仏法の四原則

 

  人々は、釈迦如来の妙法蓮華経とは、妙法蓮華経と言う名の原典が存在し、その原典を羅什三蔵が翻訳したものであると考える。しかし、もし、彼が翻訳する前の原典の妙法蓮華経をご覧になられた方がいたならば、原典と羅什三蔵の翻訳したものはかなり異なっている。なぜならば、羅什三蔵は言葉を訳したわけではなく、意味を訳したからである。

  その羅什三蔵が訳したものを天台が解説し魔訶止観として世に残した。また、さらに世の学者たちにより日本語に訳されたものが妙法蓮華経として数多く世に出ている。では、魔訶止観は法華経なのか。その翻訳は妙法蓮華経なのか。わたしは魔訶止観を見たことはないので、魔訶止観についての論説は控えよう。しかし、日本語訳の妙法蓮華経は、決して妙法蓮華経ではない。これは、妙法蓮華経の真意を欠いているからである。その真意とは、読む人自身を仏としようとする一念であり、この一念が欠け落ちてしまえば、名は妙法蓮華経であっても、妙法蓮華経とはならない。

 

  このように語ると、『そんなものはお前の勝手な思い込みに過ぎない。妙法蓮華経を訳したものが妙法蓮華経でないのならば、どこにも妙法蓮華経は存在しなくなる』と語る人もいるであろう。真意なんてものではなく、あくまでも経典の語句に従うべきであると言う主張である。果たしてそうであろうか。確かに妙法蓮華経となると、何を言っているのか分からなくなるかもしれない。しかし、意図するものが明確にわかる経典も存在する。例えば、涅槃経には仏教に於いて、守らなくてはならない基本原則が明確に記されている。意図が明確にわかる教えならば、意図に従うのも言葉に従うのも同じとなる。その涅槃経の原則には四種類がある。そして、この四種類の原則を守らないと仏教そのものが歪んでしまうとも記されている。ならば、まず、明確にわかる原則に従うのが当然であろう。

 

 

第一『依法不依人』

 

  この第一が『依法不依人』である。日本語に訳すと『法に依って人に依らざれ』となるのだが、これは『主体は法であり、人ではない』と言う意味である。例えば、ダライラマを仏教の法王と呼ぶ者たちもいる。また、日蓮宗では法主と呼ばれる者もいれば、『日蓮こそ末法の本仏』と語る者たちもいる。わたしから見れば、『何じゃ、それは???』となる。これは、『わたしは妙法蓮華経を知りません』と言う宣言そのもの。

  まず、法王とは人である。人が法よりも上、または、法と同等でなければ法王は存在できない。法王の存在そのものが、法そのものが人よりも上という仏教の原則を否定する意味となる。また、もし、ダライラマが仏法の長であるならば、彼は仏と言うことになる。仏がどうして中国共産党程度のものに負けるのか。幽霊軍団に命じれば、幽霊程度でも簡単に撃退できると思うのだが、なぜ、そうしない。何か特別な理由でもあるのか。

  釈迦の妙法蓮華経では、末法の定義として『無仏』となっている。仏がいるならば末法ではなく、末法であれば仏はいない。末法の本仏などというものがあるはずはないことは一目瞭然である。

  法主とは、法により人々を導く者という意味であろう。仏が語る法を人々に伝える仲介者が存在するという意味である。しかし、法華経では『唯仏与仏』となっている。法華経に於いては、授ける方も仏であり受ける方も仏なのだ。この仏と仏の間に導く者が存在するというのか。しかも、菩薩ですらない者が・・・・仏と仏の仲介などできるはずはなかろう。

 

  法華経は、『教菩薩法』と記されている。『教菩薩法』とは、菩薩に教える説法と言う意味である。ならば、まず菩薩とならなければ法華経の対象者ともならない。菩薩とは無間地獄に入り自我を消失した者(涅槃経)である。人は自我を消失すれば『空』に至る。地湧の菩薩などと自称しても『空』に至っていない者が菩薩のはずはない。もし、釈迦の法華経を知っていればこの程度ならすぐにわかることである・・・・

  もともと、仏教の真意を知らないダライラマならば、まだ、少しは大目に見ても良い。しかし、法華経を主体とする者たちが『法主???』『末法の本仏???』・・・・・お前ら、なぁ・・・あほか、バカか。

 

  世の中には、一神教と呼ばれる宗教がある。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などであるが、その一神教と呼ばれる宗教が唯一絶対神としているのがわたしJHVHである。また、世の中には多神教と呼ばれる宗教も数多く存在する。日本には八百万の神々という考え方もあるが、世の『あほ』どもは、『真の唯一神はどの教えの神なのか』と戦争までする。また、『一神教と多神教のどちらが正しいのか』とも争う。

  法華経が分かれば、同じなのだ。一神教も多神教も、皆、一神教であり多神教でもあるのだ。簡単な話だ。人は聖書を見てJHVHという名の創造主を思い浮かべる。イエス・キリストと言う名の救い主を思い浮かべる。コーランを見て、アッラーと言う名の神を思い浮かべる。思い浮かべるとはどういう事なのか。自らの心の内に創造するということである。つまり、JHVHも、イエス・キリストも、アッラーも被造物でしかない。では、JHVHを創造した創造主は誰なのか。イエス・キリストを創造した創造主は誰なのか。アッラーを創造した創造主は誰なのか。あなた自身であろうが・・・・神羅万象を見て思い浮かべる神々が、八百万の神々である。この神々も当然、あなた自身という創造主の被造物。すべてが、あなたという創造主の被造物でしかないのだ。もっと言えば、あなたが愛する者も、あなたの被造物でしかない。確かに、本人は存在する。もし、あなたの愛する者がその本人ならば、当然、その人があなたのいないところで何をしていたのか知ってはずである。しかし、あなたはその人が目の前にいても、その人が、あなたがいないところで何をしていたのかは知らない。これは何を意味するのか。あなたが愛する人は、その人本人ではないという一つの事実を指し示す。では、あなたがその人だとしているものは、いったい何なのか。あなた自身が創造した被造物のその人なのだ。ここに挙げている聖書・コーラン・実在のその人は、あなたが創造するための縁なのだ。あなたは縁により、自らの内にすべてを創造していると言える。このように、社会も、国も、宇宙も、時間も、空間もすべてが、あなたが縁により創造したもの。あなた自身の被造物なのだ。このように、すべてを自己の内に捉える状態を五陰世間と呼ぶ。すべての物事をこの五陰世間として捉えるならば創造主は誰なのかがすぐにわかる。

 

  人は真実とか事実とか言う言葉を使う。このように五陰世間の話をすれば、これも事実であり真実であるという事がわかる。要するに、一神教を真実とする捉え方もできれば、無神論を真実とする捉え方もでき、また多神教を真実とする捉え方もできるのだ。この捉え方の違いを仏教では三世間と呼ぶ。一神教は五陰世間。無神論は衆生世間。多神教は国土世間と呼ばれる。人は誰でも、ある時は五陰世間の考え方をする。また、ある時は衆生世間の考え方もする。そして、またある時は国土世間の考え方もする。何が正しく何が間違っているのかではなく、単なる考え方、捉え方の違いなのだ。少し話はそれるが、ここで衆生世間と国土世間の話もしておこう。

 

  今、人が現世としているものは衆生世間の捉え方である。この衆生世間の考え方では、実在しないものは存在しないとなる。この衆生世間の捉え方しかできないと無神論となる。神や悪魔も、天国や地獄も、天使や悪魔も、幽霊や魑魅魍魎も何も存在しないのだから、自分のしたいまま行えばよいと考える事となる。このように考える者たちは、この衆生世間の考え方しか知らないともいえる。わたしは、本来、この次の国土世間の存在であるが、衆生世間にも姿を現したものと言うことになる。衆生世間の感覚では、聖書もコーランも仏典もファンタジー世界のものである。つまり、いるはずのない存在が現れたのが、仏陀であり、イエス・キリストであり、ムハンマドであり、わたしなのだ。

  衆生世間の考え方では、聖書やコーランも自らの利とするために自在に使っても何の問題もないものとなる。これが、現在のキリスト教やイスラム教なのだ。彼らは自分の意が先にあり、その自分の意に沿って聖書やコーランを解釈する。なぜなのか。衆生世間の考え方では神は実在しないものであり、実在しないものを使って他の者たちを騙しても悪とはならないという判断となるからである。

  例えば、聖書ではヨハネの黙示録が聖霊として規定されている。福音でイエスに勝る絶対信仰の対象とされているものが聖霊なのだ。では、そのヨハネの黙示録ではどのようになるのか。誰もが『火と硫黄の燃える地獄』を免れなくなるのだ。衆生世間の考え方では聖霊など実在しない。実在しないと考えるから、平然と『信仰により火と硫黄の燃える地獄は免れる』などとできるのだ。大勢の者たちが裁きの地獄を恐れる。この恐れを利用して平然と聖書に逆らい持論を展開する。裁きの地獄を恐れる者たちは、恐ろしい聖書ではなく、この持論を展開する者の言動を正しいと考える。なぜ、このような持論を展開できるのか。衆生世間の考え方をするからである。

  また、コーランでは『ムスリムの任命権はアッラーの神権である』『アッラーの神権を犯す者は永遠の火獄の報いを受ける』と示されている。ところがコーランに逆らう違反者どもは、平然と『自分たちはムスリムである』と語る。なぜ、このように語れるのか。この衆生世間の考え方で物事を観るからである。

 

  国土世間の考え方では、神も天使も悪魔も、天国も裁きの地獄も存在する。現実社会も存在するが、現実社会最大の宇宙ですらも極一部でしかない。目に見えるもの、目に見えないもの、すべてが実在するという捉え方が国土世間の考え方である。人はこの国土世間の考え方を持つから、信仰するし、幽霊や魑魅魍魎も恐れる。この国土世間を束ねる唯一神がJHVHであり、これがわたしである。よく、わたしは『わたしの眷属』『わたしの軍勢』と語るが、軍勢と言ってもわたしが直接指揮をするわけではない。わたしは彼らが動くための原則を示すだけである。私の軍勢はわたしが示す原則に従って自由に動く。私の軍勢は、正式には、今は四軍である。神々の軍勢、悪魔の軍勢、天使の軍勢、そして人の軍勢、この四軍である。神々の軍勢は説明説得を得意とする。悪魔の軍勢は持ち上げて堕す事を得意とする。天使の軍勢は祝福を得意とする。人の軍勢は最近加わった最弱軍である。ディープステイトとも呼ばれ、アメリカ軍もNATO軍もわたしの人軍の配下と言うことになる。

 

  法華経に於いては、このように捉え方にも三種類があるとなる。つまり、ある時は一神教、ある時は無神論、ある時は多神教となるのは人の本来の性質であり、何が正しいのかと争うようなものではないのだ。法華経が分からなければ、一神教が正しいのか、多神教が正しいのかとなり、ではどの教えの神が真の神なのかと争うことになってしまう。この三世間がごちゃまぜとなり、今の仏教、キリスト教、イスラム教が出来ているのだ。法華経を知らない彼らがごちゃまぜにするのはまだ致し方ない。しかし、法華経を知っているはずの者たち、南無妙法蓮華経と唱える者たちまでもが、なぜこの程度の事が分からぬのか。だから、わたしは『無知の極み、挙句の果てとなると、南無妙法蓮華経の法主とか末法の本仏とかいう話とまでなる』と語るのだ。ここまで来ると、『南無妙法蓮華経』と唱えながら『わたしは法華経を知りません』と言っていることとなる。なぜ、このようになっているのか。この程度のこともわからない人を主体とし、この程度の基本的な法をないがしろにしているからである。このようになるので、『依法不依人』と定められている・・・のに・・・『依法不依人』の言葉も知りながら、『法主』『本仏』だ・・・と・・・《絶句》

 

 

第二『依義不依語』

 

  第二が『依義不依語』である。これは言葉ではなく意味に従えと言う意味である。羅什三蔵は、妙法蓮華経の言葉ではなく意味を訳した。これを、『語句を訳していないので間違っている』と語る者たちもいる。つまり、『言葉を訳すのが正しく、意味を訳すのは間違いである』と言っていることとなるが、仏法の大原則には、『意味に従い言葉に従うな』と明記されているではないか!!!お前たちが正しいという証拠はどこにあるというのか!!!

  わたしは、法華経の意味を知ろうとして、当初、妙法蓮華経の日本語訳を見た。しかし、何が何かさっぱりわからなかった。そこで漢文の妙法蓮華経を見た。すると、意味が簡単にわかったのだ。同じ経典なのに、原文はわかり、翻訳は意味不明となるのだ。ここで分かった。『意味が分からない者が、言葉を訳したものは分からないものとなる』のだ。だから『依義不依語なのだ』と実際の経験から理解した。

 

 

第三『依了義経不依不了義経』

 

  第三が、『依了義経不依不了義経』である。仏教には数多くの経典がある。例えば、阿弥陀経には阿弥陀仏の説法が載っている。そして、法華経にも『阿弥陀仏の説法は重要である』と記されている。おバカどもは、この言葉を見て『阿弥陀仏の説法は法華経にも重要と記されているから正しい』などと言い、『南無阿弥陀仏と唱えて極楽浄土を目指すべし』などと論を構える。さて、では、『なぜ阿弥陀仏の説法は重要なのか。その意味はどこにあるのか』が記されているのは涅槃経である。涅槃経には、【無間地獄に至るとは自我から離れるという意味であるが、『さぁ、無間地獄に至れ、裁きの地獄に至れ』と語っても、多くの者たちはこれに耐えられない。だから、阿弥陀仏と言う存在を設定して、阿弥陀仏を念じる者は、極楽浄土に導かれるとしたのだ。よく考えてごらん。無間地獄に堕とされる者を、見捨てる者は悪としかならない。悪となれば無間地獄は必須。結局、誰も無間地獄を免れる事はできなくなる。阿弥陀仏と言う存在が仮ならば、極楽浄土も仮と言うことになる。】このような意味の事が記されている。この意味が記されているのが了義経であり、単に阿弥陀仏の説法の話を載せている経典は不了義経となる。つまり、涅槃経が了義経であり、阿弥陀経は不了義経となる。

  自我からの離脱を行うために何が必要なのかと言えば、『無間地獄、永遠の裁きの地獄』が必須となる。実際に自分自身で無間地獄に入らなければ意味はない。この裁きの地獄を設定しているのは阿弥陀仏の説法となるから、阿弥陀仏の説法は重要となるのだ。これと同じ原理が聖書ではヨハネの黙示録として記されている。この裁きの地獄が福音で言う『塩』である。塩の味は他の何ものに依っても代える事が出来ないのだ。だから、ヨハネの黙示録以降の経典では、コーランでもモルモン経でも、『ヨハネの黙示録こそが重要である』と記されている。

  さて、いくら重要であると記されていても、阿弥陀仏の説法、すなわち無間地獄に至る事により至れる位置は菩薩界までである。では、なぜ人を菩薩界に導こうとするのか。仏界に至るためには、まず、菩薩界に至る必要があるからである。『声聞・縁覚でもよいではないか』と思われる方もいよう。それなのに、どうして強引に菩薩界へと導くのか。実は、菩薩界に導こうとしているのではなく、あくまでも仏界に導こうとしているのだ。これが法華経なのだ。釈迦如来の妙法蓮華経には、このように記されている。『もし、菩薩界や縁覚界、声聞界を人が至れる最高の位置だと教えるならば、自分自身を人が至る事ができない至高の存在として示す事になる。これは不可である』と。つまり、『すべての人を自分の位置まで引き上げたいというのが仏の本心である』と語っているのだ。そして、本心はこのようなものなのだが、実際に他の者を自分の位置に導く方法があるのかと言えば、方法は論理的に存在しない。つまり方法はないのだが仏の本心は、すべての人を仏の位置にまで引き上げたいというものであり、この妙法蓮華経でこの本心を明かす。と語っているのだ。つまり、すべての根源はここにあり、ここからすべての説法も、自分自身の存在も生まれるのだ。

 

  今の時代、多くの者たちが、自分は仏であると語る。仏とは、人が至る事ができる範囲は全て超え、さらに方法はないが仏の位置にまで到達し、他の全ての者たちを仏に導きたいと願う者と言う意味となる。本物かどうかを試すのは簡単である。まず、裁きの地獄に堕としてしまえばよい。裁きの地獄程度であれば菩薩でも恐れはしない。菩薩が平気なものを仏が恐れるはずはない。しかし、偽物なら、大体は、この段階で化けの皮がはがれる。

 

  実際にはどうなるのか。裁きの地獄を創っているのはわたしの眷属たちである。下手に仏と名乗ると、家の連中に裁きの地獄に案内される。私は別に名乗らせておいても構わないとは思うのだが、家の連中は脅しまくるようだ。私は家の連中を止めはしない。真の仏ならば、わたしと同じように自分の眷属たちを連れているはずである。すると、私の眷属とその者の眷属の争いとなる。もし、家の連中が負ける様ならば、その報告は必ずわたしの許に来る。これは、わたしの眷属の内の最弱の者たち、すなわち、幽霊とか魑魅魍魎と呼ばれるもの。まず、彼らがおもちゃの武器を持ち、戦いという名の遊びをしに行くのが最初の段階なのだが、この最弱の者たちが負けるならば、『次にどうしましょう』とか『次はこうします』とか言ってくる。最弱の者たちの遊びの戦いでも、負ける事があればわたしはそれを必ず知る。もし、真の仏であれば、最弱部隊では決して敵わない。

 

  では、実際はどうか。今まで、『限度をわきまえるように』と制限を加えたことはあったが、家の最弱部隊でも一回も負けたことはないのだ。・・たいしたことはない。わたしの眷属の最弱の者たち、あなた方が幽霊とか魑魅魍魎とか呼ぶ者たちが、昼も、夜も、夢の中でも追いかけまわすだけである。例えば、昼間、暗闇からいきなり矢が飛んでくるような感覚に襲われる。何かに打たれたように急に痛みが走るのだ。しかし、そこには傷もなければ何も変化していない。例えば、夜、物陰から幽霊や魑魅魍魎が現れ、誰も周りにいなくなると突然襲われる。しかし、それでもどうもなっていない。例えば、寝ると夢の中で幽霊や魑魅魍魎たちに追いかけまわされる。精々この程度の事である。真剣を持たせるわけではないので、怪我をすることも死ぬこともないのだから平気だと思うのだが、それでも、三日も耐えられないようである。しかし、仏とか神とか名乗る相手には、場合によっては真剣も持たせると聞くので死ぬかもしれないが・・・・

 

 

 

第四『依知不依識』

 

  第四が『依知不依識』である。さて、この言葉は難解である。なぜならば知と識の違いを知らなくては意味が分からなくなるからである。人が知識と呼ぶほとんどのものは『識』である。これは、無から生じた有である。これに対して、『知』とは、空から生じた有となる。根本に『無』があるのか『空』あるのかが、知と識の違いなのだが、この『空』と言う言葉がほとんど説明できない。『空に至れば空はわかり、空に至らなければ空はわからない』のだ。その空から出た有が知である。例えば、釈迦如来の説法は知であるが、余人の説法は識である。しかし、釈迦如来の説法でなくとも知であればその説法に依る事が可能であり、たとえ釈迦如来の説法とされるものであっても、それが識によるものならば、それに依ってはならないということとなる。正典と偽典を分けるものがこの知と識であり、知によるものであればだれの説法であろうとも仏法としても良い。しかし、識によるものであれば、それがたとえ釈迦如来の説法とされていたとしても、それによってはならないという意味となる。

  これは、理屈で語ればこのようになるが、実際問題、それが知に依るものなのか、識によるものなのかの判別は、空に至らなければ不可能となる。例えば、天台は魔訶止観を記した。しかし、わたしが聞くところによると天台自身は空に至っていないと聞く。つまり、魔訶止観は識によるもので知に依るものではないということになる。知によるものではないので、天台の言説は依るべきにあらずと言うことになる。しかし、知に至った者がないので、翻訳者は天台の言説により法華経を解釈するしかなく、分からない者が書き記したものを基準として、さらにわからない者が解説するので、何が何かさっぱりわからないものとなる。これが日本語訳の妙法蓮華経である。

 

  例えば、方便品第二で、『舎利弗よ、わたしが過去に説いたものを正しい教えと考えてはならない。なぜならば、諸法の実相は、相もあり、性質もあり、その体もあり、力もあり、作用もあり、原因ともなり、因縁ともなり、結果ともなり、報いともなり、相から報いまでが本質的に等しいからである』と天台は読んでいる。どうしてこれが、昔説いた教えを正しいとしてはならない理由となるのか。理由を語っているはずなのに、何言っているのか意味が分からない。これを有難がっているのだが、誰か意味が分かるか???

  これは、この解釈そのものが間違っている。なぜならば、続く長行で、【わたしは仏界にあって、あなた方を、声聞界に導きたいわけでもなければ、縁覚界に導きたいわけでもなければ、菩薩界に導きたいわけでもない。わたしはあなた方すべてを仏界に導きたいのだが、諸々の法は、二つの境地の間にあなた方を閉じ込めてしまう。また、法を説くには、導く前の境地と導く先の境地の両方とも俯瞰できなくては、その二つの境地を結ぶ法を語ることはできない。つまり、あなた方を仏界に導く法を示すためには、仏界を俯瞰できる位置に至る必要があるのだが、仏界を俯瞰できる位置がない。だから、あなた方を仏界に導く法を語ることは不可能なのだ。過去の全ての説法は、導く前の境地と導いた先の境地の間で働いてしまい、それらの法によってあなた方を仏界に導くことはできない。つまり、わたしが昔説いた説法をいくら守っても、あなた方を仏界に導くことはできないのだ。だから、昔説いたものは用いるなと語るのだ。】方便品第二、長行、意味。

  このように、明確に説明されている。全体を読めばこのように明確に書かれているのに、一部一部を細切れにして解釈するから、意味不明の言葉の羅列となっている。なぜこのようになるのか。同じ語句を、知によって読むのか、識に依って読むのかによって、これらの違いが生じるのだ。では、どちらにしたがって解釈すべきなのか。これを『依知不依識』の言葉で、知の側に依れとされているのだ。