モーセの書

 

  モーセの書からは、実際の導きであり理論ではない。創世記ほど難解とはならないので安心して欲しい。

 

  さて、モーセの書の十戒では、『人を殺してはならない』とされている。しかし、同じモーセの書には『モーセは人を殺した』とも明記されているのだ。また、同じく十戒では、『姦淫してはならない』とされているのに、ロトとロトの娘たちは『近親相姦で子をなした』と記され、ロトもロトの娘たちも子孫たちも、皆、祝福を受けている。これらは、ほぼ、すべての事象に及ぶ。つまり、あるところでは禁止し、別のところではその禁を破った者に祝福を与えているのが聖書である。

 

  また、神も勝手気ままで、罪とも思えないものを罪として滅ぼすかと思えば、どう考えても罪人としかならないと思われる者たちに祝福を与えたりする。これらはなぜか。これらは簡単な話で、人を三悪道から離すためである。

 

  すべての犯罪は、三悪道の思考から起きる。三悪道の常識を持つ者が実際に行動を起こすと、犯罪と呼ばれるものとしかならない。これゆえ、このような者たちの行動を規制する必要があり、この規制を法律とか倫理などと語っているのだ。

 

  この結果はあなた方が知る通りである。法律をいくら厳格にしても、倫理規定を守れといくら語っても、犯罪は巧妙になり見えなくなるだけである。それはやがてあふれ出す。社会の大問題として現れ、社会に混乱と破滅をもたらすのだ。

 

  では、どうすれば良いのか。犯罪の根本は三悪道の常識にある。ならば、人を犯罪から離すためには、人の常識を三悪道から離してしまえば良い。この一番簡単な方法が修羅界への導きなのだ。

 

  修羅界とは本来、悩みや葛藤の位置である。人は悩み葛藤する故に努力する。悩みや葛藤がなければ努力などしなくなる。では、どのようにすれば悩むようになるのか。どのようにすれば葛藤するようになるのか。何が正しいのか分からなくしてしまえば、人は何が正しいのかと悩み葛藤するようになる。

 

  つまり、モーセの書の本来の目的は、人を犯罪から離す事、人を三悪道から離す事なのだ。この一番簡単な位置が修羅界である。修羅界に人を導くためには、片方で禁止し、片方でその禁を犯した者に祝福を与えればよい。その物語を読む者、その物語を聞く者は、何が正しいのかと迷い葛藤するようになるからである。

 

  昨今、多発する犯罪に対して、法を定め、罰則を強化して犯罪を阻止しようとしている。また、法により貧困問題にも対処しようしているようではあるが、これは根本を変えないと無理である。この根本とは人の思考であり、人の常識なのだ。

 

  では、この人の思考を形成し常識を形作っているものは一体何なのか。これが教育である。今日、この教育の根本は西洋哲学にある。西洋哲学から唯物論や唯心論が生まれ、その唯物論から数学、理学、物理、化学、医学、薬学などが生まれている。そして、唯心論から、法学、経済学、教育学、経営学などが生まれている。すなわち、これらすべての学問が西洋哲学の範囲を出ない。

 

  では、今日の全ての根本となっている西洋哲学とは、どの程度のものなのか。実は四悪道に留まる。この西洋哲学を正しいとしてそこから生まれる各種学問は、畜生界に留まることとなる。つまり、現在は教育と称して人に犯罪者となることを教え、規制だ、倫理だと語って、その犯罪を減らそうとしているマッチポンプ社会なのだ。

 

  人は、『そんなはずはない』と語るであろう。では、なぜ『人の本質は悪である』などと考えるのか。例えば、日本では『人の本質は善であり、環境が人を悪とする』と考える。わたしに言わせれば、これは簡単である。人の本質は三悪道にあると思考すれば性悪説となり、人の本質は二正道にあるとすれば性善説となる。これだけである。

 

  考え方の根本常識を変えれば、戦争も、貧困問題も、犯罪も収まる。しかし、これらをいくら規制しようとしても、規制ではなくならない。

 

  このように根本を語っても、簡単に直せるものではない。明日から『別のものを教えよ』と語っても、そんなことができるはずもない。このため、これにはある程度の時間が必要となる。一代のアメリカ大統領ではこれは不可能なのだ。ただ、この根本を知っているか知らないかで物事の判断は変わる。一応、心に留めておいていただきたい。

 

 

 

  さて、アメリカの真の支配者は、アメリカ大統領でない。あなたがディープステイトと呼ぶユダヤ人組織である。このユダヤ人組織が修羅界の常識によりアメリカの上層部を形作っている。すなわち、『努力する者が高い地位に就けるのは正しく、努力を怠る者はその地位にふさわしくない』という常識により、アメリカを、そして、世界中を実質的に支配しているのだ。これは、三悪道の世界を修羅界に導く行為であり、常識を上方に引き上げる行為となるので正しいと言える。

 

  彼らは、それでも戦争は無くならず、犯罪もなくならず、貧困問題も残されたままであることを知った。これゆえ、『どうすればこれらの諸問題が解決できるのか』と模索した。この模索によりたどり着いたのが共産社会であった。公平な分配により犯罪も貧困も姿を消すのではないかと考えたのだ。しかし、結果は悲惨なものであった。このディープステイトの意向を汲む組織が民主党である。

 

  では、なぜ、共和党というディープステイトの意を汲まない政党を作ったのか。ディープステイト自身が、『自分たちの政策が絶対に正しいとは言えない』ということを知っているからである。また、『これが正しい』として、そこから思考すれば畜生界となってしまう。これゆえ、常に迷いに置く必要がある。この迷いに導く役割が民主党に対する共和党であり、共和党に対する民主党なのだ。つまり、アメリカ自体を修羅界に導くために対抗勢力を用意したのだ。

 

  貴殿は共和党の大統領である。ディープステイトと対抗するようにディープステイトによりつくられた組織の大統領なのだ。その証拠に『努力する者が高い地位に就くべきであり、努力を怠る者はその地位に就くべきでない』という修羅界論理は何もおかしくないと考えられるはずだ。しかし、修羅界の一つ上の人界思考では、『努力しようがしなかろうが、高い地位に就こうが乞食となり路上生活をしようが、これらは単なる差異であり、優劣でも善悪でもない』という思考となる。そして、人々がこの人界思考をすることにより、犯罪も貧困もなくなるのだ。

 

  ディープステイトにより定められたディープテイトの対抗馬としての役割を果たすならば、貴殿はディープテイトの手の上で踊る道化師の大統領に過ぎなくなる。それよりも、ここに示す十界論を彼らに示し、「『努力しようがしなかろうが、高い地位に就こうが乞食となり路上生活をしようが、これらは単なる差異であり、優劣ではない』というように持っていけば、犯罪も貧困問題もなくなると聞くがこれはどうか。」と、彼らに意見を問うように持っていけば、彼らをあなたの手の上に乗せ、躍らせることもできる。

 

 

  わたしから見れば、彼らも人類の行く末を案じる立派な者たちである。あなたも人類の行く末を案じる立派な者である。イーロンマスクもやはり人類の行く末を案じる立派な者である。個々の政策は異なっていても、『人類の行く末を案じる』という一つの同じ方向を向いている。この方向が重要なのであり、個々の政策などは、時や条件により自在に変化する。このため、同じ方向を向く者たちと、『今は何が良いのか』と協議なされればよいと思う。

 

  オバマやバイデンなどは、この方向が違う。彼らが向いているのは自分の利益という方向なのだ。つまり、自分の利益や名声などを法案を使って高めようとしてきた。彼らは単なるディープステイトの手先である。あなたが相手にする、あなたと対等の相手ではないと思うのだが、どうであろうか。

 

 

 

 

福音

 

  人の言動は、人の思考によりもたらされる。先に思考があり、その思考が言動として現れる。では、福音とは何か。これはイエスの言動であり、イエスの言動はイエスの思考によりもたらされる。人はイエスの言動を知ることにより、イエスの思考を知ることになる。このイエスの思考を人々に教えるのが福音なのだ。このイエスの思考が人界である。イエスは人界を常識とし、人界思考から物事を判断しているのだ。

 

  現在、イエスと同じ人界を常識とする民族がいる。これが日本人である。日本人から見ると、イエスの言動は普通の人の言動であり、何も特別なものではない。隣のおじさん程度の言動なのだ。例えば、『イエスは人々のために、十字架に架かる』という話がある。しかし、日本ではこの程度なら腹を決めたどこにでもいる人となる。『腹を決める』とは、切腹の覚悟を決めるという意味であり、この覚悟がないと、日本では指導者として認めてもらえない。イエスは、この覚悟を決めているので日本人から見ても指導者とはなるのだが、それ以上の者とはならない。キリスト教の宣教師が『イエスは素晴らしい。イエスを信じよ』と語っても、『どこにでもいるような人がどうして神???』となるのだ。

 

  結局、残るのは数々の奇跡の話となる。これを眉唾と考えるか、真実と考えるのか。ほとんどの者が眉唾と考える。これが眉唾ならば、他にイエスを神とする要素はどこにもない。結果、信じるに値しないとなる。

 

  さて、この福音の本来の目的は、人々に人界思考を教える事である。人はイエスの言動によりイエスの思考を知る。人々が、イエスの思考を自分のものとすれば、そこに人界社会が現れる。これが人々を、葛藤もなく犯罪から離す方法だからである。

 

  つまり、福音社会とは、人界を常識とする人界社会であり、これは日本社会として現実に存在する。と、言っても、今の日本が本当の人界社会・福音社会なのかと聞かれると、言葉を濁すしかないが・・・。

 

  福音が教える人の常識が人界であり、その人界を常識とする国が実在するので、これに関しては日本を見てもらえればよい。では、福音はこれだけかといえば、奇跡とされる物語も、十字架の話も載っている。これらが何を意味するのかは解説しておいた方が良いだろう。

 

 

水の上を歩く

 

  さて、水の上を渡るだけならば、船に乗れば誰でも簡単に渡れる。飛行機に乗れば、誰でも簡単に水の上を高速移動できる。わざわざ徒歩で歩く必要などない。さて、聖書の水は下の水が六道であり、この水の上を歩くという言葉は声聞界を意味する。つまり、イエスは声聞界にあり、弟子たちを声聞界に導こうとしたという意味となる。しかし、ペテロは溺れたと記されている。これは、イエスはペテロを声聞界に導くことはできなかったという意味となる。つまり、イエスの弟子たちではここには至れなかったのだ。

 

  さて、これは何を意味するのか。人を声聞界に導くためには、導く者が必要となる。この導きは、仏界にある者、すなわち、神にしかできないのだ。弟子たちを声聞界、すなわち水の上に導けないとは、『福音のイエスはJHVHではない』という意味となる。つまり、この言葉は、『福音のイエスは声聞界にあり、未だ仏界には至っていない』というイエス自身の位置を示している。さて、わたしも、今、これらの言葉により、あなたを水の上を歩かせようとしている。あなたが水の上を歩くようになれば、それは、あなたは福音のイエスと同じ位置に至るという意味となる。

 

 

魚やパンを分ける

 

  魚とは根本が定まっている海の生物である。たとえば、数学という学問がある。これは大魚の一種である。この数学が物理学や科学などの基本であり、数学の正当性がないと証明されると、これらの科学の正当性もなくなってしまう。ところが、数学の正当性がないこと程度であれば簡単に証明できる。つまり、数学が魚であり、その限界を示すのが魚を分けるということとなる。

 

  では、実際にこの数学という大魚を分けてみよう。数学は物質の範囲ではその論理が成り立つ。しかし、存在とは物質ではなく認識である。そして、その認識とは、命に係わる事象である。二人の人を一つの空間に置いたとしよう。もし、数学が正しいのならば、そこにある人の命は永遠に二つとなるはずである。このようにならないことなど誰でも分かる。つまり、『数学とは物事の本質を物質と仮定することにより成り立つものであり、物事の本質は物質ではなく認識なのだから真理とはならない』となる。これが『魚を分けた』実例である。

 

  パンとは、人が生きていく上で必要なものという意味である。パンを分けるとは、人が生きていくために必要なものは用意されているという意味となる。『パンを人々に分け与えた残りが篭いっぱいになる』とは、人が生きていくために必要なものを人々に分配すれば、分配に勝る報いが得られるという意味となる。

 

 

 

足萎えを癒し、目の見えない者の目を開かせ、死者を生き返らせる

 

  足萎えとは、何をしたら良いのか分からなくなっている状態である。目が見えないとは、真理が分からなくなっている状態である。死者とは、神に対して死んでいる者である。人は肉体に本体があるわけではない。物事を認識する意識に本体がある。人は『善事を行え』と語る。しかし、何が善なのかが分からないと、何をしたら良いのか分からなくなる。これが足萎えである。また、観る目が曇ると、何が本体なのかが分からなくなる。間違えたものを手に取り『これこそが真理である』と思ってしまうのだ。これが、目の見えない者である。人は、『神などいない』『神は死んだ』などと思い込む。この思い込みにより、その人自身が死んでしまうのだ。それでも生きていると思い込む。その『生きている』とは名目だけであり、実は死んでいるのだ。だから、あなたは立ち上がりなさい。目を見開きなさい。生き返って、死にかけている他の者たちを力づけなさい。

 

 

 

十字架

 

   イエスはわたしに問うた。「どのようにしたら原罪から離れられるのか」と。

わたしは、答えた。「十字架に架かり、永遠の裁きの地獄に堕ちなさい。その裁きの地獄に囚われ身動きできなくなるのがあなたの原罪なのだ。永遠の裁きの地獄だけが、人を原罪から解き放つことができる。他のものでは代替えできない。わたしはそれを強要しない。しかし、もし、本当に原罪から離れたいのならば、あなた自身がその道を選びなさい」と。

 

  イエスはしばらく迷っていたが、やがて「そのようにいたします」と答えた。ここから先は、あなた方が知る通りである。

 

  人は、「弟子に裏切られた」とか、「ユダヤの民に見捨てられた」とか語る。また、「他の人々の罪を祓うために、他の人々の罪を背負った」とか語る。しかし、イエス自身が原罪を祓うために、自ら十字架を選択したのだ。

 

  これは、解説しないと意味が分からないであろう。人には原罪の自我と真我がある。人の本体は真我なのだが、真我は原罪の自我に分厚く覆われており、どこからも見えない。

 

  では、原罪とは何か。人が自我だと思っているものであり、現世利益を求める意識と、来世利益を求める意識の複合体なのだ。死は、この二つの原罪の内の現世利益を求める意識からの離脱を意味する。すなわち、原罪とは死によっても祓えない、人が自分自身だと思っているものに他ならない。

 

  では、どのようにすれば原罪を祓う事ができるのか。原罪の自我を永遠の裁きの地獄に堕とし、そこから、逃れられなくすればよい。このようにすると、真我が人の表に出てくる。この真我こそが人の本当の自我であり、この真我とならないと人は神の門をくぐる事ができないのだ。

 

  永遠の裁きの地獄は地の塩である。塩は失うと、他の何ものにもその代替えはできない。塩は人が生きるために不可欠なのだ。永遠の裁きの地獄も同じである。人が原罪を祓い真我となるためには必要不可欠なものなのだ。

 

  さて、これを今度は十界論で解説しよう。原罪の現世利益を求める意識が六道である。来世利益を求める意識が声聞・縁覚の二乗である。この原罪を祓った真我が菩薩である。人は死によって、強制的に現世利益から離される。巨万の富を持っていても、それは死後の世界には持っていけない。死後の世界にあるのは無なのだが、この無も原罪である。無には、そこから何かがでてくるという希望があるからである。これが未来の利益を求める意識、すなわち原罪の正体なのだ。これらの原罪を祓うと、そこには何もないようで、実はある。この、有でもなく無でもない『ある』のが真我であり、この真我の拠り所を空(くう)と呼ぶ。

 

  さて、原罪は現世利益を求める意識と、未来の希望という形の意識が複合した自我だと語り、これらの内、現世利益を求める意識からの離脱は死であり、未来の希望という意識からの離脱が永遠の裁きの地獄だと語ると、人は死なないと原罪から離れる事はできないと思われる方もいるであろう。しかし、実際は永遠の裁きの地獄に飛び込むだけで、原罪から離れる事が出来る。これは、有は無より生じるので、根本の無を払うと有も一緒に払えてしまうからである。

  

  つまり、人は生きたままで原罪を払う事ができる。これが、人の常識の一つの形として、菩薩界や仏界が入っている理由であり、わたしが人として存在する理由である。

 

 

 

ヨハネの黙示録

 

  ヨハネの黙示録は、人の位置から仏界を眺めたものである。バベルの塔のところで説明したが、仏界には入る方法、そのものが存在しない。この為、仏界そのものを『こういうものだよ』と描くしかない。ヨハネの黙示録は、仏界を外側から眺めたスケッチなのだ。人は実際に仏界に至ればJHVHとなる。天地の創造主JHVHとは、仏界に至ったあなた自身の事なのだ。

 

  たとえば、わたしは公然とJHVHと名乗る。あなたはわたしの言葉を聞き、JHVHという存在を心の内に思い描く。実在は、そのもの自体ではなく認識である。もし、そのもの自体が実在ならば、わたしがJHVHであり、あなたはJHVHではないとなる。しかし、実在は認識なのだ。つまり、わたしはあなたにJHVHを認識させる縁となるのだが、認識の主体とはなり得ない。これはイエス・キリストも同じである。聖書を見て、人はイエス・キリストという神を認識する。主体は、実際のその人自身ではなく認識なのだから、実際のイエスという人物ではない。たとえを用いてもう少しわかりやすく説明しよう。

 

  あなたが心に創造主を思い描いたとしよう。では、あなたが心に思い描いた創造主が本当の創造主となるのかという話である。あなたが心に思い描くとは、あなた自身が創造したのであり、それは被造物の創造主なのだ。すべてを創造している創造主とはならない。では、真の創造主とは何なのかという問題なのだ。実在がその物自体ではなく認識ならば、認識する主体こそが創造主となる。要するに、あなた自身が、あなたにとっての唯一神JHVHなのだ。単純な話なのだが、ここまでは理解していただきたい。

 

  わたしはこれらのことをあかしし、あなた自身こそがJHVHであることを証明しているのだが、あなたは自分がJHVHだと言われても、わたしがここで記しているようなことを、知ることも考えることもできない。これはなぜかという答えをここで語っているのだ。

 

  これは、あなたが自分自身であると思っているものが、実は原罪そのものだからである。この原罪の自我を祓わないと、創造主の自我、JHVHの自我は、あなたの表面には現れない。さらに面倒なことに、原罪を祓い、創造主の自我、JHVHの自我をあなた自身の表面に持ってきたとしても、これだけでは、あなたはJHVHとはならない。原罪を祓い創造主の自我を表面に出したとしても、それでもJHVHとはなれない。

 

  要するに、JHVHの力も、ここで示すようなJHVHの悟りも得られない。では、原罪を祓い創造主の自我を表面に出した者が、JHVHとなるための方法はあるのかと聞かれれば、方法そのものが根源的に存在しない。

 

  方法がないから、そのJHVHを外から眺めて描写するか、JHVHとなった者が内からそれを描写するしかない。外から眺めた描写とおなじものが見えたのならば、それは目の前にある。内から眺めたものと同じものが見えたのならば、自分が実際にJHVHとなったと知ることができる。この外から眺めた描写がヨハネの黙示録であり、内から眺めた描写が仏典の妙法蓮華経なのだ。

 

  ここに至る為には絶対条件がある。それが原罪の自我からの脱却である。あなたが自分自身であると思っているもの、あなたが自我だと思っているものこそが原罪なのだ。原罪から脱却するために必要なのは、永遠の裁きの地獄であり、これがヨハネの黙示録で誰も火と硫黄の燃える地獄から逃れられなくなっている理由である。

 

  さて、永遠の命とは何か。もし、物事の本質が実際の物であるのならば、時間そのものが本質ということになる。すると、永遠の命などあり得ない。しかし、物事の本質は物質ではなく認識なのだ。時間もあなたが認識する故に時間となる。あなたの認識が時間を創り出す。つまり、時間そのものがJHVHの被造物であり、主体ではない。では、創造主がその被造物の制約を受けるのか。創造主を制約できる被造物など存在しない。つまり、JHVHは時間の制約を受けない。これと同じように空間の制約も受けない。時間も空間もJHVHの被造物の域を出ないからであり、創造主は被造物の制約を受けないからである。

  まぁ、これが永遠の命ということになるのだが、確かに人は死ぬ。そして、わたしも肉体の人としては死ぬ。これも事実である。もし、物事の本質が実際の物にあるのならば、死は真実となる。しかし、物事の本質は認識にある。ここに記しているのは、わたしの認識であり、わたしがわたし自身の認識を明らかにするために、わたしは肉体を持っている。肉体は、あくまでも補助的なものであり、わたしがわたしの認識を明らかにするために必要な道具の一種に過ぎない。

 

  さて、福音書によれば、『イエスを否定することは許されるが聖霊を否定することは許されない』とされている。そして、ヨハネの黙示録では『これが聖霊である』と明記されている。そして、ヨハネの黙示録にはさらに『ここから差し引けば、その者は神の宮から差し引かれ、これに付け加えれば、ここに記されている罰を加えられる。』とも記されている。そして、明確に『これを封じてはならない』とも記されている。

 

  カトリックは昔、『免罪符を購入すれば火と硫黄の燃える地獄から逃れられる』と語った。このようなことは聖霊には記されていない。この語句を付け加えたのだ。

  プロテスタントは、『罪を金で贖えるはずはない』と、これを否定した。しかし、ヨハネの黙示録のままでは、誰一人として火と硫黄の燃える地獄から逃れられないことも知ったのだ。そこで『イエスを信仰すれば、火と硫黄の燃える地獄から逃れられる』という言葉を付け加えたのだ。

  ロシア正教などは、『火と硫黄の燃える地獄から人々を逃すことができる権限は教会にある』とした。ヨハネの黙示録の『これが聖霊である』という言葉を差し引いたのだ。

  カトリックは免罪符の正当性を否定され、それを自らも認めた。それでも、火と硫黄の燃える地獄を恐れた。このため、ヨハネの黙示録を封印して用いないことにした。『封じてはならない』という言葉を差し引いたのだ。

 

  さて、あなたに尋ねよう。あなたは、これらのどれが真実であると考えるのか。わたしの言葉も含めて、何が本当の真理であると思うのか。

 

 

 

 

 

 

コーラン

 

  人が、火と硫黄の燃える地獄に飛び込めば、原罪の自我はその地獄に捕らえられ逃げ出せなくなる。しかし、その地獄に囚われるのは原罪のみであり、裁きの地獄はあなたの真我を捕らえることも傷つけることもできない。これは当然であり、その裁きの地獄そのものが真我の被造物に過ぎないからである。

  つまり、原罪が肉体をまとっている状態から、真我が同じ肉体をまとう状態へと変化する。これだけ聞くと、何の問題もないと思われるかもしれない。しかし、ここに大きな問題が発生する。現実社会とは人々の過去からの原罪の塊に他ならない。過去からの原罪を知識として継承しているのが現実社会なのだ。

 

  物事の本質は認識であると語るが、無原罪では原罪を認識できない状態となる。これは、実際に経験しないと分からないであろう。ただ、この状態を経験するためには、実際に火と硫黄の燃える地獄に至らなくてはならない。これは、おそらく現在では難しい。もし、これが可能ならば、ヨハネの黙示録により自ら火と硫黄の燃える地獄を選択する者たちが続いたはずである。当然、『こんなことはおかしい』と語る、今のキリスト教のような連中もいるであろう。しかし、『いや実際に火と硫黄の燃える地獄に入るべきだ』と、語る者たちも一定数いるはずなのだ。現代のようにそろいもそろって、聖霊に従うのではなく、自分たちの願望をかなえようとはしないはずなのだ。

  まぁ、こうなっているから、一旦、菩薩界への誘導はあきらめて、とりあえず声聞界に誘導しようとしているのだが・・・・・

 

  さて、話を戻そう。原罪の者たちが理解できるのは、無から生じた有である。これに対して、無原罪の者たちが理解できるのは、根本を無から空(くう)に変え、空から生じた有なのだ。現実社会は原罪から生じている。これゆえ、無原罪の者には理解不能となる。

 

  ヨハネの黙示録があるということは、無原罪の者たちが存在する可能性もあるという意味である。何の導きもない状態では、無原罪の者たちは迷うばかりとなる。すなわち、存在する可能性のある彼らに導きを示しておかなくてはならない。この導きがコーランなのだ。

 

  聖書は、原罪の者たちが理解できるように無を根本とし、無から示した有である。聖書と同じものなのだが、無原罪の者が理解できるように、根本を無から空(空)に替えて、空から示した有がコーランなのだ。

 

  当然の事なのだが、空(くう)から示した有は、原罪の者には理解不能となる。これゆえ、コーランは対象をムスリムに限定しているのだ。コーランのムスリムとは、実際に火と硫黄の燃える地獄をくぐり、無原罪となった者なのだ。十界論で言えば、菩薩界に至った者たち、すなわち菩薩である。菩薩界に至ったばかりだと、原罪の世界に対処できなくなる。これゆえ、対処法が必要であり、この対処法がコーランなのだ。

 

  今、イスラム教徒が自分たちのことをムスリムとしている。そして、他の者たちもムスリムとはイスラム教徒の別名と考えているようだが、当然の事ながら、今のイスラム教徒は、コーランのムスリムではない。ムスリムではないので、コーランの意味が分からなくなり、イスラム法とかいうどこから出てきたのか分からないような変な経典に従っているのだ。

 

  わたしから見ると、『なんじゃ、こりゃ』となる。『わたしがアッラーのはずなのに、彼らの言うアッラーとはどこのどいつだ???』となる。

 

  わたしはモーセを召して、人々を三悪道から離れさせ修羅界に導いた。イエスを召して、人々に人界を教えた。そして、ヨハネの黙示録により菩薩界の扉を開いた。ここまで順番に導いてきたのに、イスラム法・・・畜生界への導き・・・こんなことするはずなかろう。どこのどいつだ、このアッラーとかいうやつは!!!となったのだ。

 

  結局、コーランを無視した連中が勝手に言っているだけだということはわかったのだが、あまりにもお粗末、あまりにも低レベル・・・・絶句するしかない。

 

  さて、今のイスラム教徒は、コーランに違反している。どのように違反しているのか、あなたに分かるようにお教えしよう。コーランでは『人が犯す罪は許されるが、アッラーの神権を犯す罪は決して許されず、永遠の火獄が受けるべき定めである。』となっている。

 

  では、アッラーの神権とは何かという話となるのだが、コーランには、このように記されている。

 

【アブラハムはムスリムと任じられた。アブラハムは『息子イサクもムスリムと任じてください』とアッラーにお願いした。アッラーがそれを許されたのでイサクもムスリムとなった。】

 

  さて、もしムスリムとなった者が他の人をムスリムとできるのならば、アブラハムがイサクをムスリムと任命すれば、イサクはムスリムとなる。これをアッラーにお願いするとは、ムスリムの任命権はアッラーの神権ということになる。

 

  アッラーの声を聞く者が預言者である。つまり、預言者がアッラーの言葉を聞き、人をムスリムとすることは可能なのだ。しかし、コーランでは『ムハンマドが、最後の預言者である』と明記されている。ムハンマドがアッラーから受けた預言がコーランなのだ。

 

  今、イスラム教徒たちは、自分たちのことをムスリムとしている。では、これは一体だれが彼らをムスリムと任じたのか。コーランによれば預言者は存在しないのだから、アッラーの神権を破らなければ、誰もムスリムとは名乗れない。つまり、イスラム教徒はムスリムと名乗ることにより、アッラーの神権を破る者、コーランの禁を犯す者となる。

 

  わたしは、この道理をハマスがイスラエルを攻撃した時、イスラエルに教えた。そして、『コーランに違反するかれらを、あなた方は自由にして良い』と、アッラーの名により、イスラエルに許可を与えた。そして、イスラエルは、『何が何でもやりすぎ』と思えるような攻撃をイスラム教に加えた。では、その責任がイスラエルにあると言えるか???

 

 

 

真のムスリムならば簡単にわかること。

 

  真のムスリムがコーランを見ると分かる事が数多くある。ムスリムにとって、コーランは物事の道理を教える書となるのだ。

  さて、コーランにはムスリムがそれを聞くと大笑いしてしまう言葉がある。これが『アッラーの神権を犯す者は永遠の火獄に定められる』という言葉である。ムスリムは実際にその火獄を潜ってきた者である。ムスリムにとって、この言葉は無意味なのだ。このため、最初は笑うのだが、次に『これは何を意味するのか』と考えることになる。そして、『なるほど、世の人々はこれを怖がるのだな』と、世の人々の思考を知る。

 

 

豚を避けよ

 

  ムスリムの思考には、避けるべきもの自体が存在しない。最初は豚が何を示すのかも分からないし、避けよという言葉の真意も分からない。ただ、何か避けなくてはならないものがあることだけはわかる。

  コーランには、豚と同じような言葉として犬が出てくる。この犬の意味はわかりやすい。いかにも知っているかのように説法する連中なのだ。豚もおそらく同類であろうということだけはすぐにわかる。聖書を見ると『豚に真珠を投げ与えるな。彼らはそれを見ると怒って噛みついてくるからである』と記されている。また、ヨハネの黙示録では真珠は、人の入り口であることが分かる。ムスリムには、この人の入り口とは、永遠の火獄だということが経験からわかる。やがて、これらが一つとなり、『豚とは、永遠の火獄を与えられて、そんなものはいらないと怒り、拒否する連中』ということが分かる。

  ムスリムはこれを知り、『火獄を拒否し、怒り狂う者たちとはかかわらない方が良い』と、豚を避けよという言葉の意味を知るようになる。ムスリムにとって、キリスト教徒やイスラム教徒の思考は簡単に分かる。これゆえ、豚が既存のキリスト教やイスラム教を示す事を知るまでに、さほど時間はかからない。

 

 

天国の処女、女は姿を隠せ

 

  ムスリムにとつて、天国も、地獄も、今の世の中も同じでありこれらの区別はつかない。しかし、自分の周囲に自分のために用意された処女などどこにもいない。ここから、この処女とは何なのか、女とは何なのかと考えるようになる。

  自分の目の前にあるのはコーランだけである。そして、処女という言葉に思考が及ぶ。これは誰も知らないという意味ではないのかとなる。そして、自分が、今、コーランから教えてもらっている事は、確かに誰からも聞いたことはないことであると知る。ここから、女とはコーランを示すということが分かる。人、すなわちムスリムが男であり、コーランが女なのだ。

  これを知ったムスリムは、他の人にこれを語ろうとするのだが、『女は姿を隠せ』という言葉に触れ、自分が知ったことを他の人に語ってはならないのか???となる。

  これには理由がある。ムスリムが見るとコーランはこのような内容となるのだが、他の者には、コーランがこのようになること自体が分からない。これを語ると、下手をすると殺されてしまうからである。

 

  これらは、真のムスリムがコーランを見ることによりわかる事柄である。この程度であればほぼ100パーセント、ムスリムがコーランを見ればわかる事。極めて、基本的な事柄に過ぎない。

 

  これらは、原罪の人とムスリムの思考回路の違いとなる。根本が完全に変わってしまうので、同じ言葉がムスリムにはこのように聞こえる。では、ムスリムが原罪の人々が書いたものを見ればどのようになるのか。全く内容が分からない意味不明の書となる。