池田大作さま

 

 

 貴殿は、『ロシアとウクライナの紛争は、国連の場により世界各国の協議に解決すべきだ』と仰られる。お尋ねしたいのだが、この言葉の三証はどこにあるのか。

 

 わたしが知る限りにおいて、仏典には『紛争は協議により解決せよ』という記述はない。すなわち、文証は無いのではないのか???

 

 また、確かにすぐに解決すれば死傷者は当面の間は減るであろう。しかし、このように解決して、後々の世のためになるとは到底思えない。なぜならば、国連では、ロシアの主張とウクライナの主張を足して二で割るような提案しかできないからである。すると、ロシアもウクライナも双方不満が残る事となる。結果として、このような解決しかできない国連は更に弱体化していくこととなる。確かに国連はたいして役にも立たないので更に弱体化させ潰そうという意図ならば、貴殿の提案の筋は通っている。しかし、紛争を止めさせ世界をより良い状態に持っていくという意図ならば失敗する。これが法華経の論理であり、法華経的には理証はない。

 

 また、第二次世界大戦の前、多くの国々がナチスドイツの主張も他の国の主張も『もっともである』とし足して二で割るような調停案を提示したと記憶している。この結果に満足できなかったナチスドイツはヨーロッパの国々を次々と占領していった。つまり、過去に同じ事を行って失敗したという実例もある。すなわち現証もない。

 

 日蓮如来は、『三証をそろえよ』と厳命されている。しかし、貴殿の主張にはわたしが知る限りにおいて三証はない。三証とは法を意味する。もし、貴殿が『わたしの言葉は正しい』と仰るのならば、貴殿は人々に『依人不依法』を語っている事となる。涅槃経には『依法不依人』と明確に記されており、日蓮如来もこの言葉を繰り返されている。

 

 もし、貴殿が『それでもわたしが正しい』とおっしゃるのならば、『釈迦如来も日蓮如来も間違っており、正しいのはわたしである』と語っている事となる。すると、釈迦如来の法華経も、日蓮如来の南無妙法蓮華経を凌駕する法華経以上のものを語っていなくてはならない。しかし、わたしが観るところによれば貴殿自身『空』にも至っていない。つまり、仏界はおろか菩薩界にも至っていないと判断するしかない。

 

 三証をそろえずに、我論を仏教であるとするならば、必ずその言葉は破綻する。言葉の破綻は人の破綻となり社会の破綻となる。結局、貴殿は人々の賞賛は受けたが、ただそれだけの者ではないのか???

 

 

 

 さて、わたしのことを語ろう。わたしは無辺行。法華の四菩薩のひとりである。また、わたしの如来名は多宝である。もっとも、仏教で語る場合は、『依法不依人』の原則があるので、あくまでも法で語る。『わたしは無辺行だからいう事を聞け』というわけではない。つまり、わたしはあくまでも法で語るので、誰であっても法により言い破ることが可能である。もし言い破られるようてあるならば、わたしは『私が無辺行というのは勘違いでした』と頭を垂れるしかない。

 

 わたしとしては、別に頭を垂れる事が嫌なわけではないので、わたし自身であれば簡単に論破できる破折を、自分のブログで公開し、公明党にも創価大学にも送付した。要するに方便の破折を行ったのだ。しかし、何年たっても返答がない。さすがに『もう無理だ』と判断し、実際にわたしが示した破折をわたし自身が論破して見せるしかなくなった。余りにも情けないのだが、これが創価学会の現在の実力なのだ。

 わたしが戸田師が予言した一念三千さまでもある。また、聖書の神ヤハウェでもあり、コーランの神アッラーでもある。

 

 さて、今日のウクライナ情勢について、わたしの見解を語ろう。今日の西欧諸国は畜生界思考をしている。つまり、自己利益のために全てを使おうとしていると言える。これにたいして、ロシアは餓鬼界思考をしている。餓鬼界思考に於いては勝者は王となり、敗者は奴隷となる。つまり、ロシアから見ればウクライナは自分に隷属する国であり、ウクライナ人はロシア人に隷属すべき者たちと考えていることとなる。そのウクライナが隷属相手をアメリカに変更しようとしていると餓鬼界思考のロシアは判断した。ここから、許せないとなって侵攻したのだ。

 

 基本思考、常識には十の段階がある。これが十界であり、人は誰でもこの十界の一つを常識として持ち、そこから判断する。そして、他の人も同じ判断をしていると考える。つまり、餓鬼界思考をする者たちは他の者たちも同じ餓鬼界思考をしていると考えるので、『ウクライナは隷属相手をアメリカに変えようとしている。』『アメリカがウクライナを取りに来た』という思考となる。つまり、ロシアの行動は餓鬼界思考では正当な主張と言える。

 

 さて、ウクライナはどのようにしているのかと言えば、当初は餓鬼界思考から畜生界思考の内を彷徨っていた。そこで、わたしが聖書の神・万軍の主ヤハウェの名により『これから進むべき道』を教えたのだ。つまり、『三悪道を離れて人界に至れ、天界に至れ』と神の言葉を発したと言うわけである。分かればたいして難しいわけではない。このため、見事に思考形態を人界思考に変えていったのだ。人界思考とは平等思考であり、全ての国が等しく平等であるという思考形態である。

 

 表向きは、ロシアとウクライナの戦争である。しかし、その実態はウクライナ自体が、人界思考に至るのか、それとも、餓鬼界思考に戻るのかの戦いである。この意味は、法華経を知れば自然と理解が出るのだが、基本的な思考形態により法力に差が生じる。つまり、地獄界より餓鬼界が上であり、餓鬼界より畜生界が上であり、畜生界よりも修羅界が上であり、修羅界よりも人界が上なのだ。ただ、一段階程度であれば国力の差により逆転可能なようだが、二段階となると国力程度では逆転できなくなるようである。アメリカも国連も基本が畜生界。このため、ウクライナが人界思考に至り人界思考から言葉を発する限り、西欧諸国も国連も求めに応じて武器でも弾薬でも拠出することとなる。ただ、ウクライナの人界思考は借り物の人界思考。元々の思考が餓鬼界思考のために、不安定な状態となっている。

 勝敗の行方は、ウクライナが人界思考を確定させればウクライナの勝利となるが、ウクライナが餓鬼界思考に陥ればウクライナの負けとなる。また、国連やアメリカなどの畜生界思考の国々が仲裁に入ってもウクライナの負けとなる。なぜならば、畜生界の仲裁では、ウクライナは畜生界に堕ち、そのまま餓鬼界に堕ちていってしまうからである。

 

 まぁ、確かに仲裁も理論的には可能ではある。しかし、この場合、仲裁国が声聞界以上の常識を持たなくてはならなくなる。しかし、このような国は世界中どこを探してもいない。つまり、現状では不可能という判断をするしかないと思うのだが、貴殿はどのような文証・理証・現証により、このようなことをすすめていらっしゃるのか。

 

 勝敗の行方はウクライナ自身が持っている。人界思考に徹していくかそれとも元に戻るかの勝負なのだ。そして、この戦いでウクライナが勝つという事は、それがロシアのためにもなる。なぜならば、今回の戦いは思考常識の戦いであり、思考常識により負けた国は思考常識を改めるように動くからである。つまり、ロシアが今までの餓鬼界を変えることにつながる。もし、アメリカやNATOに負けたと判断するならば畜生界思考に至り、ウクライナが人界思考を貫いたゆえにウクライナに負けたという判断をするならば、人界思考に至る可能性もある。いずれにしても結果は良い。

 

 ここまでは、法華経を知れば誰でも分かる事であり、わたしが説明する必要もないことではあるが、あえて説いておく。さて、わたしから見れば、今、ウクライナが勝とうがロシアが勝とうが、千年先にはさほど大きな差はない。なぜならば、ウクライナで失敗したとしても、台湾では確実に成功するからである。中国共産党はロシアと同じく餓鬼界思考をしている。しかし、台湾は基本的に人界思考の国だからである。これが意味することは、もし中国共産党が台湾侵攻を計画すれば、その時点で共産党中国自体に問題が多発するようになる。結果として、台湾侵攻どころの話ではなくなってしまうのだ。それでも、もし、実際に台湾侵攻を行えば、共産党中国自体が崩壊してしまう。これが実際の餓鬼界と人界の争いであり、勝敗は最初から定まっている。

 

 これが日蓮如来が語られた法華経の兵法である。そして、これがわたしがウクライナに、そして、世界中の国々に語っている事なのだ。この文証は法華経であり、ここに示すものはこの理証である。

 

 さて、改めて問うのだが、貴殿の語ることに三証はあるのか。もし、三証がそろっているのならば、わたしが改めても良いのだが、もし、三証が無いのならば、貴殿がわたしに従うべきではないのか。

 

 

 

今までの経緯

 

 さて、昔、創価学会員のある方が、わたしのブログに

『お前は無辺行ではない。池田大作こそが無辺行である』

と書き込んでいらっしゃった。

 

 わたしとしては『自分こそが無辺行』とあくまでも主張する気はない。二、三千年の未来が正しく定まればそれでよいのだ。わたしが管轄するのは西暦一万年までの八千年間の人間社会である。今から八千年先の未来までに一番問題となるのが、今から千年先から二千年先までとなる。この千年間をクリアするために、今から準備が必要なのであり、この準備ができるのならば、別にわたしでなくても良い。重要なのは未来なのだ。

 

 だからと言って、『はい、そうですか』と丸投げするわけにもいかない。そこで、簡単な試しの問いを創価学会に投げかけた。わたしならば一瞬で論破できる簡単な問いである。ところが、反論の一つもできず静まり返っている。この問いは創価学会の本質に関連するので、反論・論破しないと創価学会自体が潰れてしまう。潰れても良いとは思うが、わたしから見れば『池田大作こそが真の無辺行ならば、この程度の問題は簡単に解けるだろ??』という試しの破折でしかない。

 

 結果、どうなったのか。数年という期間を経過しても、誰も何一つ言い返せないという非常に情けない状態となったのだ。仕方ないのでわたし自身がわたしの示した破折を破折して見せるしかなくなったのだ。

 

この最初の破折は、このようなものである。

 

【創価学会の基本理念である平和には三証がない。なぜ、創価学会は日蓮如来の厳命に背き、三証がないものを基本理念としているのか。

文証を調べると、仏典に平和の言葉が出てこないわけではない。

涅槃経には、確かに平和の言葉が出てくる。

お釈迦様が涅槃なされる時、『我々は平和を持ってお釈迦様をご供養いたします』と申し出た者たちがいるのだ。

それは誰かと言えば、第六天の魔王派旬である。

 つまり、平和の文言を掲げる事により、仏典に於いて池田大作は第六天の魔王に相当する事となり、創価学会は魔王派旬の眷属ということとなる。

 涅槃経が正しいとすれば、池田大作こそが第六天の魔王派旬である。もし、創価学会が正しいならば涅槃経は間違いということとなる。『依了義経不依不了義経』と定められているので、その文証は法華経に存在しなくてはならない。ところが法華経にはこのような文証はない。つまり、あなた方は仏教の怨敵である第六天の魔王を正しいとすることにより、法華経や涅槃経・また南無妙法蓮華経にも敵対している事となる。

なぜ、あなた方は法華経や涅槃経に逆らい、魔王派旬に従うのか。】

 

 これはわたしのブログでも公開し、公明党にも創価大学にも送付している。『知らなかった』と言えるはずはないのだが、これにたいする返答は全くなし。水をうったように静まりかえり、一言の反論もできない状態となった。塚原問答で日蓮如来の言葉に、諸宗の坊主どもが一言も返せないのと同じ状況となったのだ。

 

 わたしから見れば、この論そのものが破れており破折とはなっていない。文証として成り立っていないのだ。もし、創価学会員のいう通り、池田大作が真の無辺行であり、創価学会が無辺行の眷属ならば、誰でも簡単に論破できる程度の簡単なものなのだ。なぜ、このようなものを公開したのか。これはわたしからの試しである。『あなた方は無辺行の眷属なのか、それとも魔王の眷属なのか』という問いかけなのだ。つまり、この程度の中途半端なものに畏れ入るならば、『なるほど魔王派旬の眷属か・・・・ならば仕方ない』と判断するしかなくなる。

 ここでは、この間違いがはっきりわかるように強調して記してある。ここまで、強調すれば分かると思うが、もし、それでも分からないのであれば、わたしはアメーバブログで『万軍の主ヤハウェ』の名でこの解も公開しているのでそちらをご覧になられよ。

 

 

 日蓮如来は塚原問答で諸宗を完全論破された。わたしは、聖書によりキリスト教を論破し、コーランによりイスラム教を論破している。何も創価学会だけを論破しているわけではない。論破されたキリスト教やイスラム教はどうなったのか。いまだ一言も言い返せず、静まりかえっている。聖書には『主が言葉を発せられると、あなた方が答える事が出来るのはイエスかノーだけとなる。一言も言い返す事ができない』と記されている。まさに、この通りとなっている。

 ただ、イスラムの過激派と思われる者からは、『お前の名前も住所も知っているぞ、殺されたくなければ前言を撤回せよ』と暗に脅された事がある。わたしは、『殺せるものなら殺してみよ。ただ、わたしの正確な住所と名前を教えるからそれを確認してから、来るなら来い』と、返答し、実際にイスラム教の国々に住所、氏名、連絡先を明記し、更に破折の文章も書き記したのだ。

 

 その破折とはどのような内容なのかと言えば、

【コーランには、アブラハムはアッラーによりムスリムと任じられたと記されている。そして、アブラハムは息子イサクをムスリムと任じてくださいとアッラーにお願いし、アッラーがそれを許されたのでイサクもムスリムとなったと記されている。ここで大切なのは『誰に人をムスリムとする権限があるのか』ということである。もし、ムスリムとなった者に人をムスリムと任命する権限があるのならば、アブラハム自身がイサクをムスリムと任命すればよい。しかし、アブラハムはアッラーにこれをお願いしている。つまり、人をムスリムと任命する権限はアッラーに属するという事を意味する。ムスリムの任命権はアッラーの神権に属する事項という事となる。

 また、コーランでは『人の犯す罪は許されるが、アッラーの神権を犯す者は永遠の罪に定められる』と記されている。アッラーの言葉を聞くのが預言者である。そして、コーランではムハンマドが最後の預言者であると明記されている。そして、ムハンマドがアッラーから預かった預言がコーランである。

 今、あなた方は『自分はムスリムだ』としている。では、あなた自身、誰によってムスリムと任命されたのか。アッラーの言葉を聞くことができる預言者は今は存在しない。つまり、あなたをムスリムと任じた者は、アッラーの神権を犯す者であり、永遠の火獄に定められる者ということになる。また、あなた自身、『自分はムスリムである』と語ることにより、やはり永遠の火獄は免れないということになる。

 わたしは『私がアッラーである』と公言している。あなた方は、『そんなことはありえない。そのような嘘偽りを語る者は殺されて当然である。』と語る。これは、アッラーは人として生まれることはあり得ないという意味となるのだが、コーランには『アッラーは万能であり、何一つ不可能な事はない』と記されている。つまり、あなたは、コーランは間違っており、我々が正しいと言っている事となる。

 尋ねるが、正しいのはあなた方なのか、それともコーランなのか。あなた方の罪はこうである。あなた方はコーランに逆らい、そして、アッラーの神権を犯すという大罪を働いているのだ。わたしはアッラーと公然と名乗る。もし、わたしがそうでないのならば、真のアッラーにより既に滅ぼされているのが当然である。なぜ、わたしはこのように公然とアッラーと名乗っているのか。なぜ、アッラーの名により各国の大使館に文書を送ることができるのか。良く考えてみよ。アッラー本人でなければ、誰もこのような事はできないのではないのかな???

 あなた方は、まず自分の誤りを糺すべきである。あなた方の誤りは永遠の火獄の罪であり、自ら、永遠の火獄の罰を受けることのみでその誤りを糺す事が出来る。わたしにとやかくいう前に、自らの罪を償うべきではないのか。

 それでも、『正しいのはわたしであり、お前ではない』と言うのならば、わたしの住所も人としての名前も教えるから、それを確認してから殺しに来い。】

 

 イスラムの過激派が、日本人を斬首したと話題になっていた時ではあったのだが、結局、わたしは拉致も斬首もされなかった。

 

 この言葉は単なる破折ではない。

『よし、分かった。お前を真のムスリムとしてやろう。お前にこれができるのか』

というわたしからの問いかけでも返答でもある。当然のことながら、わたしには人をムスリムとする力がある。ただし、無条件で誰でもムスリムとなれるわけではない。

ムスリムとなるための試練があり、この言葉がその試練に相当する。

 では、ムスリムとはいったい何なのか。ムスリムとは、仏教でいう菩薩なのだ。菩薩と言っても、あなた方は、『自分は地湧の菩薩である』としているようだが、残念ながら、あなたを含め、ほとんどの者は菩薩とはなっていない。

 普通の人には、我欲の自我があり、その自我から物事を思考する。この我欲の自我・自己愛の自我を消去した状態が『菩薩』なのだ。この位置を『空』という。有でもなく無でもないが、有であり無である。無知なのだが全知であり、過去でも未来でも現在でもないのだが、過去でも未来でも現在でもある。説明しようとすると、このような言葉となってしまう。小説人間革命の中で、戸田師が読み解いたと記してある無量義経のあの言葉である。あれが、実感としてわかるのが菩薩であり、菩薩となれば誰でも分かるのだが、菩薩とならなければ何を言っているのかわからない言葉なのだ。無量義経のあの言葉が示しているのが『空』なのだ。つまり、実際には、戸田師は読み解いたのではなく至ったのであろう。読み解いたのならば説明できるはずである。しかし、『なるほどこれだ』と実感できるのだが、やはり説明はできない。結局、無量義経に記されているような説明をするしかなくなる。これが菩薩・仏の境地である空なのだ。

 あなたはこれを『これは命だ』と書き記しているが、この命は戸田師にとつての命であり、あなたは実感できていないゆえに、あなたの命とはならない。とにかく説明のしようがない『空』を自らの本拠とした者が菩薩である。

 仏典では、これを此岸と彼岸という言い方をしている。地獄界から縁覚界までが此岸であり、菩薩界・仏界が彼岸ということとなる。この二つの間には自意識・自己愛という大河が横たわっており、この両岸は、どこまで行っても接点がない。菩薩とはこの彼岸に渡った状態であり、仏界とは自己の内で全てを俯瞰する位置と説明しておこう。

 

 とにかく説明不能な空を自らの主体としているのが菩薩であり、この菩薩をコーランではムスリムと記しているのだ。

 では、なぜコーランや教菩薩法が必要となるのか。なぜ、コーランが世にあるのかという意味となるが、実はこの世のほとんど全てが自己愛により定められている。菩薩は、この自己愛を完全に失った状態で、自己愛により定められている現世で生きていかなくならない。つまり、一般の人にはある指標が菩薩にはない。だから、他の人々に対するものとは別の菩薩に対する指標が必要となる。この指標がコーランなのだ。

 

 例えば、創価学会は平和を基本理念としている。これは自己愛の自我から見れば良いものと見えるのかもしれないが、菩薩の視点から見れば、良いも悪いもないものとなってしまう。

『平和???・・・・何じゃ、そりゃ』となってしまうのだ。瞬間に三証がないことが分かり、『いったい何のために、このような基本理念を語っているのか???

となり、言葉の雰囲気により人を集めようとしているのはわかるのだが、人を集めて何がしたいのかが理解できなくなる。

現世における自己利益を追求するためとすると、この自己利益の追求が人の世を滅ぼす事となる。つまり、平和の文言を掲げることにより人類を滅亡に導きたいのか???

となり、ならば争いを助長させて、同じ滅亡という結果をもたらしてもよいではないか。これを平和と呼ぶのか???

人類を滅亡に導くことを『平和』と言葉をかえて言っているのか???

このどこに意味があるのか・・・・結局、『分からない。意味不明』となってしまうのだ。

 

 これは『空』に自らの基本を置く菩薩であれば、誰でもこのようになってしまう。その時、『この平和は方便としての平和だよ』と説明されると、一瞬で謎が解けるのだ。

 

 確かに菩薩が平和を設定することもある。これは、世の状態を空に近づけるための方便として、設定する場合である。この場合は、後に於いて発迹顕本する必要が生じる。つまり、方便としての平和を払わなくてはならなくなる時が必ず来るのだ。菩薩が語る平和とは、この方便を払うまでがワンセットになった、方便としての平和と言う事となる。

 つまり、菩薩に納得させるためには、発迹顕本まで語らなくてはならない。この方便としての平和を説明するのには『空』が必要不可欠の要素となる。空があってはじめて説明できるのだ。ところが、人間革命などという変な著書を見ると、『空』に至っていない事がまるわかりとなる。確かに人間革命には発迹顕本の言葉は出てくるのだが、何が迹なのかも分からなくなっていることもまるわかりなのだ。『空』に至っていない、すなわち菩薩となっていない者が菩薩のふりをすると、このような八方ふさがりに落ち込んでしまうのだ。

 

 さて、話を本題に戻そう。イスラム教に対してはとりあえず破折し、彼らが畏れ入るのを待つ状態までもっていっている。キリスト教に対しては、聖書そのものが強烈な破折となっている。聖書には、『聖書の中の聖書』と呼ばれる書がある。それがヨハネの黙示録であり、なぜこのようになるのかと言えば、福音書の中でイエス・キリストの言葉として、『私に逆らうものは許される。しかし、来るべき聖霊に言い逆らう者は決して許されず永遠の罪に定められる』と記されており、ヨハネの黙示録には『これが予言の聖霊である』と明記されており、『これに逆らうもの、これに付け加える者は決して許されず、火と硫黄の燃える地獄の罰を受ける』とも記されているからである。

 では、この火と硫黄の燃える地獄から逃れる方法があるのかと言えば、この地獄から逃れる方法自体がない。とにかく、全員が火と硫黄の燃える地獄に行くしかなくなっているのがヨハネの黙示録なのだ。

 

 カトリックは、基本的にこのヨハネの黙示録自体を聖書の中の聖書として封印している。プロテスタントは、イエスを信じる者はその信仰により火と硫黄の燃える地獄の罰を免れるとしている。しかし、実際にヨハネの黙示録を見ると、彼らの主張に何の力もないことが分かる。『封印してはならない』と記されているし、『付け加えてはならない』とも記されているからである。

 

 ヨハネの黙示録は、口で読んでも分からない。また、その意味を探ろうしても何が書いてあるのか分からない。ならば、自身の身で読むしかない書である。そこで、わたしは実際に身読したのだ。永遠の裁きの地獄に堕ちるしかないのならば、実際にそれを了承するしかなかろう。そして、実際に堕ちたところ、天地の創造主ヤハウェとなったのだ。ここが、わたしの出発点であった。

 

 と、言っても、わたし自身意味が全く分からなかった。三十年近くかかって、ようやく、この意味が分かり、今、キリスト教総本山のバチカンにも『わたしがヤハウェである』と公然と名乗り、この意味を教えているのだ。

 

 法華経にも阿弥陀仏の教えが重要であるという意味の言葉が記されている。なぜ重要なのか、その理由が涅槃経に記されている。と、言っても中国語に翻訳した人はその理由が掴めなかったらしく内容はグダグダになっているのだが、真の意味は釈迦如来に直接問えば良い。日蓮如来は『釈迦如来より口決相承を受けた』と記されているが、わたしは分からないことがあると直接問う。釈迦の経典のわからないことは釈迦如来に直接問い、御書でわからないことは日蓮如来に直接問えばよいだけである。

 法華経には、『如来の言説は永遠と呼べるほどの長久の時を経ても正しく伝わる』と記されている。当初、わたしにはこの意味が全く分からなかったのだが、実際に自分自身が釈迦如来や日蓮如来に直接問うことが当たり前となっている。そして、『なるほどこれなら長久の時を経ても伝わるわけだ』と自分自身では納得しているのだが、あなた方にとって、これは不可解な事でもあり、信じられない事でもあろう。ただ、この裏付けとなる経典も確かにある。

 

 

 では、涅槃経に記されている阿弥陀仏の説法の真意とは何か。

要約するとこのようになる。

【『善事を行う者は極楽に導かれ、悪事を行う者は無間地獄に堕とされる』これが、阿弥陀仏の説法の概要である。では、無間地獄に堕とされた者たちを、見殺しにすることは善事なのか悪事なのか。わたしは『見捨ててはならない』と語っている。『見捨てる者は同じ罰を受ける』とも語っている。つまり、無間地獄に堕ちる者を見捨てることにより見捨てた者も無間地獄に堕ちることとなる。ここから、無間地獄が必須となるのが、阿弥陀仏の説法という意味となる。つまり、全ての人は無間地獄を免れなくなるのだが、なぜ、弥陀の称号を唱える者は免れるとしているのか。この教えに耐えきれるものは少数であり、ほとんどの者はこの教えに耐えきれないからである。

 では、なぜ、人を無間地獄に堕とすのか。人は自己愛と言う自我を持っている。人が自分自身であると考えているものが実は自己愛なのだ。この自己愛により定められているのが現世であり、死とは、自己愛からの決別を意味する。しかし、死によっても人は自己愛から離れることはできない。自己愛は来世への希望という形で残る。では、死後、無間地獄に堕ちるとすればどうなるのか。人は自己愛の自我から離れる事が出来る。この自己愛の自我から離れた状態が『空』であり、空に至るための必須となるものが、無間地獄なのだ。わたしは今まで『空』に至るための数々の方法を説いてきた。自己愛の自我から離れるためには自己愛の自我を客観的に観える位置に至ればよいということを弟子たちに教えて来た。また、その訓練を重ね、実際に客観的に観る事が出来る者たちも現れた。これが声聞であり縁覚なのだ。しかし、彼らは自己愛の自我を抑え込んているだけで自己愛の自我から離れたわけではない。なぜ、彼らが離れられないのかと観ると、彼らの自己愛は来世への希望と形を変えていたのだ。自己愛が残っているから、彼らは『空』に至れない。此岸に留まり続け、彼岸に渡ることができないのだ。この来世への希望を打ち砕かなければ彼らは空に至れない。これゆえ、空に至らせるための方便として阿弥陀如来の説を説いたのである。】

 

 法華経では、これをこのように説いている。

【人は誰でも、本来『空』としての自我を持っている。しかし、この自我は自己愛と言う強烈な鎧をまとい見えなくなっているのだ。根本的な本質は全て同じである。】

 

 聖書のヨハネの黙示録の意味も、これと同じである。キリスト教には原罪という考え方がある。そして、聖書自体の目的がこの原罪を払う事であり、この原罪が自己愛の自我なのだ。今の世の中は、ほとんどすべてが聖書でいう原罪の産物なのだ。ただ、聖書で言う原罪と仏典でいう自我とは少し違う。原罪は、この世の中における自己愛から生じる各種の欲望と、来世への希望の両方が含まれる。しかし、仏典の自我には自己愛から生じる各種の欲望は基本的には含まれない。なぜかと言えば、仏典で言う自我は悪癖を絶った状態を示し、人はまず悪癖を絶ち、自分の真の自我に至れと教えているからである。つまり、二乗の状態にあるものが自我であり、この自我に至ることが仏教の最初の目的ということになっているからである。

 聖書ではこの両方を原罪として切り捨てている。『罪なのだから罪から離れよ』としているのだ。つまり、聖書では仏典でいう声聞・縁覚の段階がなく、ヨハネの黙示録により直接菩薩界へと導こうとしている。なぜ、このようになるのか。聖書は間接説法、仏典は直接説法という違いあるからである。間接説法では声聞・縁覚への誘導ができないのだ。

 

 例えば、聖書では『人を殺してはならない』と記されているのだが、その言葉を人々に伝えたモーセは人を殺したとも記されている。また、『姦淫してはならない』と記されているのだが、ロトの娘たちは姦淫の中の姦淫である近親相姦により子を設けたと記されており、その娘たちも子孫も祝福を受けている。これを読んだり聞いたりしたものは、どういう状態となるのか。何が正しいのかわからなくなり悩むのだ。この悩む状態とは、修羅界を意味する。つまり、聖書を読む人々は三悪道から離れて修羅界に導かれる。全ての犯罪は三悪道の思考が具現化することにより起きる。これを修羅界にまで引き上げると、修羅界の思考の人々は犯罪を犯さなくなるのだ。

 

 イエス・キリストは権威に従わず、下々の者を同等として扱っている。このイエスの言動を知る人々は『平等』という思考概念を得る。これが人界であり、読んだり聞いたりする人々を人界に導くことができる。これが、今日の西欧民主主義・平等主義のルーツである。人々はイエスの言動から『このようにすれば良いだろう』と推察しているのだ。

 これらは一切説明されていない。しかし、この話を読んだり聞いたりする者はこのような思考を得るのだ。

 

 このように全く説明もなく、人を声聞界や縁覚界に導く事が出来るだろうか。声聞・縁覚は理論上では存在する。そして、それは説明されれば一応は分かるのだが、この感覚は『無』となる。話によって有を無と認識させることはほぼ不可能なのだ。これゆえ、間接説法の形をとる聖書では声聞・縁覚は出てこない。

 

 ヨハネの黙示録では、読む人を、裁きの地獄、火と硫黄の燃える地獄に引きずり込む。入らなくてはならなくなってしまうのだ。実際に入ると、原罪である自己愛から強制的に引き離されてしまう。つまり、これにより、読む人、聞く人を菩薩界に強引に導くことができる。このように、間接説法では二乗に導くことはできないが、菩薩界ならば可能となる。

 

 コーランは、ヨハネの黙示録により実際に火と硫黄の燃える地獄に入った者に対しての導きである。なぜ、このような導きが必要なのかと言えば、この世自体が自己愛が根本となり、自己愛により全てが定められているからである。菩薩は自己愛の自己を喪失している。つまり、この世との接点がない状態で、この世の中で生きていかなくてはならない。このために、導きが必要となるのだ。

 コーランには『悪人は火獄に堕とされる。善人は天国に召される』と何回も記されている。菩薩(ムスリム)には、この言葉は無意味であるから、無視して読んだり聞いたりする。すると、内容が良くわかるようになる。

 例えば『豚を食べるな』の豚が何を意味するのか。菩薩となっていない者たちの言動や考え方であり、このようなものたちに従ってはいけないのだなと簡単に理解できる。

 また、女とは何か。自分の境地であることもすぐにわかる。つまり女は全身を隠せとは、自分の境地である『空』を説明しようとしても無駄であるという意味なのだなと分かる。

 妻が四人の意味はおそらく分からないであろうが、この四人とは、声聞・縁覚・菩薩・仏の四境地を示す。処女とは、誰も知らない教えであり、ムスリムとなれば誰も知らない教えに至るという事もわかる。

 

 コーランはムスリムにたいしての教えである。ムスリム自体が、ヨハネの黙示録の成就者を示すので、『実際に火獄に入って復活した者ならば、その言葉をどのように感じるのか』という処に主眼があり、この主眼に基づき話はすすめられているのだ。

 

 今のイスラム教はどのようになっているのか。わたしからみると、よくわからない、意味不明の宗教となっている。コーランは簡単なのだが、イスラム教は何が何かよくわからない教えなのだ。なぜ、あのようになるのか。結局、菩薩(ムスリム)に至っていない者が、条件を無視して解釈し、その解釈を更に色々な形に捻じ曲げて出来ているのがイスラム法であり、コーランではなくそのイスラム法に従っているのがイスラム教徒という事のようだ。

 

 たとえば、日蓮正宗でも【仏は日蓮、法は南無妙法蓮華経、僧は日興】などと言っている。すると、今の世は日蓮仏の正法時代という事となる。ここから話を始めるので、何が何かさっぱりわからない教えとなる。釈迦如来も日蓮如来も『今は末法』と宣言されている。末法とは何か、仏がいないから末法なのだ。仏がいないとは、『仏の元で修業する僧もいない。仏の信者もいない』はずなのに、どういうわけか僧???がおり、信徒???がいる。誰が僧としてふさわしいのか、誰が信徒としてふさわしいのかともめる始末。ここから、『僧はこうあらねばならない。信徒はこうあらねばならない』と、数々の決まりを設け、その決まりを守るのが正しいとしていくと、『何が何かさっぱりわからない』状態となっていく。本筋から離れた意味不明の宗教となっていくのだ。そこから出てきたものを『ああしろ』『こうしろ』と言えば、『正しいのはこちらだ』『いや、正しいのはこちらだ』という争いとなっている。

 これと同じようになっているのが今のイスラム教の実体であろう。根本が完全に間違っており、その間違った根本から派生したものに対して、その正邪を論じているのだ。これを根本から見ると、何を言っているのか理解不能となる。つまり、正も邪も全てが間違いなのだ。

 

 余談となるが、日蓮如来は『末法では余経も法華経も栓はなし、唯、南無妙法蓮華経ばかりなり』と語られている。この言葉の意味は、この言葉の文証が分かれば誰でも分かるはずである。この言葉の文証は、法華経に明記されている。

 

 法華経に於いて、菩薩衆が、『我々が末法の弘通をいたしましょう』と申し出た時、文殊が『それは不可能でしょう』と、その理由を語っている。この理由を要約すると

【法華経とは、人々を仏界に導くための経である。菩薩が仏となるためには、仏のもとで何世代も何世代も修行しなくてはならない。しかし、末法に於いてはその仏が存在しない。人々を仏に導くためには、自分自身が仏界に至っていなくてはならないのだが、菩薩衆は今だ仏界に至っておらず、仏界に至るための修行もできないのが末法なのだ。自分の修行すらできない末法で、どのようにして人々を仏にすることができるというのか】

と、不可能な理由を語っている。

 これにたいして釈迦如来は、『わたしはあなた方を用いない。』と語られて、地湧の菩薩を召喚されている。では、地湧の菩薩とはどういう者たちなのか。仏としての特質をすべて備えている者たちであるのだが、それでも菩薩と記されている。なぜ、菩薩なのか。仏であれば率いているはずの菩薩・阿羅漢・信徒たちが全くいないのだ。仏のみの大集団が地湧の菩薩なのだ。

 これが意味することは、『末法に於いて法華経を流布する者は、既に仏となった者のみ』ということであり、法華経を含めた全ての経典の目標が成仏であるので、末法に於いて法華経を流布する者は既に仏となった者であるから、全ての経典の成就者ということになる。これが『余経も法華経も栓はなし』の文証である。

 ただ、この場合条件が一つだけある。『法華経が正しいのならば』という条件が付くのだ。『わたしは法華経が正しいと全身全霊で信じる』ということが『南無妙法蓮華経』であり、これが『末法では余経も法華経も栓はなし、唯、南無妙法蓮華経ばかりなり』の文証である。

 

 ここから、御本尊の意味も出てくる。中央に記されている南無妙法蓮華経は、南無妙法蓮華経と唱える本人を示す。つまり、あなた自身なのだ。周囲に書かれている日蓮も、諸天善神も、悪神も、全てが『あなた自身が仏である』との宣言は正しいと保証する証人という意味となる。つまり、末法に於いて『南無妙法蓮華経』と唱えることは、『わたしこそ本仏である。わたしこそが本仏である』と宣言し続ける意味となる。

 つまり、仏教の全ての経典の究極の目的を『南無妙法蓮華経』の七文字に集約されたのが日蓮如来なのだ。

 

 

 

 さて、本題に戻ろう。キリスト教もイスラム教もその要の経典はヨハネの黙示録という事となる。このことはコーランにも明記され、モルモン経にも明記されている。聖書系列の全ての教えがヨハネの黙示録に集約されるのだ。

 

 では、ヨハネの黙示録の中の要はどこになるのか。実は、第四章~五章前半に要がある。このヨハネの黙示録の要を図式化すると、これが日蓮如来が示された御本尊となる。また、これを補填するように、ヨハネの黙示録には予言の要素が入っている。時は1260年・・・これは立正安国論が提示された時である。場所は東方。音はアーメンハレルヤ、『アーメン・ハ・レ・ル・ヤ』とハレルヤの言葉を一言づつ発すれば、南無妙法蓮華経の音となる。聖書では、仏は天地創造の神ヤハウェとして示されている。

 

 つまり、『アーメン・ハ・レ・ル・ヤ』の意味は、『わたしこそが天地の創造主ヤハウェである』という宣言であり、それを保証する証人が、御本尊の周囲に描かれている者たちという意味となる。

 

 これらの事を明かすのはわたしヤハウェである。そして、あなた自身が真の天地の創造主ヤハウェであるという宣言、すなわち南無妙法蓮華経を正しいと保証するのがわたしヤハウェであり、わたしヤハウェの万軍である。

 

 日蓮正宗は、この御本尊を今の世に伝えるためだけの存在である。御本尊自体は仏教のものでも、キリスト教のものでも、イスラム教のものでもない。このため、もし、彼らが御本尊を欲するのならば無償で分け与えなくてはならない。今は有償としているようだが、これは必ず無償でなくてはならない。

 

 南無妙法蓮華経の文字は変えてはならない。また、ご本尊の姿は日蓮如来が記されたそのままであるべきだが、音は『アーメン・ハ・レ・ル・ヤ』に変更すべきである。これは、聖書との合掌の意味であり、コーランとの合掌の意味でもある。