さだまさし(第二回:詩と詞):私的日本フォーク列伝第二章(Part2) | 懐かしエッセイ 輝ける時代たち(シーズンズ)

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ひときわ輝いていたあの時代の思い出のエッセイ集です。
毎週土曜日更新予定です。

今日は。
 AI(人工知能)が進化してるっていう話をよく聞きますが、最近ではAIの描いた絵が高値をつけたなんて話がありましたね。
先日、偶然見たテレビ番組ではAIを使った大喜利をやっていました。
芸能人や著名人がそれぞれ自分で育ててきたAIに回答をさせるというものです。
 
 お題に対して面白回答するというのはよほど人間的な機知に富んでいないと無理だと思い込んでいました。
ここまできてるのかと驚くと同時に私もAIを育ててみたくなりました。
お上品なヤツとか下ネタ好きなヤツとかいろいろなキャラを育てて対話させてみたら面白そうですね。
 
そうそうAIの売れっ子ソングライターなんてのも登場するかもしれません。

  少し間があきましたが、今回のテーマはさだまさしの第二回です。
都合で次回(11月3日)はお休みを頂き、11月10日の更新になります。
 
<さだまさし(第二回:詩と詞):
      私的日本フォーク列伝第二章(Part2)
 
 さだまさしの第一回(リンク)でさだまさしのグレープ時代について考えてみました。
それから暫く、さだにはまった1976年頃のことを考えていました。
さだにはまった理由の一つは詩の世界だったと思います。
 
<僕にとっての軌跡のさだ三部作>
 音楽に、スティービー・ワンダーの奇跡の三部作がありますが、僕にとってはさだまさしの1976年のソロアルバムからの三枚がそれにあたります。
(スティービーの「軌跡の三部作」は僕が勝手につけたのでしょうか、ネットで調べても他に使われていません。すみませんご注意を)
『帰去来(1976年)』『風見鶏(1977年)』『私花集(1978年)』の三枚です。
ただ、スティービーの場合は、それが音中心でしたが、さだの場合は詩でした。
この頃のさだの詩は僕にぴったりでしたから。
 
<詩・詞と曲>
 いい機会ですので、さだまさしから少し離れますが、詩について考えてみたいと思います。

 70年代初頭、ロックでは日本語をどのように曲にのせるかという苦悶の中にありました。
あるグループは日本語を捨て、英語でやろうと真剣に考えていました。
日本語の詞・詩の苦悶の中にいたグループの一つが「はっぴいえんど」でした。
この中で詞・詩を担当していたのが、ドラムも担当していた松本隆です。
松本隆と大瀧詠一のコンビは、当時ヒットはしていませんでしたが、『12月の雨』『春よ来い』などの佳作を発表してました。
その後このコンビが生み出した作品は、アルバム『ア・ロング・バケーション』の全曲や松田聖子のアルバム『風たちぬ』<SIDEA>があります。
松本隆は日本の音楽界で、阿久悠なかにし礼とならび、三本の作詞家の一人と僕は考えています。
 
 フォークは詩にまず重きを置きますので、日本語ロックとは逆の立ち位置にあります。
詩にいかに曲を乗せるか?
そうか、書いていて今気づきました、フォークの定義。
詩に曲をのせた楽曲。
全てそうではないでしょが、主に詩を曲にのせる。
ですから、フォークは先に詩ありきなんだと思います。

 ロック系は先に曲があり、その曲にあった言葉をのせる。
どちらかというと、曲に合い、曲を活かす言葉。
(時には、詞と曲が同時に生まれす場合も、もちろんあると思います。)
曲がまず聞き手に差し込み、詞・詩があとから聞き手と同調するのではと僕は考えます。
もちろんこの場合も素晴らしい詞・詩もたくさんあります。

 例えば、キャロル『ファンキー・モンキー・ベイビー』
矢沢永吉が試作?として創った「『ファンキー・モンキー・ベイビー』をラジオで聞いたことがあります。
これは、あまり意味のない、でたらめ英語?で書かれた作品でした。
英語のままでもよかったのだと思いますが、日本語の方が聞き手に親しみやすい。
ジョニー大倉が、英語で歌われた曲を元に詞をつけたのだと思います。
ちょうどいい動画がありましたので聞いてください。
 
〇CAROL ファンキー・モンキー・ベイビー試作風景(音声)
この詞は、独立でなく、曲と一緒になって初めてその効果を表すのではないでしょうか。
曲の思いを詞・詩が補完しています。

同じように、加山雄三は詞・詩を英語で最初に作ったといいます。
加山雄三の曲には岩谷時子が多くの作詞をしています。
僕の好きな『青い星屑』を聞いて見ましょう。

〇青い星屑
 
 
 曲だけなら色々な場面を思い起こしますが、日本語の詞がつくことである特定のシチュエーションを連想させます。
僕はこの曲が好きだったのですが、曲そのものもそうですが、詞も好きでした。
詞だけ読んでも、何か感じるものがこの作品にはあります。
ただ、音にのせるために、短い詞ではありますが。
 
〇青い星屑 詞・詩
 実は、さだの作曲法・作詩法について聞いたことはありません。
ですから、さだが詩から作っていたかは定かではありません。
 ウイキペディアに 「詩へのこだわり」として、アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されているとありました。
ちょうど「帰去来」のLPのライナーノーツがありましたので確認してみました。
「作詞」ではなく、作「詩」と書いています。


 
そういう意味では、さだはやはり言葉が最初にあったのではないでしょうか?
さだの詩は割と長いですね。
やはり、最初に詩から創るからでしょうか?
 
<詩人は詩人ばかりでななく、ソングライターが詩人になった>
 最近、純粋な詩人という人が少なくなっているのではないでしょうか?
 でも、いまでも若者に詩は届けられていると思いませんか、詞・詩という形で。
 しばらく前、僕は『詩の新世紀ー24人の現代詩人による』(新潮社)という本を読んでいました。
 そこには谷川俊太郎田村隆一北村太郎といった現代有名詩人24人の作品が収録されています。
 読んでみて、素敵な作品もありますが、心に訴えるという点で、僕には難解な詩人もいました。
 この本は1995年発行なのですが、その少し前の昭和期には多くの詩人が活躍していたと思います。
 
 その表れとして、昭和の時代は、今でも発行されている「現代詩手帳」「ユリイカ」「詩とメルヘン」に加えて多くの詩の雑誌がありましたし、日本人の詩人全集や海外の人の詩人全集も発刊されていました。
 
 いまはどうでしょうか?
 確かに「詩とメルヘン」といった雑誌はありますが、昭和より雑誌の数は減ったのではないでしょうか?
 
 それは、言葉だけで詩を創る純粋な形の詩人は減っているからではないでしょうか?
 その代わり、シンガー・ソングライターという形で詞・詩を発表してい詩人が増えています。
 ユーミン中島みゆき井上陽水小椋佳・・・
 ですから、詩人は昔より多いと僕は考えています、シンガーソングライターに形を変えて。
 
 
<詞・詩は市民権を得てきている>
  少し話が離れますが、最近の小中学校の教科書にこういったシンガー・ソングライターの詩が国語の教科書に載っているのをご存知ですか?
 音楽の教科書ではないですよ、国語の教科書ですよ。
 ですから、楽譜は載っていません、詞・詩だけです載っているのは。
  
 何年版かは忘れていしまいましたが、確か5・6年前の「教育出版」の中学国語の教科書に「歌の詞(ことば)」として、小田和正『僕らの時代』と 中島みゆきの『誕生』が載っていました。
 その横に「言葉をとおして語られているものを感じる」とあります。

 「僕らの時代」を聞いてみましょう。
 〇オフコース「僕らの時代」
    
 
〇 「僕らの時代」 
  http://j-lyric.net/artist/a002409/l005b89.html
 
  僕は初めてこの曲を聞いたのですが、中学生が読んだら、いい詞・詩ですよね。
  でも、やはり曲に載った方が、詞だけを読んだ時より、直に頭に入るような気がします。
 
 〇中島みゆきの「誕生」の詞
  http://j-lyric.net/artist/a000701/l0055d5.html
 
  残念ながら、中島みゆきが歌う曲はネットで見つかりませんでした。

 更に残念ながら、さだまさしの詩を国語の教科書で見たことはありません。
 一方で、さだの作品は別の形でも有名になっています。
 さだの書いた「償い」を2002年の裁判「三軒茶屋駅銀行員暴行殺害事件」で裁判長が引用しました。
  判決言い渡し後に少年に「唐突だが、さだまさしの“償い”という歌を聴いたことがあるだろうか?」と質問。
  少年2人はキョトンとした表情。
 裁判長は「この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と続けたといいます。
 さだの「償い」を聞いてみましょう。
 
 〇さだまさし 「償い」
  
 
 アメリカでは、ボブ・ディランの詩がかなり前から裁判官によって引用されているといいます。
そのディランですが、一見詩のみ凄いと感じている人が多いのではないかと思いますが、実は、作る曲も割とメロディアスなものが多いと僕は思いますが。
 
歌詞の詩・詞は現代社会で市民権を得て、社会に溶け込んでいると思います。

さだのアルバムに少しも触れられませんでした。
それは次の機会に。