第14章 奇跡
人は語る。『イエスが死んで生き返ったなどという聖書の話は嘘だ』『法華経の虚空会の儀式などあり得ない』『絵空事に過ぎない聖典など不要である』等々。
なぜ、聖典にはこのような話が記されているのか。このような話は真実なのか、それとも虚偽なのか。真実と言えば真実、虚偽と言えば虚偽。真実でもなければ虚偽でもない。これが『空』である。事実と虚偽を合わせたもの、いや、事実と虚偽の反対側にあるもの。これが『空』である。例えば、イエスの復活。これはあり得ないというのが一般的な思考である。しかし、その証拠は歴然とある。証拠から見るとイエスは復活したとする以外にない。このように、人の考えでは『それはあり得ない』となるのだが、証拠は歴然としており『ある』とするしかないもの。これが『空』である。
人は『これが真実』と語る。例えば『人は死ぬ。これが真実であり真理である』などと語るが、本当に真実なのか。確かに肉体は死ぬ。しかし、本当に肉体の死が人の死なのか。『死ぬともいえるが、死なないともいえる』これが真理ではないのか。
聖典では『空』を奇跡という形で表している。『あり得ない』のだが『ある』のだ。人の実体も同じである。有でもなく無でもない。
確かに、あなた自身は『ある』。これは真実である。しかし、あなたは本当に存在しているのか。存在しているとするならば、あなたは一体どこに『ある』のか。
脳や心臓など、あなたの体中全てをくまなく探しても、あなたはどこにもない。また、あなたの存在のあかしはいったい何なのか。あなた自身、自分の存在のあかしを立てようと頑張っているのかもしれない。しかし、あなたは自分の存在のあかしをどのようにしてたてようというのか。どのように苦しみもがいたとしても、ほとんどの人はそのあかしを立てる事などできない。
このように、どこにあるのかと探しても見つからない。存在のあかしを立てようとしても、そのあかしを立てる事もできない。それでもあなたは『ある』。これが真理であり、これだけが真実なのだ。あなた自身、有でもなく無でもない。有無の外にあると言えばある。これが『空』である。
これを例えるのに、人に分かりやすい例がある。
昨今、コンピューターと呼ばれるものが発達し始めている。コンピーターはハードとソフトにより成り立っている。人の肉体はコンピューターのハードのようなもの。人の命はコンピューターのソフトのようなもの。コンピューターのハードをいくら細かく調べても、そのどこにもソフトは存在しない。ソフトの解析はソフトからしか行えない。CPUを分解し、それを顕微鏡で調べても、どこにもソフトは見つからない。
ソフトは、ハードにインストールされて実際に機能する。条件を満たすハードがあり、そこにソフトが入ることにより、それはコンピューターとして機能する。人も同じである。肉体はハードであり命はソフトなのだ。ソフトはあると言えばある、ないといえばどこにもない。コンピューターはハードだけならばただの箱である。しかし、ハードがなくソフトだけではその存在の証明はできない。しかし、それは『ある』。
そのコンピューターのハードが壊れたならば、そこにインストールされているソフトは消滅するのか。消滅するとも言えるし、消滅しないとも言える。これが『空』である。
では、人は『肉体』というハードの内に、どのようなソフトがインストールされているというのか。このインストールされているソフトが十界なのだ。十種類もあるというべきか、十種類しかないというべきかは別にして、この同じソフトが二重にインストールされている。これを十界互具と呼ぶ。つまり、肉体を動かす基本ソフトは100種類あると言える。
今、わたしが使っているパソコンにはウインドゥズと言う名前のソフトがインストールされている。基本ソフトはこの一種類だけであり、他の基本ソフトを入れるためには、このウインドゥズをアンインストールしなければならないらしい。人間の肉体も同じで、この百種類のソフトをインストール、アンインストールし続けていると言える。このインストール、アンインストールの連続により『忘れる』と言う機能がつけられている。もし、人を動かす基本ソフトが一種類だけならば、『忘れる』事はない。基本ソフト間で記録の受け渡しが行われ、不要なものはコンピューターで言うゴミ箱に移されるのだ。これが『忘れる』という機能と言える。
人は、コンピューターよりもはるかに複雑である。コンピューターは有無の内の『有』と言う環境でしか機能しない。しかし、人は有と言う動作環境でも、無と言う動作環境でも機能する。さらに、有無を超えた『空』と言う動作環境でも機能するのだ。
つまり、人をコンピューターに例えると、『有』と言う動作環境、『無』と言う動作環境、『空』と言う動作環境で動くソフトがインストールされていると言える。これらの内『有』と言う動作環境で動くソフトが地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六種類であり、これが六道である。『無』と言う動作環境で動くソフトが一種類あり、これが縁覚である。この有と無を結ぶソフトも存在しこれが声聞である。これに対して、『空』という動作環境で動くソフトが一種類あり、これがJHVHである。この空と有無を結ぶソフトが菩薩と言うことになる。
さて、最初に『無』とはどのようなものなのか。具体的な例を挙げて説明しよう。達人と呼ばれる人々がいる。彼らは論理的思考の外にあり『分かる』のだ。この論理的思考を超えた位置、これが『無』である。『分かる』とは『有』を意味する。つまり、達人は無より有を生み出す人々と言える。
コンピューターは、『有』という動作環境でしか機能しない。動作環境が『無』となると、動かなくなるのだ。しかし、達人が『無』から生み出した『有』に対しては解析できる。つまり、達人の技はコンピューターでも解析可能となる。これは人類の歴史そのものともいえる。人は『無』に至り、『無』より『有』を生み出してきた。この『有』となったものが知識であり、この知識の伝承が人類の歴史そのものと言える。では、『有』から『無』を生み出せるであろうか。無理である。無を有によって解析することはできないのだ。ここから、『有』よりも『無』の方がより本質的なものと言える。つまり、『有』の対局が『無』のようではあるが、『有』と『無』は、本質的に同じ概念であり、一つと捉える事もできる。コンピューターは、有無の内の『有』の動作環境でしか動かない。これに対して、人は『無』と言う動作環境でも動ける。
ここまでは簡単であり、まだ、理解できるであろう。しかし、『空』となると説明することも容易ではない。『有無』を一つの動作環境とし、その『有無』の対極にある動作環境が『空』と言う事となる。有無の内、より本質的なものが『無』である。これと同じことが有無と空との間にもあり、より本質的なものが『空』と言うことになる。
『有』という動作環境で機能するコンピューターは、動作環境が『無』となると機能しなくなる。『有無』という動作環境で機能する人は、動作環境が『空』となると機能しなくなる。しかし、人は、本質的に『空』と言う動作環境でも動けるのだ。この『空』と言う動作環境で動くソフトが『JHVH』という事になる。つまり、『JHVH』というソフトは、基本的に全ての人にインストールされている。しかし、有無と言う動作環境では機能しない。動作環境を『空』とした時に機能するソフトであるともいえる。
『JHVH』を起動するためには、動作環境を『空』とする必要があり、そのためには『有無』を超えなくてはならない。この動作環境を『空』とするために必要なのが、自己愛の消去であり、このために必要なのが『死』と『永遠の裁きの地獄』と言うことになる。
人は『有』の対局が『無』であると思う。しかし、有から無は生じない。もし生じるとすると、無は有となるからであり、無から生じたものは有となるからである。有の世界を極めても、無に至ることは不能である。しかし、無を極めれば有に至る。
これと同じことが『有無』と『空』の間にもある。有無から『空』は生じない。有無の世界を極めても『空』に至ることはできない。しかし、『有無』を極めれば『有』に至るように、『空』を極めれば『有無』に至ることができる。
このように語れば、少しは『空』がわかるのではなかろうか。しかし、実際には、『有』を超えた『無』に至ることも容易ではない。その『有無』を超える『空』に至ることは難事中の難事となることが理解できるのではなかろうか。
『奇跡』の話は『奇跡などあり得ない』としている、あなたのソフトをアンインストールせよという意味でもある。また、『奇跡はある』としているあなたのソフトもアンインストールせよと言う意味でもある。有の対局にあるのは無ではなく、無の対局にあるのも有ではない。有無の対極にあるのが『空』なのだ。奇跡が示すのが『空』なのだ。
『奇跡はある』と信じて疑わないのは愚かである。また、『奇跡などあり得ない』と主張するのも愚かである。『あり得ないがある。それはあるのだがどこにもない』これが真理であり、これが『空』なのだ。