spencer Chaplin(チャールズ・スペンサー・チャップリン)

映画俳優・映画監督・コメディアン・脚本家・映画プロデューサー・作曲家

1889年4月16日 イギリス・ロンドン生れ 1977年12月25日没

 

誕生数(生まれ持った資質、才能、潜在能力)

【1-10-19】創造、革新、完璧主義、自信家、野心家

 

チャップリンは自他ともに認める圧倒的完璧主義者として知られており、映画の監督、主演だけでなく脚本、演出も担当し、「街の灯」以降の全作品においては作曲まで行っていました。とりわけ「モダンタイムズ」のために作られた「スマイル」はナット・キング・コールがカバーし世界的スタンダードナンバーとして現在も多くのミュージシャンに歌い継がれ愛されています。

 

創造、革新、斬新のキーワード通りチャップリンは常にそれまで誰もやったことのない手法で映画を作り続けました。今日では「愛と笑いと涙」が取り混ぜられた映画やドラマは当たり前のように作られていますが、これはチャップリンが先駆けて始めたアイディアです。1921年公開の映画「キッド」のオープニングでは『笑いと、おそらく涙の物語』の字幕で始まりますが、これは映画史上初めて喜劇と悲劇の融合が効果的に取り入れられた長編喜劇映画とされています。

#1の資質、また#10のキーワードである創造力とオリジナリティー、直観の力が集合して生み出された作品であるといえます。

 

また誕生数のカルミックナンバーに注目すると、#10は人道的な目的や人に癒しを与える方向へ向かうとされています。#19は権力や力の誤用を修正することで激動の変化をくぐり、真の力のあり方を普遍の心理を学ぶことによって自立し、本当の意味での自信と威厳を現実社会で確立していくことを学ぶナンバーです。

 

これは正しく当時のナチスドイツの最高指導者アドルフ・ヒトラーの独裁政治を痛烈に批判した作品「独裁者」に込められた意味でもあります。映画のラストシーン、有名な結びの演説の冒頭部分でチャップリンはこう語ります。

 

 

【私たちは誰でも互いを助けたいと思っています。人間とはそういうものです。

お互いの幸せの中で生きたいのです。お互いの悲しみの中でなく。。お互いに憎んだり軽蔑し合ったりしたくは在りません。この世の中にはみんなが暮らしていける余地が十分にあります。大地は豊かで、みんなを養うことができるのです】

 

皆でより大きな全体を創造できるという信念を持ち、人々を魅了するエネルギーに満ち溢れたカリスマ性は#19に到達していることを意味し、生まれ持った資質や潜在能力を最大限に発揮していることが読み取れます。

 

 

運命数(人生における使命や目的、何を実現すべきか)

【2】調和、受容、平和、ロマンチスト

 

 ミュージックホールの舞台俳優であった父母の元に生まれますが、1歳の時に両親が離婚。

以来、母親が女手一つで4歳上の父親違いの兄シドニーとチャップリンを育てます。

母ハンナは美しく優しく上品で、貧しくても家に花を飾ることを忘れないような、最後までチャップリンにとっての理想の女性でした。その深い愛を受容するさだめに、#2の数字を持って生まれました。

 

 

 

 

チャップリンといえば、山高帽、ピチピチの上着にだぶだぶズボン、ドタ靴、ちょび髭にステッキといった扮装のキャラクターがお馴染みですが、これは渡米後最初に契約していたキーストン社の映画プロデューサー、マックセネット代表に、ある日の撮影中、

「何でもいいからコメディのメーキャップをして来い」と言われ楽屋へと戻る途中に次から次へと扮装が浮かんできたと、自伝で語っています。誕生数1-10-19のチャップリンが天からのインスピレーションをがっちりと受け取っているこのエピソードには心が震えます。 こうして次から次に浮かんだこの扮装をした瞬間から、このキャラクターの人物像までつくってしまいます。

 この扮装で現場に戻ったチャップリンはステッキをお茶目にくるっと回し、セネット氏にこう語ります。

【この男には多くの側面があります。浮浪者で紳士、詩人で夢想家、孤独な男でいつも

ロマンスと冒険を期待しています。】―以下略

天からのインスピレーション#2の洞察力が相まって最高のアイディアが生まれた瞬間です。

 こうして生まれたキャラクターは、社会や権力の荒波にのまれながらも人生に愛と夢、ロマンをたずさえて誇り高く生きる放浪紳士チャーリー。これは#2の調和、受容、平和、優しさを表したキャラクターであり、チャップリン自身でもあり、彼にこれらを与え続けた母の姿でもあったのではないかと感じます。

チャップリン作品においてその高い芸術性が評価され、不朽の名作として人々から愛されているのは、作品を見た者が自分の中に持っている愛や優しさに気づかされるからではないでしょうか。その愛は人から人へと循環し、結果それは世界の平和に繋がっていくということを天から授けられ、愛のあり方を問い続けた人生でした。

 

 

ソウル数(魂の欲求、一番大切にしたい価値観、優先したいこと)

【8】情熱、積極性、現実的、支配力、野心

 

ソウル#8のチャップリンは幼い頃から常にお金の問題と対面してきているということに注目してみました。 1歳で両親が離婚。その後の母と兄との生活では極貧生活を強いられ、貧困のためにしばしば救貧院にいれられ、愛する母と離れ離れに暮らすことを余儀なくされていました。母と一緒に暮らしたい一心でチャップリン自身も幼いながらあらゆる仕事を経験し、家計を助けていました。

 

その後ロンドンでの劇団時代、役者としての頭角を現し渡米後、様々な配給会社と契約する度にその契約金を大胆に吊り上げ、自らの価値を現実的なものとして定めてゆきます。

 

チャップリンの名言のひとつに次のような言葉があります。

【人生に必要なものは勇気と想像力、それとほんの少しのお金です】

一見お金は付け足しのように思えますが、きれいごとなしにお金の素晴らしさも、また怖さも知るチャップリンにとっては一番大切な価値観であったのではないかと推察します。

自伝の中でこう語っています。

 

【貧困とは魅力的なものでも自らを啓発してくれるものでもない。私が貧困から学んだことは、価値をゆがめてしまうこと、金持ちや上流階級の美徳と品位を過大評価してしまうことだけである】

 

対して富に関しては、

 

【束縛など全く感じていない、それどころか大いなる自由さえ感じている】

この自由こそが、チャップリンが魂から望んでいたことだったのではないかといえないでしょうか。

 

 

人格数(社会的な仮面、他者の目に映る表面的人格)

【3-12】お茶目な遊び人、アイディアマン、人を癒し惹きつける

 

 

 

コメディアンに多いとされる#3が喜劇王の名を語られるチャップリンの人格数というのは誰もが納得のナンバーでしょう。頭の中は常にユーモアのアイディアで溢れ、その

アイディアは1の創造力と2の優しさが合わさり大いに人を癒し惹きつけるものでした。

【私の苦痛が誰かが笑うきっかけになるかもしれない。しかし私の笑いが誰かの苦痛のきっかけになることだけはあってはならない】

という言葉も残している通り、チャップリンのユーモアの奥には揺るぎのない愛と優しさがあることがわかります。

 

また、パントマイムの表現力も卓越していたチャップリンは、サイレント映画にこだわり

世の中の大半がトーキー映画となっても言葉に頼らず表現することを貫き、人々を魅了し続けました。

 

 

実現可能数(今回の人生での可能性や実現数)

【3】精神的な喜びを人に与えること。人々に未知の光を投げかける。自分を輝かせて人に光を当てる。

人格数と同じ#3のミッションは精神的な喜びを人に与えること。チャップリンの人生においてユーモアは必要不可欠なものでした。作品においては勿論のこと、恋人や妻となる

女性にもユーモアを求めていました。どんなことでもユーモアに変え、ユーモアで乗り切ることが彼の人生だったのです。

 

先出の「独裁者」は痛烈にヒトラーを批判した作品ですが、制作意欲のきっかけは

ヒトラーを笑いものに仕立て上げなくてはならないという使命感ともいえるものからでした。

【私は純潔民族などという神秘的妄言を笑い飛ばしてやる決意だった。オーストラリアの先住民を別にすればそんなものが存在したためしは一度としてなかったのだから】―自伝より

 

【権力を振り回すことがいかに滑稽であるか。独裁者たちに目をくらませられ、隷属として生きるのではなく自分の人生を自由で美しいものにする力がある。上を見上げればもっと優しい世界、人々が貪欲さと憎しみと残忍さを克服した世界に行くことができる。】

と、「独裁者」結びのスピーチで述べている通り、まさにここで人々に未知の光を投げかけています。この言葉でどれ程の人々が光の世界への希望を見出したことでしょう。

 

‘喜劇映画’というユーモアを通して精神的な喜び、希望を人々に与えたことは実現可能数#3のミッションも果たしているといえます。

 

 

 

 

TypeⅡ  Balance-2 後天的に経験によって沢山の資質を得る。

 

●自分が輝くために与えられた特質●

 

Creation(創造する力、何かを生み出す力)

【5】刺激と興奮を喚起させるクリエイション。ずば抜けた集中力と深い洞察力、

視覚的才能、文才。

 

【私の最高傑作は次回作だ】との名言がある通り、ずば抜けたクリエイション能力があったことは疑いようがありません。また当時チャップリンの右に出るものはいないという程のパントマイム能力は並外れた洞察力、視覚的才能といった特質を持っていたといえます。

自伝を一冊読めばその文章から読み手に深い想像力を与える表現がちりばめられ、文才があったことも頷けます。

 

Growth(魂の成長、何かを成長させる力)

  1. 建設的な創造エネルギーを社会に向け発信する。精神的安定と自己信頼、その後の教師的役割。

 

生涯において約80もの作品を生み出したチャップリン。これは圧倒的な創造エネルギー

です。その作品たちは常に大衆の目線で社会に向け発信されていました。

【幼い頃孤児院暮らしでお腹をすかせて街をうろついて食い物をあさっていた時でも、

自分では世界一の大役者ぐらいのつもりでいた】という通り、どんなつらい状況であっても自己信頼で乗り越えてこられたというのはこのGrowsに特質があったことと関連するでしょう。

 

 

Cycle 0歳~35歳

Cycle#4 Pinnacle#20-2 Challenge#3

 

1歳で両親が離婚し、その後は母の愛を受容し(20-2)、貧困から精神を病み入退院を繰り返す母のため、家族で一緒に暮らすという現実的な安定を手に入れるべく幼い頃から様々な仕事をけいけんするチャップリン(4)。そんな中でも喜劇役者になるという夢を持ち続けベストなタイミングで叶えてゆく喜劇王の前半生いかに。

 

 

1889年4月16日 イギリス・ロンドンに生まれる【19-1】

 

1894年 5歳 【15-6】

舞台女優だった母ハンナ。ある日の舞台前に突然声が出なくなり、袖で遊んでいた

チャップリンが代役として舞台に立ち大喝采を受けます。Cycle15のキーワードには

‘天才的能力の発揮’‘ユーモアで乗り切っていく’などありますが、この二つを同時に

発揮したエピソードです。ただ、この一件以降、母は二度と舞台へ立てなくなり心を病んでいきます。幼いながらも、家族に起こる出来事によって内面を養う運命へと導かれています。

 

1899年 10歳【20-2】

木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わり念願の舞台仕事を始めます。

Cycle 20の新たな専門領域へと向かう年にダンス一座へ加わり、自分の儲けよりも母の

ためにと稼ぎ始めます。

 

1908年 19歳【20-2】

兄の勧めでイギリスの名門「フレッド・カーノ劇団」に入りスター俳優への階段を上り始め、名門劇団に入ったことで人間関係と協調性を学びます。

またこの年に15歳のコーラスガール、ヘティ・ケリーに初恋と呼べる恋に落ちますが、晩年まで母と同様理想の女性、美しい思い出の中に眠る相手でありました。チャップリンが63歳の時に公開された映画「ライムライト」の撮影では、ヒロイン役のクレア・ブルームの衣装を‘母はこんな服を着ていた’‘ケリーはこんなスカートを穿いていた’と言いながら選んでいたそうです。Cycle20で出会った初恋の女性に、永遠にその想いを伝えられなかったというほろ苦い想い、静かな愛を感じていたのだと読み取れます。

 

1910年 21歳【13-4】

いよいよ初のアメリカ、カナダへの巡業が叶い主演作が好評を博します。

これまでの苦労、前年までの努力が実り、社会的な認知を手に入れた第2の人生スタート期で収入も増加していきます。生まれ故郷を離れ、新天地での物事が否応なしに変化してゆく年となりました。

 

1913年 24歳【16-7】

巡業中に映画プロデューサー、マック・セネットの目に留まり週給150ドルの契約で

キーストン社に入社します。

Cycle16-7は仕事の情熱が高まり、人脈や行動範囲が変わる年です。その年に大変重要な出会いを果たし、契約の際もチャップリンは最初に週給200ドルを申し出るなど、自己の

想定値を上げていきます。

 

1914年 25歳【17-8】

件のキャラクター、‘放浪紳士チャーリー’が生まれます。

このキャラクターを自ら生み出した一件から、「自分はクリエイティブな人間であり、自分自身のストーリーを描くことができるという信念が生まれた」と語っており、17-8の

キーワードである自己信頼を確立していきます。

 

1915年 26歳【18-9】

キーストン社を離れ、シカゴの配給会社エッサネイ社に週休1250ドルの契約で

移籍。人を見抜く目を持ち、仕事を上昇させていく年となります。

 

1916年 27歳【19-1】

週給1万ドル+ボーナス15万ドル(年間67万ドルで、当時の大統領の年棒7倍の額)で

ミューチュアル社に移籍します。開拓、大物との出会いのCycleで可能性を広げていきます。この移籍により制作の自由を与えられ、より良い環境の元、12本のヒット傑作を世に送ります。19Cycleには家族で仕事のキーワードもありますが、チャップリンの兄シドニーがこの年からマネージャーを務めることになりました。

 

1918年 29歳【21-3】

ファーストナショナル社ととうとう年間100万ドル超の契約を果たします。

自分の最高の波動が発揮されお金がどんどんついて回る年となりました。

 チャップリンは生涯において事実婚も含め4度の結婚をしていますがこの年に16歳の

ミルドレット・ハリスと最初の結婚をしています。しかしこれは、ミルドレット・ハリスが妊娠したと思い込んでの結婚で、その妊娠が狂言だったと分かったチャップリンは

すっかり冷めきってしまったとか。仕事ではノリに乗っている反面、恋愛面においては

ストレスのはけ口にしてしまっていたのか、鬱々となる3のアマチュアが浮き彫りと

なってしまいました。

 

1919年 30歳【22-4】

いよいよ友人らと共に念願の、映画配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立しこれによりプロデューサーを介さずに映画を制作することができる自由を手に入れます。

いわば真の独立を果たしたのが、大きなことを成し遂げられる、夢の実現、大きなビジョンを描き新しいステージへ向かうとされるCycle22-4でした。以後、チャップリンの不朽の名作が数々生み出されていく、ドラマチックな幕開けの年となりました。

 

 

Cycle 36歳~53歳

Cycle#16-7 Pinnacle#15-6(~44歳) Challenge#1(~44歳)

 

映画界があっという間にトーキー一色となってもなおサイレント映画にこだわり、人々の心を動かす唯一無二の方法(challenge#1)を探求(cycle#16-7)していくチャップリン。どんな逆境にあっても仕事を楽しみ斬新に(pinnacle#15-6)

天才的能力を発揮、喜劇役者らしくユーモアで乗り切ることを忘れず、理想と現実の接点にフォーカスしてエネルギーを使って後世に残る名作が生まれました。

 

1928年 39歳【22-4】

「サーカス」が第1回アカデミー賞特別賞を受賞したこの年、とても大きな波動を持つcycle22-4で最愛の母ハンナが亡くなります。愛そのものであった母の死はチャップリン自身にとってはひとつの終結、そして新たなスタートでもあったのでしょうか。

 

1931年1月 41歳【15-6】

Pinnacle#と重なるこの年に、トーキー映画隆盛の中やはりサイレントにこだわって3年がかりで撮った「街の灯」が興行的に大成功を収めます。challenge#1が後押ししたのか、

この映画ではいっそうの完璧主義っぷりがうかがえます。正味3分ほどの、花売り娘と

放浪者の出会いのシーンでは342回のNGを出し1年以上かけて撮り直しが繰り返されたというのですから驚きです。

 

 

 

Pinnacle#8(45歳~53歳) Challenge#2(45歳~53歳)

 

1936年 47歳【21-3】

機械文明と資本主義を風刺した「モダンタイムス」が、相変わらずのサイレントだったにも関わらず大ヒットを飛ばします。この映画のラストシーンは、家族も仕事も失い、何をやっても社会の冷たい風にさらされ、権力に押しつぶされて絶望のふちを歩くヒロインとチャップリンが二人きり。

「いくら努力しても無駄だわ」

悲しみに満ちた表情で嘆くヒロインにチャップリンはこう勇気づけます。

「へこたれないで元気を出すんだ。そうすれば運が開ける!」「笑って、さぁ笑って!」

2人は希望の光を信じて手を取り合いふたたび歩き出す・・・。

#21のキーワード‘どんな環境にあっても新しく創造したり創り直すことが可能’という、まさに地球救済ともいえるメッセージが込められた作品です。

 

 

 

 

因みにこの映画のヒロインを演じたポーレット・ゴダードは3番目の妻(但し事実婚)ですが、撮影中の1935年はcycle20-2といことで仕事上では家族や愛する人とのコラボレートもあるとされているcycleでした。

 

1940年 51歳【16-7】

ナチスドイツ、アドルフ・ヒトラーを痛烈に批判した「独裁者」を発表します。

チャップリン映画初の完全トーキー作品としても有名であり、サイレント映画へのこだわり、葛藤があったものの結びのスピーチのために満を持してトーキーに踏み切りました。

人生中盤の大Cycle#16-7では、街の灯、モダンタイムス、独裁者など、どれをとっても

チャップリンの精神性や思想、哲学がかなり込められた作品ばかりです。

その思いは前述の独裁者最後のスピーチに集大成としてつまっています。絶望してはいけない、自分や大切な人への愛を忘れないで、というメッセージを送るチャレンジを諦めませんでした。

 

 

 

 

 

 

Cycle 54歳~

Cycle#8 Pinnacle#12-3 Challenge#4

 

いよいよ人生の最終サイクルへ。最終サイクルへ入るまさにその年、チャップリンは人生最愛の伴侶、ウーナ・オニールと結婚します。チャップリンにとっては4度目の結婚でしたが最期まで添い遂げ、ベストパートナーとの人生最終サイクルでした。

 第2次世界大戦が終結し、アメリカでは赤狩りを進める下院非米活動委員会から、モダンタイムス以降の作品を‘容共的である’として追及されその結果国外追放となってしまします。しかし家族とともに移り住んだスイスでは心の安定を手に入れ、チャップリンの仕事ぶりは規則正しいものだったそうです。朝食の後、まるでオフィスに行く前のように妻のウーナにキスをしてから書斎にこもり、昼食とお茶の時間以外は夕方までずっと作業をしていたようです。70歳半ばで自伝の執筆によって自身の人生の棚卸、総決算を行ったのはCycle#8、Challenge#4に導かれているようであります。

 華やかで夢と自由のあるハリウッドでの生活にピリオドを打ち、愛する家族と現実的に幸せに暮らす、幼い頃から本当に欲しかったものをやっとの思いで手に入れたチャップリン。その最期の人生とは…。

 

1943年 54歳【19-1】

36歳年の離れたウーナ・オニールと結婚。ウーナとの出会いは前年のCycle#18-9になります。ほぼチャップリンの一目惚れで、接触していくにつれ彼女のユーモアセンスに惹かれ、年齢特有の扱いにくい気まぐれはないという確信があったと自伝で述べています。

過去3度の結婚では叶わなかった、心から精神的に理解し合える女性との出会いでした。

しかし、36歳差の結婚とはまさかの相手であったことでしょう。

 

1946年 57歳【22-4】

金のために殺人を続ける男がその罪を問われ死刑台に送られるまでの顛末を描いた

「殺人狂時代」が公開されます。戦争は終結を迎えましたが、混乱が続く情勢を受容せざるを得ない状況の中制作されました。

 この時期にチャップリンはある女優から散々なストーキング行為をされた結果裁判にまでなり、チャップリンが無実であることが証明されたにも関わらず平和主義者として糾弾されていたチャップリンに不利な判決が下ってしまいます。そんな中で制作されたこの映画の、やはりラストシーンのセリフが心に刺さります。

「一人殺せば悪党で、100万人だと英雄です。数が殺人を神聖にする」

殺人という究極のテーマで戦争による大量殺人を批判するというのは、当時のアメリカにおいては余程の高い理想とパワーがなければ導かれなかったことでしょう。22という高い波動を持つCycleで渾身の一作を創り上げました。

 

1952年 63歳【19-1】

‘皆で’のキーワードを持つ#19Cycle。この年に生まれた最高傑作「ライムライト」は

自身の子どもがキャストとして多数出演しています。また、チャップリンと同世代で

三大喜劇王のひとりでもあったライバル、バスター・キートンとも初共演を果たしていますが当時、キートンが経済的に困窮していることを伝え聞いたチャップリンが何かの助けになればと起用したといわれています。チャップリンの行動パターン#2が頷けるエピソードです。

 そしてこの年、生まれ故郷のロンドンで「ライムライト」のプレミアのために向かう

船の中でアメリカから国外追放命令を受けます。40年以上身を捧げたアメリカ生活、追放は自身の意にそぐわなかったにも関わらず再入国許可証を返還し、追放を受け入れたことは、宇宙の流れに乗って現実世界へ奉仕する新たなライフワークの幕開けが叶った#19-1だったのでしょう。また、ライムライトではラストシーンにおいてチャップリン演じる

落ちぶれた老コメディアンが舞台袖で息を引き取ります。彼の愛を受け取ったヒロインの

バレリーナが美しく舞う姿を見ながら・・・。間違いなく‘終わりでもあり、始まりでもある’そんな#19のイヤーサイクルでした。

 

 

 

 

 

●追放後は、最終サイクル冒頭で記した通り移住先のスイスで妻と8人の子どもとともに、

精神的に穏やかで安定した人生を送ります。自伝執筆の75歳当時、まだまだ、映画も作りたい、時が許せば戯曲も書きオペラも作りたい、と述べている通り誕生数1、ソウル数8を持つ彼らしく野心も燃やし続けながら。

 

最終のPinnacleナンバーに12-3を持つチャップリンはアメリカ追放後に、ヨーロッパの文化、社会への貢献を評価して授与される「エラスムス賞」、フランス政府から「レジオンドヌール勲章」、1972年にはアカデミー賞特別名誉賞に選ばれるなど、根気よく真摯に仕事を続けてきた結果の賞賛を数多く手に入れます。

 

1972年 83歳【21-3】

アカデミー賞名誉賞受賞により20年ぶりにアメリカを訪れたチャップリン。

授賞式で登壇した彼の表情は感謝と慈愛に満ち、スピーチではただ、ただ感謝の意を述べるにとどまります。その間スタンディングオベーションで鳴りやまない拍手は12分間続くというオスカー史上塗り替えられぬ記録となっています。#21は統合や卒業の意味を持ち、

人生におけるある「完成」を目指すときです。身も心も捧げ、自身の映画人生と共にあったアメリカへの感謝の想いは、国外追放という事実も乗り越え、チャップリンとアメリカの関係がひとつの「完成」を最高の形で迎えられたことになるのではないでしょうか。

 

1977年 88歳【26-8】

12月25日クリスマスの朝、スイスのコルズィエ=スユール=ヴヴェイにある自宅で永眠。

Cycle26から私が読み取るのは、愛と平和の道をひたすら歩き続けたチャップリンの人生の終焉がこの上なく美しく優しさに満ちたものだったということです。最後をともに過ごした妻のウーナについてどれほどの愛を持っていたのか。自伝の締めくくりにその言葉は述べられていました。

私は素晴らしい妻を得るという幸運に恵まれた。(中略)

ウーナと一緒になって以来、私は彼女の性格の奥深さと美しさに絶えず驚かされてきた。

引き締まった小柄な体をまっすぐに伸ばし、二、三の銀色の筋がまじる滑らかな黒髪をなびかせてヴヴェイの狭い歩道を私に先立って歩くウーナ。その素朴で威厳のある姿を目にしただけで、彼女のすべてに対する愛と称賛がこみ上げてくるーそして目頭が熱くなるのだ

 

 

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私がこれまで見てきたチャップリン作品、そしてこの数秘レポート作成の過程で見えてきた彼の人生、在り方から、チャップリンが想うウーナの姿が彼の姿に重なります。目頭が熱くなるほどの愛と称賛がこみ上げてくるチャップリンの人生。

私がチャップリンの人生を読み解くに当たり、持っている数字のアマチュア部分をリンクさせることが殆どありませんでした。勿論これほどの名声と成功の裏に、辛い現実も多々経験してきたことも事実としてはあるのですが、なぜか。

それはチャップリンがどんな人生も丸ごと肯定し、運、不運というものに過度に振り回されず、行雲流水のごとく生きてきたからではないかと思います。私が数秘術から最も学んだことは「宇宙の流れにあらがわず、本当の自分を生きていく」ということです。

そしてソウル数8の自己信頼、これが真に達成されているということを感じます。自己信頼あっての行動、他人への信頼、ここから全てが始まるということを唯一私のコアとヒットしているこのナンバーから学びました。

愛とユーモア、これが人生を豊かに彩ることは間違いなく、それは人種も時代も乗り越えた普遍的なものであるということを唯一無二、圧倒的な創造力で伝える、天からのメッセンジャー、チャーリー・チャップリン。彼に心からの感謝と敬意をこめて本稿の結びと致します。

 

 

Reported by  Takako Fujieda