わたしはなぜ信徒を求めないのか

 (妙法蓮華経。陀羅尼品第二十六。

  妙法蓮華経。妙荘厳王本事品第二十七)

 

 わたしのことを知る者は、ほんの僅かである。なぜならば、このブログでしかヤハウェと名乗っておらず、ここを訪れる方々しか、わたしが何を言っているのか正確に知る人はいないからである。確かに、各国の大使館や日本政府にもヤハウェと名乗り文書を送付してはいる。もし、彼らが『これは大ごとだ』と思うのならば、彼らもこのブログを見るはずである。

 

 創価学会のように、宗教組織をつくり人々に教えを広めた方が良いのではないかと思われる方もいると思う。しかし、人から人への伝言ゲームで何が伝わるのであろうか。たとえ、文書を書き残したとしても、現実にコーランからイスラム教という、どこをどのように読めばあのような解釈となるのか理解不能な組織も出来上がっている。また、キリスト教とは名乗るが、イエスの行動とはかけ離れた行動を平気でしている者たちも当たり前のように出てきている。また、明らかに日蓮如来の御遺訓に違反しているのに、どこからどのように出てきたのか分からぬような『平和』などという文言を掲げ、『師弟の絆こそ大事』などと語り『依法不依人』の原則すら破ろうとしている大バカ者どももいる。

 

 これらの教えは全てその依経に違反しているのだが、人々はこれが正しいと支持しており、そこから離れようとはしない。自分の依経を読みさえすれば、間違っている事に全員が気づくのが当たり前なのに、簡単に騙され、誰一人として気づきもしない。これが現実の姿である。

 

 わたしがいくら詳細に書き記したとしても、必ずこのようになるのが目に見えている。また、言葉の意味は時代によって変化する。変化するから一切法即空なのであり、同じ文章であっても、その意味も変わっていってしまう。わずか、数百年程度であったとしても、人に頼る限りは、正確に伝えることは不可能なのだ。わたしは、数千年は伝えたいのだ。なぜならば、わたしが引き受けているのは、西暦一万年までの人類だからである。この期間、もし人が滅びの道を選ぶのならば、わたしが人類を滅ぼす。しかし、もし人が存続を望み滅びを避けようとしているのに、わたしが語っている事が正確に伝わらなかったとすれば、滅ぼすべきなのか、それとも存続させるべきなのか。

 

 人を集めて、教えを継承しようとしても千年の継承すら不可能なのだ。最初から不可能な事が分かっているのに、どうして人を集める必要があるのか。

 

 釈迦如来は、人々に妙法蓮華経を授けられ、時空を超えて存在する者たちが、妙法蓮華経を保つ者を守護することを誓った。これが陀羅尼品や妙荘厳王本事品である。

 

 日蓮如来は、導くのはあくまでも人であるからと、すべてを南無妙法蓮華経の七文字に集約され、南無妙法蓮華経の七文字だけであれば間違えないであろうと、この七文字を人々に授けられた。

 

 わたしは、人を導くのに人では時空を超えられないゆえに、人には何も託さない。また、人にその責務も負わせない。その代わり眷属を各人に付かせ『人を導け』と命じる。(実際には、命じなくてもそのように動くし、わたしが命じたと言うわけでもないのだが・・・)

 

 しかし、主体者はあくまでも人自身である。このため、人が滅びを選択する自由も、存続を選択する自由も残しておく。

 

 教えはするが強制はしない。正確に教えるために、わたしはわたしの眷属、すなわち万軍を人一人ひとりにつけるのだ。

 

 このため、滅びを選択する自由は常にある。世は存続させたいが自分は滅びたいと言うのであれば、その者は滅びを選択することができる。ただし、自分は存続したいが世は滅ぼしたいと言う希望は選択不能となる。なぜならば、世の滅びと共に自分も滅ぶからである。

 

 わたしの万軍が、あなた方一人ひとりに教えるであろう。これが、人が存続を選択する限り、わたしがあなた方と交わす新たな契約である。この契約は、西暦一万年まで有効である。