『二人のコンダクター』:手塚治虫のクラシックを扱った作品 2 | 懐かしエッセイ 輝ける時代たち(シーズンズ)

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懐かしい’60s’70s’80s
ひときわ輝いていたあの時代の思い出のエッセイ集です。
毎週土曜日更新予定です。

今日は。

 7月になりました、今日7日は特に暑いですね。
その中、東京都都知事選挙が行われ、現職の小池百合子が、元参院議員の蓮舫や前広島県安芸高田市長の石丸伸二ら新人55人を破り3選を果たしました。
候補者数といいその選挙活動といい、異常な選挙でしたね。

 さて、今年は、月初めは大瀧詠一『ナイアガラカレンダー』からの当月の歌をお届けしています。
7月の『泳げカナヅチ君』で始めたいと思います。

 〇大瀧詠一 泳げカナヅチ君

 


  https://www.youtube.com/watch?v=ngIVStzIhUU
 

 『およげたいやきくん』を意識していますね。

 

 すみません、、紹介すると言って、まだ、『ナイアガラカレンダー』の全貌をご紹介出来ていません。

 

さて、本題に入りましょう。


<『二人のコンダクター』:手塚治虫のクラシックを扱った作品 2

 ~マンガとクラシック~>

 最初に、今回も、クラシックのユーモアある作品をご紹介します。
ハイドンの作品『交響曲第45番 「告別」 第4楽章』です。

前回『二人の演奏家』(リンク)では、ティンパニー奏者がティンパニーに頭を突っ込みましたが、今度は何をやるのでしょうか?


注意したいのは、この演奏アマチュアの管弦楽団ではないことです。
世界のオーケストラの最高峰の「ウィーン フィル 」 ということです。

 〇Haydn ~ハイドン交響曲第45番 「告別」 第4楽章(ニューイヤーコンサート2009 より)

 

https://www.youtube.com/watch?v=l_LOkxtLeVI

 ハイドンのこの曲では楽団員が曲の途中から、徐々にいなくなり、最後に指揮者のみになります。
「告別」と後世名付けられたこの曲には、成立の理由が伝わっています。
当時ハイドンは西部ハンガリー有数の大貴族、エステルハージ侯伯爵の楽団の副楽長でした。
早く、自宅に帰りたい楽団員の気持ちを込めて、この曲を作曲したと言われています。

 ここはウイキぺデイアから
エステルハージ家の夏の離宮エステルハーザでの滞在期間が予想以上に長引いたため、大抵の楽団員がアイゼンシュタットの妻の元に帰りたがっていた。
このため、ハイドンは終楽章で巧みにエステルハージ侯に楽団員の帰宅を認めるように訴えた。
 終楽章後半のアダージョで、演奏者は1人ずつ演奏をやめ、蝋燭の火を吹き消して交互に立ち去って行き、最後に左手に、2人の弱音器をつけたヴァイオリン奏者(ハイドン自身と、コンサートマスターのアロイス・ルイジ・トマジーニ(英語版))のみが取り残される。
エステルハージ侯は、明らかにメッセージを汲み取り、初演の翌日に宮廷はアイゼンシュタットに戻された。



 それでは、手塚のクラシックを扱った作品の2回目『雨のコンダクター』です。

2.雨のコンダクター

 (写真;表紙)

●作品概要
〇掲載:FMレコパル(1974/08/12号) (小学館)
〇バーンスタインの来日に合わせて描かれ、掲載誌を読んだバーンスタインが大感激したというエピソードが残っています。


〇この作品の背景
 1.「ベトナム戦争」
 ウイキペディアより抜粋させて頂きます。
アジア各国を取り巻く状況が目まぐるしく推移する中、1972年秋頃に、パリで秘密交渉が持たれて合意に向けた動きが加速し、和平交渉開始から4年8か月経った、
1973年1月23日に、フランスのパリに滞在する、北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で、和平協定案の仮調印にこぎつけた。
そして4日後の1月27日に、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされた。

バーンスタインは、ベトナムでの和平条約締結を願って、このコンサートを開いたのでしょう。

 2.チャコフスキー『序曲1812年』
 この曲野外で演奏される場合、大砲が使われることがあるといいます。
 この『雨のコンダクター』は、作品中楽団員により、チャコフスキーの『序曲1812年』は演奏を拒否されています。


僕も今回知ったのですが、ここ数年は多くの演奏会で、ロシアのウクライナ侵略を受け、演奏を拒否されていると言います。
 この曲の成立の歴史的背景によるのでしょう。

〇ストーリー
 1973年1月19日 アメリカ ワシントンD.C.
 (パリ協定が交わされた1月27日の約1週間前)

 雨に打たれる夜のワシントン大聖堂教会で、一人椅子に座り、下を向いて呟くバーンスタイン
「際限なくみじめなアメリカよ!
 おまえはいつわりの自由の女神、いつわりの旗のもとに、世界を地獄へ追いやってしまった。」
「政治はわれわれの肉体も魂も、良心までも奪い去った」

手塚治虫の解説が入ります。
歌劇『フィデオリ』(ベートーベン)の第一幕に終わりに出てくる『囚人の合唱』はベートーベンが政治的な”自由”の否定に抗議した気持ちを思い出します。
 現在のわれわれの住む地球は、ベートーベンの頃より もっとさらに多くの人間が自由を失っているのです」

 〇Beethoven: Fidelio - Ouverture / Leonard Bernstein

 


  https://www.youtube.com/watch?v=NA3bi_evCZk

 場所は変わってホワイハウス執務室
 ニクソンが、今夜7時からケネディセンターで開催される大統領「就任記念大演奏会」への出席へ出かけるように、促しに来た男に言いいます。
「今キッシンジャーから電話があった。
”北”はまた新しい条件を付けて来た。
このままズルズルのびるては、公約した撤退計画がダメになる。」と

( キッシンジャーからニクソン大統領の電話は、パリ協定を締結する最終段階で、かかって来たと思われます。)

このコンサートのチケットは250ドルで、250ドルは、この時代に世界一周ができたという代物。

 参加者が芳しくない、ケネディセンターで、指揮者ユージン・オーマティが告げられます。
フィラデルフィア管弦楽団の団員の16名が、「就任記念大演奏会」コンサートの演奏を辞退してきています。
チャイコフスキーの大序曲はロシアがナポレオンを破って大勝利を収めた史実の描写曲だ。
この曲のドラムや大砲はホワイトハウスのベトナムへの思い入れだ、と

 〇チャイコフスキー 1812年(序曲) 小澤征爾

 


  https://www.youtube.com/watch?v=y9zYbwDqZUs
  
  小澤征爾はバーンスタインに師事していました。

 同時刻、ワシントン大聖堂教会。
雨の中、予想に反して教会の中に入れないくらいの人が、約1万2千人、集まります。
曲目は、ハイドン『戦時ミサ曲』
この曲は、ナポレオン軍に占領されたウイーン市民の激しい怒りと国民の平和を乱された反発を込めています。

 〇ハイドン:戦時のミサ バーンスタイン バイエルン放送響

 


  https://www.youtube.com/watch?v=pvLOrTbEl2k

オーケストラは皆平服という型破りな演奏会。

 雨の中、外では、教会に入れなかった人たちに用意されたスピーカーから流れる音楽を人々が聴いています。


「世の罪をのぞきたもう者よ、われわれの願いを聞き入れたまえ
 生者と死者を裁くべく再びきたりたもう」

音楽が警備にあたるだけの警官にも響き渡たれます。

 一方 ケネディセンター
主賓のニクソンも現れず、白々しい雰囲気が流れています。

「就任記念大演奏会」のケネディセンターに向かう車の中で、ニクソンは途中、大聖堂の音を聴き、大聖堂の前に並ぶ人々をみます。
ニクソンが呟きます。
「「平和のためのコンサートか!
      その上に「勝利」となぜつかんのだ‼

 



雨は依然、降り続きます。

●僕の感想
 平和と戦争の対比がこの物語の主題ではないでしょうか。
 平和を願うバーンスタインと 体制からの依頼のための演奏会を指揮する、ユージン・オーマティ。
二人の選んだプログラムが対象的です。

 音を出せない漫画作品において、『戦時ミサ曲』と『序曲1812年』は、漫画の中で音楽を奏でています。
もっともそれは、読者の頭の中て、読者の経験を借りての音ではありますが。
 この作品は、マンガとクラシック曲、の融合となっています。
前回ご紹介した『二人の演奏家』より、かなり複雑な短編漫画となっています。

●『二人のコンダクター』時代の手塚治虫
  作品が描かれた1974年は少し、気を付ける時代であると思います。

 ここら辺は、ウイキペディアから引用したいと思います。
  『やけっぱちのマリア』(1970/04/15-1970/11/16 週刊少年チャンピオン)、『アポロの歌』(1970/04/26-1970/11/22 「週刊少年キング」週刊少年キング)などを発表しているが、この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた[75]。
 さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産し、手塚も個人的に推定1億5000万円の借金を背負うことになった。
 作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら*「冬の時代」であったと回想している。
*夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』筑摩書房、1995年

 それが、1973/11/19号「週刊少年チャンピオン」で連載開始された『ブラックジャック』で手塚は復活を遂げ始めた時期です。