無間地獄と火と硫黄の燃える地獄

 

 

  仏教には無間地獄と言う話が出てくる。そして、聖書には火と硫黄の燃える裁きの地獄と言う話が出てくる。では、これらは実在するのだろうか。実在すると言えば実在し、実在しないと言えば実在しない。この無間地獄、火と硫黄の燃える裁きの地獄自体の存在も『空』なのだ。

  まず、仏教の話をしよう。釈迦如来は『なぜ無間地獄と言う話をし、阿弥陀如来と言う如来の話をしたのか』という経緯を涅槃経で語っている。ただ、その意味は涅槃経の翻訳者にはわからなかったようで、漢文の涅槃経では内容がぐちゃぐちゃになっているようである。【人が菩薩となるためには、現世利益ばかりではなく来世利益を求める心も捨てなくてはならない。このために必要なのは、永遠の裁きの地獄であり、人はそこに入る事により菩薩に至る事ができる。このために無間地獄と言う話をしたのだ。では、この無間地獄、永遠の裁きの地獄に人は耐えられるのかと言えば、ほとんどの者は耐えられない。耐えられない者たちを強引に無間地獄に堕すのもおかしな話であると思案していたところ、阿弥陀如来が現れ、わたしがその者たちを引き受けようと語ったのだ。だから、わたしは阿弥陀如来にこのような者たちを託したのだ。】まぁ、要約すればこのような話なのだが、『来世利益は、捨てればそれを得、捨てなければそれは得られない。無間地獄を受ける者はそれを捨て、それを得る。これを知るのは知恵による』などと書かれているから、この『それ』『これ』とは一体何なのかと思案することになる。『空』を知れば、矛盾などどこにもないのだが、『空』を知らないと意味不明の言葉の羅列のようになるのだ。わたしは阿弥陀如来とは会ったことがない。わたしは、釈迦如来とは違い、『逃げ場をふさいで強引にでも叩き込んでしまえ』とするからである。確かに、少しかわいそうだと思わないわけではないが、結果が決まっているのだから躊躇する必要などない。

 

  さて、火と硫黄の燃える永遠の裁きの地獄の話をしよう。もし、このようなものがあるのならば、十界は十一界となる。しかし、十界は十界でしかない。では、火と硫黄の燃える永遠の裁きの地獄などと言うものはないのかと言えば、これも実在する。無いのだがあるのであり、あるのだがないのだ。

  昔、スウェデングボルグという霊界を覗きに来た者の話を聞いたことがある。彼の話が霊界の真相なのだ。人は死後、霊界に至ると、霊界の地の中を自由に移動できる。霊界は九層に分かれ、この九層が十界の仏界以外に対応しているのだ。十界論は、この霊界の姿を写し取ったものであり、霊界そのものを人々に紹介するものでもある。霊界の地はこのように九層にわかれ、頭上には大きな霊界の太陽が輝いている。仏界とはこの霊界の太陽のことである。さて、霊界に至った者は、基本的に上の層を求めるのだが、自分の状態よりも上の層に入ると、まぶしすぎて焼かれるように苦しくなる。苦しくなるので、彼は『これは自分にはふさわしくない』となり、段々と下に降りていく。ただ、下に降りすぎると暗闇のようになっていき、『ここも自分にふさわしくない』となる。この結果、自分にふさわしい場所を自分で見つけ、そこを霊界の住処とするのだ。わかると思うが、この霊界の地には裁きの地獄などと言うものは存在しない。

 

  さて、問題は霊界の天、霊界の太陽である。ここは仏界に対応しており、ここが究極の天国とも呼ばれる。霊界の地からは霊界の太陽に入る事ができるが、霊界の太陽から霊界の地に堕ちる事はない。言葉をかえれば、霊界の太陽から霊界の地には降りられないのだ。つまり、一度霊界の太陽の中に入ってしまえば、霊界の地に堕ちる事はないので、ここは永遠の天国とも呼ばれる。これは霊界の太陽にふさわしい者ならば永遠の天国になるという意味である。では、霊界の太陽にふさわしくない者がこの霊界の太陽に入ってしまったらどうなるのか。霊界の地では、まぶしすぎて焼かれるように苦しくなれば、そこから逃げ出せばよい。ところが、霊界の太陽に入ってしまうと、霊界の地には降りられない。太陽に焼かれ続けるが逃げ出せないという状態が永遠に続くこととなる。相応しい者ならば永遠の天国となるのだが、相応しくない者にとっては、霊界の太陽が火と硫黄の燃える永遠の地獄となる。

 

  さて、ここで現世の話もしよう。人は死ねば現世に戻ることはできない。死者の行く先は霊界の地である。この霊界の地から霊界の太陽に入ることはできるのだが、一度入ってしまうとそこから霊界の地へは戻れない。では霊界の太陽から至れる場所はないのかと言えば、実は現世に至れるのだ。つまり、現世から霊界の地へ、霊界の地から霊界の太陽へ、霊界の太陽から現世へと一方通行でつながっているのだ。この循環を転生と呼ぶ。つまり、霊界の地に於いて、人として再び生まれることを望む者には、転生の入り口とて火と硫黄の燃える地獄が開かれる。そこから霊界の太陽を経由して現世に再び生まれることも可能なのだ。

 

  人が裁きの地獄を恐れるのは、実はこの経緯を実際に経験しているからであろう。霊界の天にふさわしくない者が、人として転生するためには、彼にとっての永遠の裁きの地獄を実体験してきたことを意味する。魂にその記憶が焼き付けられるのだ。だから、もう二度と、あのような裁きの地獄は味わいたくないとなり、死を恐れ、裁きの地獄を恐れるのであろう。

 

  わたしは、幼少のころ、祖母から無間地獄の話を聞いた覚えがある。そして、地獄絵図と言うものを見せられたのだが、恐ろしいとは思わなかった。遊園地のようで楽しそうだと感じたのだ。そこで、祖母に『ここに行きたい』と語って、こっぴどく叱られた思い出がある。祖母が語ることには、天国にいれば仏様の説法が聞けるという。わたしは、祖母の説教を受け、『こんな説教を受け続ける天国には行きたくない』と思ったのだが、それは黙っていた。また、説教されるからである。わたしは、無間地獄、裁きの地獄を怖がらないと怒られるから怖いのであり、無間地獄・裁きの地獄が怖いということが分からなったのだ。

 

  わたしはスウェデングボルグの書いたものを読んだわけではない。ただ、それを解説しているものをネットで見ただけである。ただ、彼は天国と地獄が争っているとか言っているようだが、わたしはこのような争いを見たことはない。これはおそらく、霊界の太陽が天国なのか地獄なのかという論争が起きているという意味であろう。この視点は、霊界の地の住人の視点である。彼らの眼には、別々であるはずのものが一つしかないことが不思議であり、『いったい真実はどちらなのか』という論争は自然に起きる。この論争を戦いと表現していると思われる。

 

  わたしは実際に、霊界の地へも、霊界の太陽にも何回も行っている。ここに書いている事は、わたしの実体験に基づくものであり、スウェデングボルグの書籍からヒントを得たものではない。わたしは先に自分自身で体験し、のちにスウェデングボルグを知ったのだ。彼の言っている事がわたしの実体験と一致するから、『あなた方はこれをスウェデングボルグから聞いて知っているだろ』と語っているのだ。

 

  究極の天国も、火と硫黄の燃える地獄も、その正体は霊界の太陽という同じ場所なのだ。そして、何が、天国と地獄を分けるのかと言えば、それはあなた自身なのだ。あなた自身がそこにふさわしければ、そこは永遠の天国なる。しかし、あなた自身がそこにふさわしくならなければ、そこは永遠の裁きの地獄となる。輪廻転生は実際あり、人が輪廻転生をするためには、必ず霊界の太陽を経由しなくてはならない。霊界の太陽から現世に至る段階で記憶の消去が行われるのだが、すべてが完全に消去されるわけではない。人によって、必要な情報が残されるのだ。霊界の太陽の記憶は一応消去されるはずだが、おそらく、その恐怖が魂に刻みつけられている。おそらく、これが人が裁きの地獄を恐れる理由であろう。