第9章 昔、昔のはなし
もし、わたしが人々に『このようにしなさい』と語り、眷属たちを使ってそれを強制するならば、未来の社会は一定となる。では、どこまでなら導けるのかと言えば、菩薩界までなら不可能ではない。しかし、菩薩界と仏界との間には一切の法が存在しない。これでは、強制されて菩薩となった途端『後は勝手にしろ』と放りだされるようなものである。
菩薩界から仏界への導きはないのだが、菩薩界の内には、釈迦如来によれば十の段階がある。初住の菩薩から十住の菩薩と呼ばれる段階まで存在するのだ。十住の菩薩となったからと言って仏界に至るわけではないのだが、六道や二乗(声聞・縁覚)に惑わされることはなくなる。この菩薩を上位に導く法と三悪道の衆生に導く法が全く違うのだ。このため、教菩薩法が必要となるのだ。
菩薩となったばかりの初住の菩薩は、菩薩のための導きがないとおそらく何もできなくなる。これゆえ釈迦如来は妙法蓮華経をはじめとする各種の教菩薩法を説き、わたしもコーランを事前に説いているのだ。
コーラン、すなわち、教菩薩法をわたしが直接説けばよいではないかと思われる方々もいよう。実は、昔、昔、今の人類が生まれる前に、人々を菩薩へと誘導し、その後、わたし自身が人として生まれ、コーラン、すなわち、教菩薩法を説いたことがある。
その世はどうなったのか。その世の人びとは何かとわたしの託宣を求めるようになったのだ。些細なことも自分たちで決められなくなり、全て主にお伺いを立ててから行うという状態となった。わたしが『あなた方自身で決めなさい』と語っていたにもかかわらず、何かにつけて『主にお伺いを立ててから』という状態となってしまったのだ。わたしが返答すれば、ますます人びとはわたしに依り頼む。そこで、返答することを止めたのだが、今度は、人はわたしの偽物、今でいうところのホログラムをつくりだした。そして、そのホログラムの託宣のまま世の中を動かそうとしたのだ。わたしの感覚では人々は『空』に至っているはずなのだが、実際には『空』には至っていなかった。結局、人びとはわたしの奴隷となり、奴隷であることに満足していたのだ。わたしが返答しないから、わたしのホログラムがわたしに代わって返答する。ホログラムを創り出している者たちには『空』がわからないから、わたしの語ることとはずれる。
今、人びとは科学技術がどうのこうのというが、おそらく、今の人類よりもはるかに科学技術は発展していたと思う。実体を伴うホログラムがわたしの代わりに説法をするのだ。生きた3Dプリンターとホログラムを融合させて『神』を創り出しているのだが、コンピュータープログラムでは『空』は作り出せない。ここに限界がある。いつの間にか、そのホログラムが真の神という事となり、わたしは偽神という事となっていった。
わたしは、彼らにとってかなり具合が悪い神のようであった。このため、科学技術万能と考える彼らは、その科学技術によりわたしの抹殺を試みた。その方法とは、今でいうプラズマ兵器である。作成したプラズマを特定の地点にぶつけるのか、特定の地点をプラズマ化するのかは分からないが、プラズマを使った兵器の一種によりわたしの抹消を試みたのだ。
彼らは、科学技術こそ万能と考え、その科学技術で神に挑んだ。どうなったのか。彼らは彼らの思考により滅びた。
では、何が根本的な原因なのか。何が、彼らを科学技術万能という思考に導いたのか。彼らは、わたしに依存した。いくら『わたしに依存してはならない』と語っても、彼らはその依存を止めなかった。その依存する相手が何も示さなくなったから、科学技術により依存する相手を創り出したのだ。結局、依存させたわたしに原因がある。
今の人はどうか。仏教も、キリスト教も、イスラム教も天国に依存している。彼らも同じであった。彼らも、わたしが現れるまでは、今の人と同じように天国に依存していたのだ。わたしは、その彼らに裁きの地獄の意味を教え、裁きの地獄に入った後どのようになるのかを教え、その後の対処法も教えたのだ。わたし自身が数百年以上生き、彼らを菩薩(ムスリム)へと導こうと試みたのだ。その結果、彼らは依存を天国から、わたしに変えたのだ。自立せずに、依存先を天国からわたしに変えただけであった。
わたしは知った。人は、いくら裁きの地獄の意味を教え菩薩に導こうとしても、自ら、菩薩となるのではなく、結局、何かに依存するのだということを。
人びとが依存を止め、自立するようになるためにはどうすればよいのか。人びとは、まず天国に依存し、次にわたしに依存した。この依存する対象を失くしてしまえば、人は自立するのではないのか。順序立てて全てを語ろうとすると、必ず『空』がネックとなる。結局『空』がわからないから、わたしに依存する形となってしまうのだ。ならば、『空』に至った者に対する説法を先に語ったらどのようになるのか。当然、意味不明となりぐちゃぐちゃとなるであろう。しかし、そこには一定の秩序も存在するはずである。その状態の世界に、わたしが生まれたならば、人びとはわたしに依存するようになるであろうか。わたしに依存しようとすれば、その世界の秩序を壊す事となるゆえに、わたしに依存することはできないのでないか。
これゆえ、わたしはまず三悪道しか知らない者たちのために修羅界への導きを説いた。これが俗にいう旧約聖書である。そして、イエスを遣わし、人界・天界への導きも説いた。これが俗にいう新約聖書である。
次に、今、わたしが説いている声聞・縁覚への導きを説けばよいのだが、ここに大問題が発生する。声聞・縁覚の位置から、声聞・縁覚への導きを説くことはできないのだ。なぜなのか。人をある境地から別の境地に導くための教えを説くためには、先の境地と後の境地の両方を俯瞰できる位置に導く必要があるからである。この両方を俯瞰できる位置とは、仏界しかない。つまり、これを説く者は創造主ヤハウェの位置にある必要が生じる。ヤハウェの位置にまで人を導くためには、声聞・縁覚ではなく、まず菩薩界に至らせなくてはならない。つまり、まず、裁きの地獄への道が必須となる。これで、裁きの地獄を受け入れる者が現れれば『空』に至らせることが可能となるのだが、この位置はまだ菩薩界でしかない。菩薩界からでは、六道と声聞の両方を俯瞰することはできないのだ。このため、菩薩界にある者のための導きが必要ともなる。
自分が世に生まれ、その後、菩薩界にある者たちへの導きを説けば、結局、人びとは『空』がわからないゆえに、その説いた者に依存する。ならば、先に全てを教え示しておけば、良いのではなかろうか。これゆえ、わたしはヨハネの黙示録を世に与え、そして、『空』に至った者への導きであるコーランも世に先に与えたのだ。
不安はある。意味が分からないものを、人びとは大切にするだろうか。書き換えてしまうのではなかろうか。もし、無にしてしまったり、書き換えてしまうのならば、この人類は失敗作ということになる。早々に滅ぼし、次の人類を新たに創るしかなくなるのだ。
もし、人びとがヨハネの黙示録やコーランを無とはせず、書き換えることもなければ、わたしが人となって意味を教えれば良い。人は『空』がわからない。『空』がわからない人を召して、『空』を説こうとしても所詮無理なのだ。だから、預言者ではなくわたし自身が人となり語るしかないのだ。
今のところは目論見通りに物事は運んでいる。ここまでは成功と言っても良いだろう。
ここから先は、基本的には人の意思により物事は運んでいく。このため、ここから語ることは、必ずしもこのようになるというわけではないのだが、一つの例として示そう。ただ、もし、人びとがわたしが語る十界論を無とするのならば、その時、人類は滅び去る。
今の人びとは核兵器こそが最強と考える。しかし、わたしが知る昔の世界では核兵器は旧式兵器でしかなかった。そもそも、恐怖により人々を操ろうという考え方そのものが原始人発想なのだ。また、人は人類を何回も滅ぼす力があるとして核兵器を自慢げにひけらかすが、実際には世界全面核戦争が起きたとしても、人類という種族が滅びるわけではない。八割から九割の人々は死に絶えるが、それでも一割、二割の人々は生き残る。
しかし、もし、わたしの言葉を無に帰するのならば、これが人類の滅亡へと直結する。考えてごらん。恐怖により人々を支配しようとし続ければ、破壊と再生を繰り返し続けるしかなくなる。永遠に、破壊と再生を続けるだけの種族に存続価値があると言えるのか。
なぜ、破壊と再生を続けるのか。人々の常識が三悪道に留まり続けるからである。なぜ、三悪道に留まり続けるのか。人がそれ以上の常識を持つことを拒み続ける獣に過ぎないからである。
わたしが語る十界論は、三悪道に留まる者たちに『その常識は三悪道の考え方だよ』と教えるものである。これを受ける事を拒否するのならば、拒否し続けのならば、『仕方ない、この人類も失敗作であった』として滅ぼすしかなくなるのだ。
このように、人類すべての命運がこの十界論にかかっている。わたしに依存するのではなく、人々が十界論を知り、人々自身が十界論により人の世を定めていった場合のみ、人類は存続可能となる。では、もし、人々が十界論を知り、十界論により人の社会を定めていったならばどのようになるのか。悲観的に話ばかりではなく、楽観的な話もしていこう。
ここから話すことは、『絶対にこの通りになる』という確定した未来ではない。わたしが支配者として世を導くならば、人社会の未来は確定する。しかし、それでは昔のように人はわたしの奴隷となってしまう。こうしないためには、わたしは言葉だけ残して、人々がわたしに依存しない状況をつくっていくしかない。どうするのか、どうなるのかは確定しないのだ。つまり、ここから語ることは、人びとがわたしに依存することなく、わたしの言葉により世の中を導きた場合に起きる一つの例だと考えていただきたい。
さて、わたし自身、実は未来の人間社会も見てきている。ある程度の未来までならば、手法は簡単である。法を定め、数百年、千年と時を動かしていけばよいだけである。あなた方も同じことをしていると思う。収穫を目指して草の種を蒔く。理想の世をつくろうと教育をする。これらは、未来を観て、今を定める行為である。もし、草の種を蒔く時に未来をみないならば、何、バカな事しているのだとしかならない。理想像がなく、ただ教育するのならば、後世の者たちは現代人の劣化版としかならない。人は数か月先を観て種を蒔き、数年先を観て樹を植え、数十年先を観て人を教育する。わたしもその収穫を夢見て法を蒔く。この時が多少長いだけであり、本質的には何も変わらない。
ただ、わたしが語れるのは西暦一万年の世界、つまり、今から八千年後の世界までである。わたしが管轄するのは、この西暦一万年の世界までであり、ここから先は、他の者が管轄する事となっているからである。
今、問題となっている地球環境問題は、人が三悪道の常識から離れないことが原因であり、実際に人類を滅亡させる力もある。このため、まず、人びとが三悪道の常識から離れる選択をする必要がある。これは何を意味するのか。今、国際社会を導いている国連やアメリカでは人類を導くことはできないという意味となる。