今日は。
1981年より43年続いた『キャプテン翼』シリーズの漫画連載が、4日発売の『キャプテン翼マガジンvol.20』で終了しました。
この号はいつも行くコンビニや丸善川崎店で売り切れになっていたので、現物を確認できていません。
ただ、漫画連載は終了しますが、今後の物語は今夏よりWEBサイト『キャプテン翼WORLD』に掲載の場を移して、鉛筆描きの「ネーム形式」で週刊連載していくことも発表されました。
僕は、高橋のネームを元に、誰か他の漫画家が完成品にするのかと推測していましたが、予想外の展開に、驚きました。
さて、渡米した岸田首相は11日午前(日本時間12日未明)に米上下両院合同会議で演説しました。
首相は途中にニューヨークで過ごした小学生時代に米国で放映していたアニメ「フリントストーン」が面白かったと振り返り、議場から笑いが起きたといいます。
『原始家族フリントストーン』、ありましたね。
〇The Flintstones 1960 - 1966 Opening and Closing Theme (With Snippet)
https://www.youtube.com/watch?v=UL7beNWNLEQ
<現代の「創作版画家」:佐川美代太郎 Part3>
今回は「佐川美代太郎」の最後のPart3をお届けします。
Part1では、「第一章 佐川マンガの始まり、第二章 自分だけのマンガをめざして」Part2では「第三章 学ぶ教える、第四章 佐川美代太郎のまなざし」を書きました。
今回も「佐川美代太郎企画展」図録を使って、最終章「第五章 描くということ」とインタビューを使って長女からみた佐川美代太郎をお届けします。
●第五章 描くということ
”人生も芸術も、これでいいということはありません”
「対談 佐川美代太郎&新井哲 一筋の道に生きる」(「致知367号 2006年2月」)
佐川
「(略)技術ではなくて、結局は心でしょうね。
無心になって仏に近づいていかない限りは、よく描こうなどど欲を出したらもう駄目です。」
佐川は自身のこどもたちに「一度全部自分の知識は全部捨てろ、捨てれば自分が見えてくる」と語っていました。
緻密な線と膨大な知識により描かれた中国歴史マンガから、鮮やかな色彩の仏教絵本、大型の版画や日本画の技法で描く屏風作品などに至る道のりには、佐川の人生哲学の一端をみることができます。49
晩年の佐川は仏教の教えを絵本にする、ということをライフワークとして続けました。
〇仏の世界を描く
*浄土三部経をマンガにしていた佐川は、『絵で読む阿弥陀経』『絵でも読む感無量寿経』を出版。
(写真:表紙)
最後の『無量寿経』に取り掛かっていました。
しかし、3年ほどかけて描いても、阿弥陀仏がどうしても描けず、「近所の八百屋のおやじさんみたいな世俗的な顔」になってしまったといいます。
妥協したくなかった佐川は、納得のいくまで制作を続けました。
2009年に亡くなるまで取組み続けた最後の仕事でした。
(写真 50/51)
佐川は絵本や雑誌の表紙などを手がけるかたわら、大画面の屏風作品も制作しました。
屏風《ダルマ(法)に東西なし》 一部
《寒山拾徳》
一部
《鷹仰富士》一部
《菩提楽》一部
*浄土三部経:大乗仏教の経である『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三経典をあわせた総称
●インタビュー映像「佐川美代太郎の作品世界」:レファレンス ルーム 2
出演 小林美代子(長女) 25分
佐川美代太郎の長女が見た父を語っています。
インタビューの内容の要旨を簡単に書いてみます。
1.美代太郎と豊島区
叔父が豊島区の桑畑の管理人だった
叔父が満州で布団屋を営んだ
目白通りに自宅を用意し、昭和24年後半に引っ越しした。
画材は世界堂などで購入していた
2. 作品世界について
(1)制作の様子
四コマ漫画の描いている時の父は怖かった。
漫画のアイデアを考えている最中も怖かった。
書き出すとレコードなどを聴いていた。
(2)こだわり
(3)納得するまでとことん調べた。
途中では投げ出さない。
父が頑張るので、学生も夜遅くまで頑張る
(4)影響を受けた作家
「ニューヨーカー」。 アメリカのマンガ。
画家はビアズリー、ゴーギャン、ミシア、晩年のゴヤ
北大路魯山人、
「味の切れ」から、「絵の切れ、○○には作品にキレがあるか?」と問う。
3. 作品について
(1)印象に残っているのは
『菩提楽』
(2)版画も自分で彫った
他の人に彫ってもらったが線が死んでいる。摺師もいたが嫌だと。
(3)『ぐろう』について
自分が通う学校で父が講演した際に、先生が『ぐろう』は「Grow?」か「愚弄?」かと質問していたがあいまに返事をしていた。
4.交友
(1)近藤日出造
「漫画家になりたい」と近藤に相談します。
(2)やなせたかし、小島功と仲が良かった
(3)手塚治虫
手塚治虫が「父のパステルの色がきれいだ。その秘密を教えろ」とアポなしで京都の大学・家に来た
父が「手塚は 面白いやつだ」と言っていた。
自宅では毎月宴会をしていた。
(4)父としての佐川
恐い父で、ちょっと聞くと自説を延々と述べられた。
父は、「捨てれば見えてくる」と、一度知識は全部捨てた。
自分が思いついたことに手を緩めない
夜の10時から11時頃まで鉋を削った。
何かに行き詰まったら、ひらめきを待っていた
父はやれといわれたら一日中やってられる性格。
情報が入ると、そっちに行ってしまう。(映画、魚釣り等)
(Writers 4コメント)
佐川はやなせたかしや小島功と仲が良かったといいます。
作品を見ても、やなせたかしと画風が似ています。
小島功は、「現代の浮世絵師」と言われています。
佐川は、小島のように艶めかしい女性の絵は描いていませんが、独特の版画作品を残しています。
それも、「他の彫師に彫ってもらったが線が死んでいる」と自ら彫り、「摺師もいたが嫌だ」と版画の制作を全て自分でやっています。
そういう意味では、1人の人間が彫りや摺りを行って創作する、現代の「創作版画師」ですね。
●レファレンス ルーム 2
何冊か佐川の作品が書棚にあります。
ただ、読める本と展示のみの本があるので、残念ながら全作品は読めませんでした。
2回目として、前回Part1の「レファレンス ルーム 1」でご紹介できなかった部分のみ書きます。
●『砂漠の鬼竜子』
(写真)
これまでの、『奸血のシルクロード』『望郷の舞』『冒頓単于(ぼくとくぜんう)』では、国や軍の中心となり戦う側の視点で描かれていました。
『砂漠の鬼竜子』は、戦うものではない視点、祈りや鎮魂の描写が見られ、その後の仏教を題材とした世界観への繋がりを見ることができます。
●『望郷の舞』
これは手に取って読めました。
Part1で書きましたので、今回は佐川の「あとがき」のみ書きます。
〇『望郷の舞』 あとがき
李陵と関しては中島敦の名著『李陵』がある。
漢書『李陵蘇武伝』なんと人間臭い、中島の李陵はずいぶん美化。
特に、胡地に19年間囚われて、ついに節を完とうし、○○については一層その硬骨感ぶりを強調。
「私の結論は、李陵という男をかり、モンゴルという場所をかり、わたくしなりに人間の生き方、特に男の生き方の原点をみたいなものを探ってみたいと思いつく」
「わたくしも、大筋かは漢書によった。ただできることなら表現手段の絵の方で、少しでも詩情を感じさせられるものが出来たらとの考えで、話の筋立をした。」
李陵の舞を広大な草原で蘇武との別れの時に持ってきたのもそのため。
●手塚と佐川とやなせたかし
「手塚がアポなしで京都の大学や佐川の家に来た」と書きました。
Part1で『ぐろう』はなんだか、やなせたかしの絵に近いような気がします。やなせが佐川にちかいのでしょうか」と書きました。
手塚治虫と佐川美代太郎とやなせたかしを結んでいるものがあります。
それは、当初10人から構成された「漫画家絵本の会」です。
参加メンバーはおおば比呂司、佐川美代太郎、多田ヒロシ、長新太、手塚治虫、永島慎二、馬場のぼる、前川かずお、やなせたかし、牧野圭一(2年後に脱会)でした。
この会は『馬場のぼる ねこと漫画と故郷と』によるとやなせたかしと前川かずお両氏の「漫画集団のメンバーで絵本の仕事をしている仲間を集めて会を作り、展覧会をやろう」という相談で始まったといいます。
このメンバーで、1974年1月、東京・日本橋丸善本店画廊で第1回漫画の絵本の会展覧会が開催されています。
僕は、『9人の漫画家の動物たち』と15周年に開催されました『10人の漫画家の10の旅』の図録を図書館で探しました。
柳原良平が参加しています。
〇『9人の漫画家の動物たち』
〇『10人の漫画家の10の旅』
この本の後付けを見ると、漫画家の出入りはありますが、展覧会はほぼ毎年開催されています。
佐川美代太郎を3回に渡って書きました。
Part1でも書きましたが、最近偶然に知った漫画家・絵描きです。
まだまだ漫画も絵も充分に見れていません。
なんとか作品を探し出し、読みたいと考えています。