創価学会からの返答
わたしが創価学会に対して出した破折に対して二通の返答があった。一通はバルキリアさんからのものであり、もう一通はハレルヤさんからのものである。創価学会に対する破折はこのブログの記事にupしてあり、これらの返答は、このブログのコメント欄に記されたものである。実際には創価学会本部にもこの破折は郵送してあるのだが、予想通り、創価学会本部からは何の返答もない。おそらく何の返答もできずに、貝のように押し黙るしかなかろう。しかし、ハレルヤさんからの返答は創価学会本部からの返答に近いものであり、組織としての創価学会は彼に任せておけばよいだろう。
わたしに返答を寄せられたお二人だが、このお二人の対応にはそれぞれ別の意味がある。
バルキリアさん
まず、バルキリアさんは聖書、コーラン系統の継承者として返答されている。彼は、今、占い師を目指しておられるのだが、占い師とは何なのか。これは現代の預言者という意味である。
ご存知の通り、聖書もコーランも預言者を通してわたしの言葉を人々に伝えたものである。つまり、バルキリアさんは、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドに継ぐ者となる。しかし、彼は預言者とはならない。なぜならば、わたしは全ての人、一人ひとりに『真のヤハウェとは、あなた自身に他ならない』と語っているからである。もし、彼を預言者とすると、預言を授ける者と預言を受ける者が同じということとなり、人々にはこの意味が分からなくなるからである。
彼はこのように語るであろう。『キリスト教もイスラム教も真実ではない。真実とは、あなた自身が真のヤハウェであるということであり、わたしはこの真実をあなたに伝える者である』と。
彼は粗布を着て、荒野に於いて法を語るであろう。粗布とは、綿密な法ではなく、その人その人に応じた法という意味である。荒野とは、教えを求める人々の間ではなく、教えを無視する者たちや、かたくなに偏法を守る者たちの間と言う意味である。
わたしは彼にアンドレイの名を授ける。また、火の鳥をひとり彼のもとに送ろう。この火の鳥は、彼及び彼の意思を継ぐ者に引き継がれる。また、彼に教皇の位を授けよう。
ハレルヤさん
ハレルヤさんは、創価学会の継承者として返答されている。わたしは彼に『日晴』の名を授けよう。また、彼にも火の鳥を一人遣わそう。この火の鳥も、彼、及び、彼の意思を引き継ぐものに引き継がれる。また、彼にも教皇の位を授けよう。
確かに創価学会を継承する者であれば、第三代会長が語った『平和』を否定するのではなく継承する必要もあろう。この場合、『平和』に三証がない事が最大の問題となる。では、本当に平和には三証がないのか。とくに問題となるのが文証となる。
わたしは、今、社会を声聞界に導こうとしている。すると、当然、世の人々は『二乗不作仏』の文言を持ち出してきて、『これは真理にあらず』と反証を立てようとするはずである。ところが、この言葉はわたしの語ることが真理ではないという文証とはならない。なぜならば、わたしは『二乗不作仏』も知っており、真理ではないことも知っており、その上で敢えて声聞界を勧めているからである。
法華経薬草喩品には、『その人薬草をとり』と記されている。薬草とは何か。世の人々が正しいと考える教えである。大樹の言葉が示すものは法華経などの教菩薩法であり、小樹の言葉が示すものが二乗への導きである。これに対して薬草は、人々が正しいと考える教えという意味となる。『薬草をとり』とは、薬草を主体とするという意味であり、薬草が薬草である事を知った上で、敢えて薬草を用いるという意味となる。
『平和』の言葉が示すものは、人々が善とするものであり、法華経に於いては薬草に分類される。つまり、『その人、薬草をとり』の言葉は、大樹ではなくとも、それを真理として用いても構わないという意味となる。ただし、薬草の言葉は、『方便であることを知った上で』という意味も含まれる。
ハレルヤさんは、平和をこのように規定されている『三悪道ではなく人界思考を平和と呼ぶ』と。この考え方は、六道の内にある薬草を実際にとり、それを善として示すという意味となり、薬草喩品の『その人、薬草を取り』の言葉がその文証となる。『平和』の文証はここにある。
平和の言葉よりも大変なのが、『末法の本仏』という言葉である。よく『人と法は一つ』と言うが、この『人』とは何か。『人』の言葉が示すものは、日蓮でもヤハウェでもない。確実に存在するただ一人、すなわち『あなた自身』を示す。他は日蓮も釈迦もヤハウェも皆『法』である。つまり、全ての教えは『法重人劣』となる。これを法と人が同一となるようにするとは、『人』、すなわちあなた自身を、『法』の位置、すなわち仏界にまで引き上げなくてはならない。
『末法』とは無仏を示す。仏は絶対に存在しないのだ。つまり、末法の本仏とは、天地がさかさまとなっとしてもあり得ない。これを有とするためには、矛盾が矛盾でなくなる位置に至るしかなく、この位置は『空』という事となる。『空』に至るならば、自分自身と仏が一つとなる。すなわち末法でありながら、仏があると言う位置も確かに存在するのだが、それでも『末法の本仏である日蓮聖人に南無妙法蓮華経と唱える事により成仏できる』とすることは不可能である。唯一可能なのは、『末法の本仏』を、草とするしかない。つまり、日蓮正宗そのものを『草』、すなわち仏法に依らない方便とするしかなくなる。
これは、どういう事なのか。『末法の本仏という思考は、今まで御本尊という存在を継承するために必要なものであった。なぜ継承する必要があったりか。これが仏教のみならず、聖書の本仏であり、コーランの本仏であるからに他ならない。これは聖書を継承するためにキリスト教が必要であったのと同じであり、コーランを継承する為にイスラム教が必要であったのと同じである。』と規定することにより、ようやく、法華経に記されている『薬草』となる。これを絶対真理として語るのは大間違いであり、方便でしかないのだ。
真に継承すべきものは、聖書であり、コーランであり、御本尊である。これらを今の世まで伝えてきた功績は大であり、その功績は功績として称えよう。しかし、彼らの語ることは方便でしかない。あなた方は方便を方便として認識すべきであり、方便を真理とする者であってはならない。
日蓮正宗の法は大樹ではなく雑草である。『僧と在家には主従関係が存在し、法主こそ大事』などと語れば、これは三悪道の思考としかならない。これは『空』すなわち菩薩界を廃して三悪道を勧めることとなるので、今の彼らの思考は薬草どころか毒草ともなり得るのだ。地湧の菩薩はなぜ仏ではなく菩薩なのか。仏であれば従えているはずの菩薩衆、僧、在家の信徒がいないからである。菩薩=僧=在家となるから地湧の菩薩なのであり、この菩薩、すなわち『空』がわからなければ、法主と名乗ろうとも、僧と名乗ろうとも、在家の信徒と何も変わらない。この何も変わらないという事が分からないから三悪道に堕ちる。今度は三悪道の思考こそ重要として、そこから法らしきものを語るようになる。この法らしきものを継承してきたのが日蓮正宗の姿であり、この思考では、とてもとても、広宣流布などという大業は成し遂げられない。
御本尊とは、唯一人であるあなた自身こそが仏であるという証明である。仏と言う言葉よりも天地の創造主という言葉の方がわかりやすいと思う。これが唯一人、すなわち、あなた自身の本来の姿である。その本来の自我が自己愛・我欲という分厚い原罪をまとい、その原罪の方こそが自分自身であると考え、そこから離れようとしないのが、今の人の姿なのだ。つまり、人は誰であっても原罪の自我から離れれば、天地すべての創造主としての自我に帰ることができるという証明こそが御本尊の意味である。これを原罪の自我のままで仏となれるなどとするから意味不明となるのだ。原罪の自我から離れるのが『空』に至るのであり、『空』に至った者が菩薩である。
本来のご本尊は書き記されたものではない。しかし、書き記されたものでなければ人は迷う。これゆえ、書き記された『御本尊』という形式が存在する。あなたは既に本来のご本尊の守護者である。守護者というよりは、御本尊と人との仲立ちをする者と言った方が正確だろうが、適当な言葉が見つからないので守護者と記す。
御本尊に関してわたしがかかわれるのはここまでである。あとはハレルヤさん、あなた自身が御本尊に尋ねられよ。
火の鳥
火の鳥は、聖書に於いてイエスに洗礼を施した光の鳩として記されているものである。この光の鳩が火と硫黄の燃える池の洗礼を受け、火の鳥となったのだ。この火の鳥は全部で十二人いる。このうちの三人は、今、ローマカトリックについている。つまり、ローマカトリックの首長は、この火の鳥の洗礼を受ける必要がある。これが聖書に記されている火の洗礼である。もし、カトリックがこの火の洗礼を拒めば、カトリックは消滅する。
わたしヤハウェは、どの宗派であったとしても望むならば、このように火の鳥を遣わすであろう。キリスト教であっても、イスラム教であっても、仏教であっても同じである。これは、今までの功績を功績として認めるからであり、罰として焼き尽くすという意味ではない。まぁ、確かに、自ら望んで火獄に堕ちるか、火獄に叩き堕とされるか程度の違いではあるが、一応、このように記しておく。
さて、バルキリアさんやハレルヤさんに火の鳥を遣わすというのと、ローマカトリックに火の鳥を遣わすというのは同じ意味ではない。バルキリアさん、ハレルヤさんは、火の鳥を他の者に遣わす権威を持つのであり、これはわたしの持つ権威の移譲である。この移譲を行うゆえに、彼らに教皇の名を授ける。これに対して、ローマカトリックに遣わす火の鳥は、彼らを火の洗礼に導くためのものである。カトリックの法王は、火の鳥を他の者に遣わすのではなく、火の鳥に洗礼をお願いするという立場となる。主体は火の鳥の方にあり、もし火の鳥にそっぽを向かれたらローマ法王ではどうしようもなくなる。
これは、このような意味となる。例えばハレルヤさんが日蓮正宗を導こうとするならば、火の鳥に『彼らに火の洗礼を施せ』と命じればよい。これが教皇の力であり、この霊力を授けるという意味である。これは、最終的には、霊界の全てを従える力にも至るはずであるが、手始めに火の鳥を手なずけてごらんという意味でもある。まぁ、火の鳥には核兵器数百発程度の力しかないが、それでも、人類を滅ぼす程度のことならば可能であろう。制御不能とならないように霊界の者たちも一緒につくので心配する必要はない。
教皇だからと言って、神殿の奥深くに鎮座しなくてはいけないわけではない。世の中には、そのようにしたい連中が大勢いる。このようなことは彼らにやらせておけばよい。わたしが授ける教皇の位とは、彼ら全てが束になっても敵わないほどの強力な霊力である。
このような言葉を聞いても、とても信じられないであろう。また、火の鳥一人だけであっても自在に操れるようになるまでに、何年も何十年もかかるであろう。あなた方は、自ら誓ったのであり、わたしがその誓いを聞いたのだ。自らの誓いを果たされよ。
JHVH