世界各国の現状
では、次に世界各国の現状について分析してみよう。まず、表面的な姿で言えば、アメリカもヨーロッパ諸国も法治主義である。そして日本も法治主義である。法治主義とは畜生界の常識と言う意味となる。これに対して、ロシアや北朝鮮は絶対君主制であり、これは餓鬼界と言う意味となる。中国も表面的には餓鬼界の国となっている。
アメリカの現状
次に、奥底の状態を分析していこう。まずアメリカであるが、アメリカの真の支配者はディープステイトである。アメリカのディープステイトとはロックフェラー家であり、このディープステイトがドルの力でアメリカを、そして世界中を実質的に支配しているのだ。
このように語ると陰謀論と言われそうだが、ディープステイトが実際にアメリカを支配している支配構造をお教えしよう。
ディープテイトが実際に握っているのはドルの発行権である。世界の基軸通貨を押さえているのだ。当然、彼らはこの金を使ってアメリカと言う国、そして世界全体を支配しているのだ。さて、百人の人がいたとしよう。もし、この中の一人が他の人の百倍稼ぐならば、他の99人は極貧にあえぐこととなる。すると、当然、この百人の社会は崩壊してしまう。しかし、ディープテイトはいくらでもお金を創り出す事が出来る。百人が百人とも普通に暮らす事には困らないが、その中の一人だけが他の人の百倍稼ぐことができる状態を創り出せるのだ。もし、このような社会を創ったとしたら、その百人の社会はどのようになるであろうか。百人のほぼ全員が、その一人となることを目指す社会ができる。これがアメリカンドリームである。では、立法・行政・司法の要職に就ける者は、アメリカンドリームの達成者と言う条件を付けたら、その社会はどうなるのか。アメリカンドリームの信奉者で、すべてを支配することが可能となる。さて、実際にアメリカ社会を見てみよう。全員がアメリカンドリームを達成することを目的とし、勉強し、努力を重ねているではないか。
さて、自ら努力を重ねるという位置は、修羅界である。つまり、ディープテイトは修羅界の常識により、アメリカをまとめているのだ。これは、アメリカの上層部を修羅界にしているという意味であり、他の国が法治主義などと言っている間は、畜生界vs修羅界となり、アメリカの覇権は安泰となる。この修羅界への誘導こそが、ディープステイトの真の姿なのだ。選挙制度なども『努力を怠るな』と言う意味であり、他国はこれを表面的に真似しているだけである。
このような話を聞くと、『陰の支配者などけしからん』と言われると思う。しかし、わたしは『彼らこそが今の人類の王としてふさわしい』と語ろう。ロシアのプーチンなどは、『餓鬼界の常識こそが正しい』として、餓鬼界により修羅界のアメリカに討ち勝とうとしている。戦いにすらならない。中国の習近平も同じである。中華本来の姿ならまだしも、自らを晒すことにより中国自体を餓鬼界に誘導するしかなくなっている。これもおバカである。イランはイスラム社会の盟主として、アメリカに挑んでいるのだが、コーランにより自らを論破されればどこにその基準を求めるのか。結局、自らを支配者とし、人民を奴隷として扱う餓鬼界に行きつくしかなくなる。
ディープテイトはアメリカ社会を修羅界に導くことにより、社会は経済的に発展した。しかし、その先が分からなかったのだ。アメリカは確かに世界の盟主とはなったが、犯罪は多発するし、貧富の差もなくならない。『これで良い』とは思えなかったのだ。そこで、行きついたのが共存共栄の共産主義であった。『皆でつくり、平等に分け合う社会を創れば、そこに人類の未来があるのではないか』と彼らは考えた。しかし、結果は悲惨なものであった。その末路、その現代の姿が、今のロシアであり、中国なのだ。何が間違っているのか。共産党が目指したのは物質的な平等である。しかし、同じ平等でも思考の平等を目指すべきだったのだ。
日本の現状
次に日本の現状を分析してみよう。日本政府は財政赤字にあえいでいるように見える。しかし、民間も国民も赤字で苦しんでいるというようなことはない。なぜ、政府機関が赤字となるのか。今、日本の政府を実質的に運営しているのは財務省である。では、財務省とはどのような組織なのか。東大法学部出身のエリート集団である。では、彼らは何の達人なのか。法治主義の達人であり、法治主義とは畜生界思考である。つまり、畜生界を極めた者たちが日本と言う国家を運営しているのだ。さて、日本人の基本は、『自分も他人も同等であり平等』なのだ。これが人界の常識である。これに対して、畜生界の日本政府は『自分は優れている』という思考の者ばかりと言うことになる。畜生界の者たちが集まれば、必ずその中で『誰が優れているのか』と言う争いが起こる。つまり、財務官僚が真に目指すものは、財務官僚内部の出世競争と言うことになる。『国民のことも日本のこともどうでもよい。ただ、自分が他の者よりも優れていると認めさせたい』という争いに終始する。当然の事ながら、他の省庁も似たようなもので、国や国民の事などそっちのけで、省庁間の争い、省庁内の争いに終始する。
これは、今、世界全体が畜生界思考を主体としているからである。物事の正解を定め、その正解をより多く出した者を優秀とするのは、法により正邪を定め、正解を法により定める法治主義そのものなのだ。これが畜生界の基本的な考え方である。当然の事ながら、スポーツ界もルールにより勝敗を決める畜生界思考、ゲームの世界もルールに依り勝敗を定める畜生界思考に他ならない。畜生界思考の特徴は、勝者がルールを定め、そのルール上で人々が勝利を目指して争うのだ。ただ、この争いにおける奮闘努力と言う過程こそが重要と認識すれば、これは修羅界思考となる。勝敗に優劣はなく、自分が極めたいことを極めるだけと認識すれば、これは人界思考となる。主体が社会全体やグループや組織となり、どうすれば、組織がよりよくなるのかと思考するようになれば、これが天界思考となる。逆に、勝者にこそ価値があり、敗者は無価値と考えるようになれば、これは餓鬼界思考である。また、勝者を妬み、別の攻撃を加えるようになれば、これは地獄界思考ともなる。このように、実際には、思考は簡単に変遷する。根本となっている事象に優劣があるわけではない。この変遷を六道輪廻と呼ぶ。
日本の省庁は、物事のルールを定め、そのルール通りに社会全体を動かそうとしている。これは畜生界思考による運営であり、この運営方針こそが財政赤字の根本原因である。ちなみに、財政赤字の件で言えば、『財政赤字=悪』と言う認識そのものが畜生界思考である。国家は一般企業とは違う。通貨発行権を持つからである。アメリカのロックフェラーがドルを発行すれば、ドルの収支で言えば発行分のドルはロックフェラーの赤字となる。世界中に流通しているドルは全てロックフェラーの赤字となるのだ。では、ロックフェラーはその赤字を解消しようとするか。いや、むしろ、自身の赤字を増やし、更に多くのドルを発行しようとする。このドルによらなければ世界の商取引そのものができない。これが基軸通貨である。他の通貨は、このドルに対する比率により変動する。すなわち、通貨発行権を持つ国家の基準は、本来の水準よりも発行量が多くなり過ぎればインフレとなり、少なくなり過ぎればデフレとなる。これだけである。世界的なインフレとは、ドルの発行量が多くなりすぎたという意味であり、これはロックフェラーの赤字が多すぎるという意味となる。
名目は何であれ、発行量を多くしさえすれば景気は良くなるのだ。例えば、中国は不動産投資をして景気を加速させた。ロシアは戦争をして景気を加速させた。このように景気は通貨発行量を増やせば加速する。しかし、あまりにも多すぎる投資は後々にそのつけを払わなくてはならなくなる。中国やロシアがどのような結果となるのかは、わたしが説明する必要などないであろう。
さて、通貨発行権の事は考えなかったとしても、通貨に関して言えば、必ずプラスマイナスゼロとなる。つまり、日本政府の赤字は誰かの黒字となっているはずである。では、日本政府の赤字は、誰の黒字となっているのか。日本国民の黒字となっている。要するに、日本国民の貯蓄分が、政府の赤字となっているのだ。昔は国鉄などがこの大量の赤字を引き受けていた。国鉄が赤字だった分だけ、国民の貯蓄となり政府のプラス収支となっていたのだ。その国鉄が民営化され、膨大な赤字が解消された。このようになると、当然、国民の貯蓄分の黒字は、誰かの赤字となるしかない。これが財政赤字の正体ではないのか。
さて、ここで日本国民の気質が関係してくる。餓鬼界や畜生界の常識を持つ者たちは、自分たちの利益が上がると知ると、借金してもその利益を得たいと考える。すると、この借金分は、政府の黒字となる。しかし、日本は人界思考である。極端な利益など欲しがらないのだ。このため、投資をするにしても、自分の貯蓄分の中から、一部を投資に使うだけである。つまり、投資に使った分だけは貯蓄は減るが、それでも無理に借金してまで投資はしない。つまり、政府の赤字は余り減らない。
さて、経済の大きさは、プラスマイナスの振幅の大きさと言うことになる。誰かの赤字分が大きくなれば、経済は活性化するのだ。アメリカならば通貨発行権を持つロックフェラーがその膨大な赤字を抱えている。市中で流通するドル分がロックフェラーの赤字となっているのだが、この膨大な赤字を抱えているロックフェラーが破産するであろうか。
日本では、この発行権を持つのは政府機関の一つである日本銀行である。日本の財政赤字は、その赤字分だけ日本円が市中に流通しているともいえる。簡単な話だ。日本銀行を含めた賃借対照表を作ってみれば一目瞭然となるはずである。貸方、つまり赤字で記す方が日本銀行。借方、つまり黒字で記す方が日本政府。これが、円の発行段階である。そして、これがこのまま、日本銀行の貸付資産となり、日本政府の借り受け負債ともなる。日本銀行に於いてもプラスマイナスゼロ、日本政府においてもプラスマイナスゼロ、この借り受け負債が政府の赤字だと言って大騒ぎしているだけである。当然、この程度であれば、誰でも簡単にわかる事である。
では、なぜ大騒ぎするのか。これは日本円が強くなり過ぎたから、ディープステイトがこれを抑えようとしたからであろう。基軸通貨がドルではなくなってしまうのだ。基軸通貨がドルでなくなれば、ディープステイトの支配力が無くなってしまう。つまり、何らかの名目を使って、日本円の振幅、つまり流通量を減らさなくてはならない。だから、財政赤字解消、黒字化などという変な政策を行う事がアメリカの支配者から命じられた。この支配者の命令に『ご無理ごもっとも』と従っているのが財務官僚たちであり、なぜ彼らがディープステイトに負けるのかと言えば、財務官僚が畜生界思考、これに対してディープステイトが修羅界思考だからである。このように、上位の常識を持つ者には、下位の常識を持つ者はさからえなくなる。
他の国々の現状
ヨーロッパ各国や中国、ロシア、またイスラム社会の現状を事細かく記してもよいが、このような国々は、畜生界や餓鬼界を常識としている。皆、何かおかしいと感じ、人類の進むべき道を模索してはいる。しかし、餓鬼界の常識を持つ者たちは餓鬼界の常識の範囲内でしか考えない。畜生界の常識を持つ者たちは畜生界の常識の範囲内で何とかしようと模索しているのだ。
ヨーロッパ諸国は畜生界に留まっている。なぜ留まるのか。これは、西洋哲学が三悪道、すなわち地獄界・餓鬼界・畜生界の範囲に留まるからである。三悪道に於いては、人と人の間に優劣をつける。そして、何を優とし、何を劣とするのかを学問とし、それを探求する。このように、人と人との間に優劣をつけるという事自体が三悪道であり、すべての犯罪はこの三悪道思考により生まれる。自分たちの思考常識が犯罪と呼ばれるものとしかならないので、『人は本質的に悪である』と言う性悪説となる。その悪を規制しないと社会が保てなくなるので、法を定め罰則を定め行動を規制するしかなくなる。この基準をどのようにすべきかを学問と称して教え、そして、学んでいるのだ。
この基準で考える限り、人の常識は三悪道としかならない。西洋哲学はこの範囲に留まる。儒教などの中国思想も、この範囲に留まる。この西洋哲学から生じるのが、唯物論であり唯心論である。この唯物論から理系と呼ばれる学問形態ができ、唯心論から文系と呼ばれる学問形態が出来ている。そして、『何々大学卒業だから、その人は賢い』などという。人と人の間に優劣をつけ、その優劣をつける基準を学問としているのだ。しかし、人と人との間に優劣をつけるという事自体が、三悪道であり、すべての犯罪の根源なのだ。
『勝者は敗者を殺し、そのすべてを奪う権利がある』と考えるならば、これは地獄界の思考である。『優なる者は、劣なる者に何でも命じる事が出来る』と考えるならば、これは餓鬼界思考である。『優劣は法によって定まり、人は法に依って定められた優劣を守らなくてはならない』と考えるならば、これは畜生界思考である。
ディープステイトや日本以外は、ここまでしか知らない。大抵は餓鬼界思考、すなわち正しいのは誰かと争うか、あるいは畜生界思考、すなわち法治主義こそが正しいとし、その基準を何に求めるのかと争っているのだ。この範囲に留まる限り、戦争も犯罪もなくならない。思考がこの範囲に留まるから戦争ともなり、犯罪も多発し、極端な貧富の差も生まれる。
これからの世界を導く
今、日本の政治家たちは、『日本を前にすすめる』『改革する』とか『日本本来のものを守る』とか言っている。では、その進める『前』とは、どういう方向なのか。では、その改革が改悪とならない保証はどこにあるのか。では、日本本来のものとはどういうものなのか。すべてがイメージだけで、『自分を良く見せたい』だけではないのか。
『前に進む』と語るのは良いが、その前とはどう言う方向なのか。わたしは、本来ならば『ヨハネの黙示録を守れ。ヨハネの黙示録を守って火と硫黄の燃える裁きの地獄に至れ。』と言いたい。これが菩薩界への道だからである。しかし、人々は永遠の裁きの地獄を恐れる。その地獄に入れと言っても、ほとんどの者が嫌がることも知っている。つまり、菩薩界への導きには無理がある。
ならば、次は縁覚と言いたいが、これは『すべての根源である無に至れ』と言う言葉となる。これも難しい。
では、声聞界はどうか。これは意外と簡単で、『人の常識は六道を巡る』と知るだけでよい。人には、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の六種の常識があるということが分かれば、その人は声聞界に至れるのだ。ただ、今日の西洋社会や中国社会など三悪道しか知らない者たちには、これは無理である。
人界、天界の常識を実際に知る者であれば六道が分かる。しかし、今の西洋哲学程度の下級学問では、人界となるともう理解不能となる。今日の西洋哲学の第一人者とされている者に、ボン大学のガブリエル教授と言う者がいる。彼には日本社会が理解できなかったのだ。彼の常識では『日本は抑圧された強制社会』となる。しかし、日本人は強制されているとは思っていない。常識として自然にルールをつくり、それを守っているだけである。世界的な西洋哲学の権威ですら日本社会の意味が分からないのだ。つまり、人界の意味が分からない、天界の意味も分からない。その意味が分からない常識が、人の思考が巡る範囲であると言われても、分からないままとなる。
つまり、日本を前にすすめるとは、日本人を声聞界に導くという意味となるのだが、おそらく、このように語る者には、この意味は分かっていないであろう。単なる、おバカである可能性が非常に高い。
改革と語る者たちもいるであろう。これは主に、派閥主義であった自民党を何とかしようという話のようである。では、どのように変えようというのか。所詮、ルールと罰則により変えようという話にしかならないのではないのか。変革しようとして、ルールを変え、罰則も設定する。しかし、これは、畜生界思考による変革である。この方法でいくら変えても腐ったものは腐ったままである。この変革が新たな問題を生み出すのだ。畜生界思考そのものが犯罪者の考え方である。このため、このような変革を叫ぶ者たちが、次の犯罪組織を創り出す。
さて、なぜ自民党は派閥政治となったのか。『日本国憲法を中心とした法治主義を守れ』などと言っているからである。この考え方そのものが畜生界思考である。人は誰でも畜生界思考に取りつかれると利己主義となる。すなわち、法や制度を利用して、それを自分の利益に結び付けようと考えるようになるのだ。つまり、法治主義などと言っていれば、必然的にほとんどの政治家が自己利益に走るようになっていく。この良い例が、環境問題、環境問題と騒ぐ国際社会の現状である。環境問題を利用して自己利益を上げようとする輩ばかりではないか。日本の政治家も同じである。『何が自分の利益に結び付くのか』と考えるのだ。そして、自己利益に結び付く法案を通そうとする。逆に自分が不利となるならば、その法案を潰そうと画策する。このように基本は自己利益でしかなくなる。上から下まですべてがこのように考える社会ならば、これは当たり前であり問題にすらならない。
ところが日本は人界社会である。このため、自己利益を前面に出すと、世の反発を受けるようになる。この結果、選挙に通らなくなる。つまり、自己利益のためにいろいろなことをしているのに、自己利益を叶えるための資格を失ってしまうのだ。この自己利益を叶えたいという希望と、議員資格を失いたくないという両方の希望をかなえためには、強い組織に入り、その組織に守ってもらうしかなくなる。この組織こそが派閥と呼ばれるものである。
つまり、派閥とは、人界思考の庶民の眼をごまかすための、畜生界思考により生じた犯罪組織と言える。つまり、野党も官僚も同じようなことをやっている。国会も、行政府も、司法界も同じである。皆、内部で派閥を創っているはずである。その派閥に属さないと出世街道から外れるという派閥が出来上がっているはずである。この根本は畜生界思考、すなわち、法治主義にある。人界思考が根本の国で、法治主義こそが正しいとすれば、その法治主義そのものが犯罪の源となるのだ。
ただ、これは、畜生界、餓鬼界の国では、当たり前であり、日本の庶民感覚の方が理解できないものとなる。アグネスチャンと言う中国人の女がいる。彼女は、日本ユニセフ協会などといういかにも国際福祉組織のような組織をつくり巨万の富を得ているのだが、中国の法も、日本の法も破っているわけではない。『法は守っているのだから、何も悪くない』と考える。しかし、日本人から見ると、『いかにも国際組織、難民救済組織のような名前の組織をつくって、それを自己利益に結びつけるのはけしからん』となる。これが、中国人と日本人の差なのだ。中国人は畜生界思考をする。つまり、『法は自己利益のために利用するためのものであり、その法により自己利益を上げる者は賢く優秀な者である』と考えるのだ。これに対して、日本人は『法は社会を円滑にするためのガイドライン』と考える。根本に『社会自体を良くすること』があり、法はそのためのわき役なのだ。だから、『けしからん』となるのだ。
畜生界思考では、アグネスチャンは当たり前であり、優秀な者と言うことになる。このアグネスチャンのような考え方をしているのが、日本の政治家や官僚なのだ。ところが、日本の庶民感情では『これは許されない』となる。だから、隠れ蓑が必要となる。この隠れ蓑が派閥の役割と言える。
アグネスチャンの行動は諸外国では問題とならない。そして、日本の官僚や議員たちも、それでよいと考える。しかし、日本人から見ればこれは間違いとなるので、内心ではアグネスチャンのように考えていても、それを見せないようにしなくてはならない。この根本には、畜生界の常識と、人界の常識という違いがあるということである。
『改革』と語るならば、政治家は自分の常識を人界に沿わせるのか、それとも日本の常識は誤りであり諸外国や中国のような常識にしていかなくてはならないと語るのかの選択となる。おそらく、改革などと語る者たちには、このどちらの選択もできない。派閥を悪として、その派閥の悪を追求する自分を善であると認識させようするのではなかろうか。これはアグネスチャンと同じで、現状を自分の利益に結び付けることこそ善という思考であり、畜生界思考のままである。これゆえ、このような改革は無意味であり、結局元の木阿弥となると語るのだ。
『本来の日本に戻れ』と言う主張は、この中では比較的まともである。ただ、その本来の日本とはいったい何なのか。
日本国憲法などと言う法がある。この法を中心とした法治主義こそが日本の正義などと語るならば、日本は法治主義となり、これは畜生界思考を常識とする社会と言う意味になる。この日本国憲法を大日本帝国憲法としても、やはり法治主義であり畜生界思考を常識とする社会となる。つまり、明治維新以降の日本は、本来の日本を忘れて西洋かぶれした状態である。事実、日本は明治以降、戦争の連続であり、亡国の憂き目までみている。
では明治以前の江戸時代はどうだったのか。確かに、江戸時代には士農工商と言う身分があった。士農工商とは言っても、実際は支配階級である武士と、庶民の二つの身分の違いであった。
世界各国の身分では、上の身分になればより自由が与えられる。例えば、朝鮮半島では上の身分となれば、下の身分の者の者からは略奪しようが、殺そうが何でも自由であった。下の身分の者は、よいものをつくれば上の者に略奪されてしまうのだ。このため、下の身分の者は上の身分の者が欲しがらないものを開発するしかない。この良い例がトンスルと呼ばれるうんこ酒である。上の身分の者は、さすがにうんこ酒を『寄こせ』ととり上げる事はしない。普通の酒ならば取り上げられてしまう。それを嫌がり上の者に逆らうと、拷問され、下手をすると殺されてしまうのだ。
昔、日本の大学で教授??となっている朝鮮人の女がいた。彼女は、『自分は両班だ』と胸を張って語っていたのだが、両班とは下の身分の者を虐げ奴隷の如く扱ってきた者と言う意味である。日本人の感覚からすれば、『わたしは犯罪を犯罪とも思わない家の出です』と言っているのと同じである。なぜ、これを恥じないのかと言う話となるのだが、朝鮮人にとって、下の身分の者を虐げ、彼らから全てを奪い、挙句の果てに虐殺してきたことは誇りとなっているようである。これほど極端ではないにせよ、この朝鮮半島の身分差が、世界標準であろう。これが餓鬼界思考の常識である。
では、江戸時代の日本の身分はどうだったのか。武士には、自分の命で責任を果たす事が定められた。失敗しても切腹、汚職をしても切腹、下のものたちが悪事を働いても切腹である。朝鮮半島の両班のようなことをすれば、一族郎党、打ち首獄門となってしまう。これに対して庶民にはおおらかな許しが与えられた。
さて、この状況を大多数である庶民の側から見てみよう。庶民からすれば何かにつけて自分の命で責任を取らなくてはならない武士にはなりたくないという思考となる。庶民が庶民であることに満足し、武士は武士である事に誇りを持つ世界が出来上がった。これが、300年近く戦争がなく平和が続いた理由である。
この状況に於いては、どの身分の者も自分に満足する形となる。世間的には身分の差はあっても、心情に於いては平等なのだ。この心情に於いて平等という形が人界の常識である。要するに、徳川幕府は人界を常識とする社会を創ることを目的として制度を設けた。これが実際に機能し、日本は人界社会となったというわけである。
これに異を唱えた代表格が福沢諭吉である。『庶民が庶民であることに満足するのはおかしい』としたのだ。そして、『学問により優劣を設ける畜生界思考こそが正しい』としたわけである。要するに人界よりも畜生界を正しいとし、人々はそれに感化されて、人界を捨てて畜生界に移行したというわけである。
人界思考はいきなり畜生界に堕ちるわけではない。人界思考は、まず修羅界に移行する。『奮闘努力こそが重要』と言う思考が修羅界である。その後、法を守れば何をしてもよいという畜生界に移行する。この移行は更に進むと、『人には重要な人と不要な人がある』という餓鬼界に移行していく。さらに、『相手は許せない。自分たちが死んだとしても相手を殺さなくてはならない』と言う地獄界思考にまで堕ちていってしまうのだ。明治以降の政策を見ると、日露戦争は修羅界思考により戦っている。そして、法のもとでの平等と言う法治主義に移行していっている。さらに、庶民の間には『末は博士か大臣か』という優民思考が生まれてきている。これは餓鬼界思考である。そして、最後は『鬼畜米英』という地獄界思考に至り、亡国の憂き目まで見ている。この根本はどこにあるのかと検証すれば、福沢諭吉と、朝日新聞などのマスコミにあることが分かる。要するに、福沢諭吉は日本を亡国に導いた立役者であり、朝日新聞はその思想こそが正しいと人々を扇動した張本人と言える。
その張本人の片方を一万円札の肖像画に選び、もう片方も、重要だからと消費税の軽減税率の対象にする。『あんたら、いったい何やってんの』『無知にもほどがある』となる。
日本は人界を常識としたゆえ、300年近く争いが全く起きない社会となった。しかし、この位置が人界であったため、六道輪廻してしまい、亡国の憂き目まで見たということである。
では、もう少しさかのぼってみよう。憲法と呼ばれるものに、聖徳太子の十七条の憲法がある。この十七条の憲法が指し示しているのも人界思考である。これは一体何を意味するのか。実は、これが示しているのは、『日本は人界となったり、三悪道となったりを繰り返している』という一つの事実である。
わたしは、明治以降を悪者のような言い方をしているが、実は明治以降の姿も歴史的に日本が繰り返しできた姿の一つと言う事を示している。人界の平坦な道を歩んできたわけではないのだ。
『日本の本来の姿とは何か』日本は人界と三悪道を行き来しているというのが本来の姿である。近年で言えば江戸時代が人界、明治維新以降が三悪道ということになる。これに対して、諸外国は地獄界・餓鬼界・畜生界の間をさまよっている。これらの中で比較的まともなのが畜生界だったのだ。だから、今、法治主義により世界を安定化させるという畜生界思考による考え方が正しいとされているのである。
日本にも大馬鹿どもがいる。彼らは『十七条の憲法は、法ではないので用いるに値しない』などと語る。確かに、畜生界思考による法ではない。しかし、法と言う言葉を使うならば、『強者は弱者を殺し、そのすべてを奪える』と言う地獄界の定めも法である。『王は全てを定め、庶民は王に無条件で従わなくてはならない』という餓鬼界の定めも法である。このような者たちに、法治主義の絶対性を納得させられるのか。いくら語っても、地獄界の衆生の前では簡単に殺されて終わる。餓鬼界の王の前では、『では、わたしよりも力ある者であると証明して見せよ』と言われ、首を刎ねられて終わりである。大馬鹿どもの語る法治主義とは、畜生界思考そのものであり、もし、十七条の憲法は日本国憲法よりも劣ると語るならば、畜生界は人界に勝るという証明をしなくてはならなくなる。
結局、本来の日本とは、人界・天界と三悪道の間を往復してきた日本の歴史そのものである。確かにその間に、儀式的な神社参拝と言うものもある。また、天皇家と言う存在もある。しかし、儀式や儀礼は時と共に移り変わるものであり、とどまっているものではない。留まらないものであれば、それを守ったからと言って本来の日本を守ったことにはならない。
絶対的な日本の姿とは、地獄界から天界までの六道の間を動いてきたという姿である。時と共に移り行くが、日本は六道全てを移動してきたという一つの事実である。世界中の見渡しても、六道全てを動くのは日本だけであり、大抵は三悪道の内に留まる。三悪道以外を知らないのが諸外国であり、六道を知るのが日本なのだ。
わたしが貴殿にこの書を記す理由
さて、今までの世界はディープステイトが支配し、各国は彼らの命令を忠実に果たせばよかった。日本も同じである。彼らが定めた通り動けばよかったのだ。しかし、今、何をなすべきかを定めているのはわたしヤハウェであり、彼らではない。彼らがわたしの軍門に下ったからである。
ここに記しているのは、今後、世界が動くべき方向性である。わたしは、まず世界を声聞界に導きたいのだ。声聞界とは、世の人の常識は六道の内を動くと認識する位置である。『人には六種の常識があり、時と場合により人の常識は、この六道のいずれかであり、その時の常識から物事を判断する』と認識する位置である。
日本の例のごとく、六道の内にあれば、ある時には人界に至り、無戦争、無犯罪の状況をつくり上げることもできる。しかし、すぐに三悪道を常識とするようになり戦争や犯罪ばかりを行う社会ともなる。あきれたことに、平然と、『人界は遅れている。三悪道こそが文明だ』などと語るおバカ社会ともなってしまうのだ。
これが六道輪廻と呼ばれる現象であり、常識を六道の内にとどめる限り、このようになるのは致し方ないのだ。この六道輪廻から脱却する為には、この六道輪廻する社会を上から眺める位置に至るのが最も手っ取り早い。この位置が声聞界と言うわけである。
声聞界に人類を導くためには、まず、六道、すなわち、人の常識には大きく六種あるということを知らなくてはならない。ところが、世界各国の現状はと言うと、地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道しか知らない。朝鮮半島やロシアなどは地獄界と餓鬼界しか知らないのだ。中国も、歴史的には庶民は畜生界を知っているはずなのだが、指導部が餓鬼界に誘導するから、簡単に餓鬼界となる。このため、彼らは餓鬼界の常識により物事を判断する。つまり、『餓鬼界こそが正しく、畜生界は誤りである』として、戦争を吹っ掛けるわけである。
欧米は『多少まし』と言えるが、それでも畜生界止まり、やはり三悪道の内であり、『目くそ鼻くそ』程度の差しかないのだ。
彼らを声聞に導くためには、修羅界・人界・天界と言う、彼らの認識できない常識がある事をまず教えなくてはならない。このために聖書はあるのだが、彼らには難しすぎたようだ。ただ、西洋哲学には修羅界を認識できそうな兆しはある。それでも、人界・天界という今まで考えもしなかった常識が現実に存在するということを認識させなくてはならないのだ。
実際問題、これが可能なのは日本のみである。今、世界的に日本ブームとなっている。誰が、この日本ブームを作っているのかと言えば、ディープステイトである。要するに、少し前、共産主義に全世界が傾倒していったように、今度は日本に傾倒する流れとなっている。
わたしが行うのは、これらの論理を彼らに示すのみ。彼らはわたしの示した論理通りに実際に行動する。つまり、何を行うのかまでは指示しないし、わたし自身聞く気もない。
では、何が問題となるのか。ディープステイト自体が、修羅界までしか知らない。実感としてわからないことが問題となる。人界・天界という考え方・常識がある事はわかる。しかし、それは彼らが知らない異質なものとなるのだ。
この異質なものを現実とするのが日本の役割である。日本庶民は、当たり前のように人界思考で動いている。しかし、日本の政府機構はどうか。未だに、畜生界思考のままである。この遅れている政府機構を、庶民感覚にまで引き上げなくてはならないのだ。
安倍首相は、日本が独自文化を持つということを世界に発信した。ところが、日本の独自文化とは何なのかまではつかんでいなかった。彼以降、日本には、首相は不在だった。そこに貴殿が現れたというわけである。
『日本の首相がどうしても必要なのか』と聞かれれば、『いや別に必要ない』と答えるしかないが、それでも、人類史と言う観点から見ると、アメリカ大統領よりもはるかに重要と言える。
日本の首相に求められるのは、世界の現状に日本を合わせる者ではない。日本の庶民感覚に日本政府を合わせる者であり、日本の庶民感覚を世界に発信する者なのだ。貴殿にはこれができるとわたしは見ている。
以上全文
JHVH
追加
ここからはJHVHではなく、一人の日本人として記します。一日本人として、実際の政策を提案いたします。
世界の政策は、『人々が奪い合う』ことを前提とした政策です。しかし、日本では、危機に陥ると『分け合う』のであり、奪い合ったりしません。つまり、奪い合う事を前提とした政策を日本で行うのはおかしいと思います。
では、『分け合う』ことを前提とした政策とはどのようなものでしょうか。例えば、生活保障費を、全国民に均一に配布したらどうでしょうか。例えば、生まれたばかりの赤ん坊にも、年寄りにも一人年間100万円ずつ配布すれば、子供が多くなれば収入は自然と増えます。少子化対策になります。生活保障費もいりません。この財源はどうするのか。収入の多いものから税金として徴収すれば良い。当然、この一人100万円の収入はその人の所得となります。この分配分も課税対象とし総合課税し、全体で調整していけばよい。この名目は、『何が社会のためになるのかを皆さまで考えて、このお金は社会のためにお使いください』とでもしておけば、更に日本人の特質から分配するようになると考えられます。
このようにすると、幼児を集めて施設をつくれば儲かるとか、老人施設をつくれば儲かるとか考える者もいるでしょう。そこで、このような考え方ができないような政策も必要となります。
江戸時代、支配階級である武士には厳しい法が設定されました。この法が厳しいので、誰も支配階級を目指さなくなり、平和な世界となったのです。この江戸時代の政策を応用して、収入や身分による罰則の重加算化を行ったらどうでしょうか。
例えば、年収500万円以下の者が、何か罪となるようなことを行った場合は現行の半分の罰則が適用されます。これが、年収1000万円となると罰則は現行と同じとなり、年収1億となると2倍に加算されるなどとするのです。年収10億となれば罰則は十倍となり、10億を超えると罰則は百倍となるなどとすればよい。要するに、懲役となるような悪事を働けば、10億越えの大金持ちは一生牢屋から出られなくなるのです。
政府の役人や国会議員なども罰則は五倍などとしておけば、かなりきつくなるはずです。刑期が思い切り伸びるのですから、これを利用して我欲を満たす事は難しくなるのです。
例えば、幼児を集めて施設をつくれば儲かる、老人施設をつくれば儲かるという考え方は詐欺罪に相当するのではないでしょうか。詐欺罪には年収制限は適用されず、詐欺によって得た金額がそのまま罰則金として計算されるなどとしておけば、それによって金品を集めた場合、一千万を超えれば全額返金の義務が生じ、一億を超えると儲けた金額の二倍を政府に返納しなくてはならなくなる。こうなると、かなり難しくなるはずです。
この罰則の運用は、厳格ではなく許しを基本とするのも、江戸時代の政策を踏襲すればよいと思います。大岡裁きを奨励するのです。
要するに、金持ちや支配者には切腹を定めるというわけです。
これは、わたしの個人的な思索であり、参考になればと考え、追記いたしました。