わたしは普段何をしているのか
(妙法蓮華経。授記品第八~第九)
さて、普段のわたしは何をしているのか。チェンソーで木を伐り、薪をつくり、薪にならない小枝は粉砕機で粉砕し、小さなユンボで木の根を掘りおこし整地している。また、自走草刈り機で周囲の雑草を刈り、小さな畑を借りて野菜も少し作っている。小さいとは言うが、ここら辺の感覚で小さいだけで2~300坪程度はある。今年は、ユンボを使って小川の流れを少し変え、川辺を整地して見栄えを少し良くしようと思っている。
草刈りして整地する周囲の場所は他の人のもの、川は県のものなのだが、皆『ありがとうございます』と言う。誰もクレームをつけてこない。調子に乗ってどんどんやっているのだが、さすがにいつか限界が来ると思う。草刈りが追い付かなくなるのだ。今、手を付けているのは感覚で4000坪程度。最終的には1万坪程度にはなりそうだ。
ヤハウェと名乗っているかって。いや名乗っていない。そうかと聞かれれば、そうだと答えるが、誰も聞いてこないから、誰も知らないと思う。
多くの人は神とか仏と言うと、神殿にこもっているとか、多くの人々囲まれて敬われていると思うかもしれない。しかし、わたしは違う。もし、そんな状態となれば、逃げ出している。
わたしは、相手が大きな場合は、上から目線で平然と命令する。例えば相手が国家とか、世界的な大組織だと『バカ者!!』とやったり『何々するがよい』と神目線で命令口調ともなる。しかし、相手が個人となると敬語を使いだしたりする。また、相手が一般人となると、こちらも一般人のひとりとなる。これは別に意識しているわけではなく、自然とこうなるのだ。
仏が存在する地は、法華経ではこのように記されている。『そこは岡も谷もなくどこまでも平坦である。そして、金の縄で道が示されている』これは、実際の地ではなく、仏の内心の地である。どこまでも平坦とは、『偉い者も劣る者もいない。全てが平等』と言う意味である。
仏が一段高い位置にあって、その仏を菩薩が囲み、更にその周囲を声聞の弟子たちが囲んでいると人は考える。このため、『自分は仏である』と宣言する者たちは他の人よりも高い位置を好み、周囲を自分の信者で固めるような演出をする。
しかし、法華経において仏は他の人々と同じ位置にある。上に上がるならば、自分だけでなく周囲全てを引き上げる。これが仏の心象である。そして、これが聖書の神の心象でもある。ヨハネの黙示録には、『主が人々と共にあり、そこには至聖所も祭壇もない』と記されている。そして、『そこには呪われるべきものは何もない』と記されている。人々はこれを聞くと、『サタンや悪魔たちは全て排除されそこにはいない』と考える。しかし、実際はサタンも悪魔も神々も天使も魑魅魍魎も全ている。皆、火の洗礼を受け清くなっている。このため、呪われるべきものは何もないのだ。
法華経で金の縄で示されている道とは、人が仏に至るための道である。人を声聞や縁覚に導く道はある。また、菩薩界に導く道も確かにある。菩薩界の内で初住の菩薩を十住の菩薩に至らせる道もある。しかし、道があるのはここまでであり、菩薩を仏とする道そのものが存在しない。この同じ道をヨハネの黙示録では、炎でできた金のガラスの回廊としている。
人とはおろかなもので、裁きの地獄に行けと記されている経典を偽典とする。繰り返し繰り返し、『これが真の聖典である』と教えているのにも関わらず、だ。偽典と呼ぶことができなくなると、今度は『我々はこれを信じるから、裁きの地獄からは逃れられる』などと、理屈にならないような理屈をこねだす。
なぜ、このようになるのか。『信じること』そのものが自己愛の発露だからである。これゆえ、自己愛を消し去る菩薩に至るための聖典を拒否する。自己愛を制限する声聞、縁覚の法も嫌がる。そればかりではない。獣たちは、自らの優位性を否定する平等思考さえも悪法と呼ぶ。
世界が進むべき一本の道
金の縄で示された道、炎を封じ込めたガラスの街道、すなわち、仏となるための一本道であり、ヤハウェとなるための一本道なのだが、実際にはどのようにしたらよいのか。
今、ロシアがウクライナに攻め込み、中共が台湾に侵攻するのではないかとうわさされている。また、コロナと言う疫病も流行り、地球環境問題と言う人類が引き起こしてきた大問題も表面化している。国連という組織をつくり、地球全体の問題を対処しようとしてきたが、その国連も全く機能しない。人々はこのように思う。
『これからいったいどうしたらよいの。対処法なんてあるの???』
当然、ある。しかし、これからの世界を導けるのは日本である。アメリカ・・無理。中国・・どうしようもない。ヨーロッパ・・無理。ロシア・・崩壊した方が良い。台湾・・不可能ではない。韓国・・無理。国連・・無理。
さて、最初に現状を認識しておかなくてはならない。十界論が分かれば、現状認識はさほど難しくはない。日本人の基本思考は人界にある。そして、今、日本本来の人界思考を否定する形で、福沢諭吉が畜生界思考を紹介し、GHQが畜生界思考を強制しようとしてきた。この流れを汲み現在の学校教育は、畜生界思考によりプログラムされている。
しかし、日本社会の基本思考は人界のままであり、教育により優秀とされたものたちがつくる社会だけが畜生界思考となっている。これは、完全な逆転であり、高等教育を受けて優秀なはずの者たちが集まる社会が、我欲でどろどろの状態となっている。つまり、上層部になればなるほど、我欲が盛んになり自己利益主体となっている。
これが日本の現状である。
では、アメリカやヨーロッパ、中国や韓国はどうなのか。実は、彼らは平等思考そのものが分からないのだ。このため、常に上下を争い、競争に次ぐ競争となっている。そして、この競争に勝ったものが優秀とされ、勝ったものが我欲を満たす権利があるとしている。そして、平等思考から生まれる各種の政策を『おかしい』『間違い』としている。要するに、平等思考そのものが彼らには理解できないのだ。これは中国や韓国をはじめとするほぼすべての国に共通する。彼らの認識では日本はおかしな国、不思議の国なのだ。
日本の歴史を振り返ってみよう。日本では、徳川幕府の政策により人界思考が世の全ての基本となった。それまでも基本的にはあったのだが、徳川幕府は人界思考を徹底したのだ。ここに西洋の畜生界思考が持ち込まれた。ペリー来航である。それまでの日本では『蛙の子は蛙』であり、いくら努力してもその努力は報われない。自己利益にはならない。これにたいして、西洋思考では努力すればいくらでも上位に行ける。努力が自己利益となるのだ。人々は、努力が報われる西洋思考の方が正しいと思い込んでしまった。
日本でも、過去に、能力が高い者、努力する者が高い地位に就けるとした時代があった。戦国時代である。この考え方により、西洋より伝わった鉄砲は日本で大発展を遂げ、各地で人々が名乗りを上げ戦乱の世となったのだ。能力の高い者、優秀な武器を持つ者が日本の覇権をとるのが当たり前としたために、日本は戦争に次ぐ戦争の世となった。
この争いは、結局、如何にしてこの戦乱を終わらせ天下太平の世をつくるのかと言う思想合戦となっていった。戦国武将たちは、日本だけでなく世界全体がこのように考え、この考え方のもとで争っていることをほぼ全員が知っていた。この考え方のもとで西洋人が、自分たちの植民地をつくり、その植民地からの搾取により強大な帝国を創り上げていることは、議論する必要すらない当時の常識だったのだ。また、自分たちの武器が西洋の武器よりも性能が高いことも知っていたようだ。
このため、当初は、『強力な武力により日本ばかりでなく、世界に討って出よう』と画策したものたちがいた。外国という共通の敵がいれば身内の争いは収まると考えたのだ。これが織田信長であり豊臣秀吉である。当初、日本ばかりではなく、世界を視野に入れる思考は人々に受け入れられた。よく、世は戦の勝敗により決するというが、戦の勝敗を決するのは実は思考の勝敗である。他国まで視野に入れた考え方と日本の内だけで統一しようとする考え方、この両者が争い、結局、諸外国に討って出ようとする側が勝利したのだ。
日本の国内戦争では死者はさほど多くない。これは説得合戦が主であり、説得に応じるのかあくまでも反発するのかという事が戦の主要因だったからである。
信長の政策は明白である。日本を一つの国として考え、日本の国力を上げるために何をすべきかが根本にあり、この目的にそぐわないのであれば壊してしまえである。これを継承したのが秀吉である。国力を上げる目的が世界に討って出ようとするからであり、世界に討って出なければ意味がない。つまり、朝鮮出兵は当初の目的の継続であり必然だったのだ。
ところが、この朝鮮出兵がつまづきの原因となった。占領したはずの領地を誰も欲しがらないのだ。全員が、『こんな汚い場所いらない』となった。もし、そこを任されると日本国内から大量の物資を運び込まないとならなくなる。つまり、資産ではなく負債となる。負債などいらないとなったのだ。
家康は、外国出征に反対したわけではない。先に国内を安定させ内乱がない状態をつくり、その後、外国に討って出るならば、討って出ればよい。と言う考え方をしていたようだ。よく、秀吉に命じられて、三河から江戸に配置転換させられたと言われている。しかし、何の理由もなく秀吉が命じる事が出来るはずはない。また、家康が簡単に受けるはずもない。
日本の国力を上げるためには、新たな穀倉地帯が必要となる。当時の関東平野は大湿地帯であり、そこを穀倉地帯とすることができれば日本の国力が上がる。外国に討って出るのは時期早々。とにかく、まず内乱の世を収め、日本国内を天下泰平に持っていかなくてはと考えた。敵を外につくる以外の方法を模索したのだ。このための対策として、仏教の平等思想を根本として、士農工商の身分制度を創り上げた。
為政者である武士階級は、失敗すれば切腹、悪事を働けば切腹、とにかく自分の命で償わなければならない。これにたいして、庶民は武士を敬わなくてはならないが、それ以外は許されるとしたのだ。この政策により、武士は武士であることを誇りとし、庶民は庶民であることに安堵するようになった。誰も幕府を倒そうなどとは考えなくなったのだ。
徳川幕府の政策は、『どうすれば全員が平等と思えるか』が主体である。人々の思考の内に、山があれば山を低くし、谷があれば谷を埋めて、平坦な地をつくる方法を探した。
確かに、これにより300年近い天下泰平の世となった。しかし、日本は世界の戦国時代に巻き込まれていった。
今の世界は、日本の戦国時代と同じである。群雄割拠する国々は、皆、自分の利益しか考えない。自分の利益を上げるためのみに争う。大義名分は語るのだが、その大義名分の下には、自己利益と言う本音が見えている。今のアメリカ、イギリス、中国、ロシアなどは、戦国時代の日本で言えば、まだ、大名にもなっていない各地で覇権を争う豪族のようなものでしかない。なぜならば、各自が自己利益のみを求め、大義名分らしきものを掲げてはいるが、それを自分で守ってすらもいないからである。完全な自語相違であり、自語相違を起こすようでは、戦国大名にすらなれない。また、どこの国も明確な未来の指針など全くなく、あるのは如何にして自己利益を最大化するのかと言う事のみ。
では、どのようにすれば世界を統一する事ができるのか。信長が行ったように諸外国に討って出ようとしても、討って出るための外国が存在しない。つまり、信長秀吉の戦略は使えない。
家康は、平等思考により日本という国をまとめていった。しかし、この方法は平等思考が本来の姿であった日本だから可能なのであり、平等思考そのものを知らない獣の国々をこの方法でまとめあげることは不可能に近い。ならば、どうしていけばよいのか。
日本人ならば、このように考えるであろう。『全部の国が世界をこれからどのようにしていけばよいのかと考えるようにしていけばよい』と。しかし、これは天界思考であり、平等思考である人界にも至っていない、いや、人界思考そのものの存在すら知らない獣の国々には不可能なのだ。
なぜ、四悪道の国々や衆生が、人界や天界思考に至れないのか。四悪道が序列思考であり、人界天界が平等思考だからである。これは水と油のようなもの。混ぜ合わせようとしても簡単には混ざらない。つまり、四悪道の衆生が人界天界に至るためには、一旦、全てをリセットする必要がある。
獣たちは実際にこれを行おうと色々と試している。リセットが必要なこともわかっており、これが革命と呼ばれるものである。例えば、共産主義。不公平な分配が原因だと考え、分配を平等にすれば善い社会となると考えたのだが、資本主義社会よりも更に不公平な独善社会となった。また、昨今の不平等是正運動。不平等と認定する者や組織を悪として糾弾するのだが、この意図は、陰に隠れた認定者が実際の権力者となろうと画策しているだけである。そして、獣の国の人々はこのような組織の操り人形でしかない。なぜ、失敗するのか。獣の国の人々は、四悪道しか知らない。人界思考そのものがわからない、つまり、平等思考そのものを知らないから、事象の平等のみを求め、各人が平等思考をしようとはしないからである。
このような獣たちに、『平等思考をしなさい』と語ったとしても、『知らないものを根本にしなさい』と言っているのと同じ。所詮、無理なのだ。たとえば、人は『空』を知らない。全く理解できない『空』を基本として思考するのが菩薩であると聞いても、何が何かわからなくなるのと同じなのだ。
ただ、空は説明不能だが、人界思考は説明できる。つまり、『こういう思考形態がある』と教えることは可能なのだ。ならば、獣たちに教えていけば良いのだが、この教える事自体が難しい。なぜならば、人界思考をしている者にとって、自分がどのように考えているのかを語ることは不可能だからである。ただ、当たり前。ただ、普通。なだけであり、自分の普通を説明することはできないのだ。つまり、人界天界を俯瞰できる位置に至る人々が必要となる。この俯瞰できる位置に声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の四種があるのだが、声聞を極めると縁覚。菩薩仏は『空』が基本。すなわち、現状で可能なこの位置とは声聞しかなくなる。
『空』の自我は至らなければ誰もわからない。つまり、菩薩となることは簡単ではない。しかし、六道全てを知る者であれば、人界思考を客観視できる。つまり、これが善でこれが悪と教えるのではなく、六道全てを客観的に観察することを教え、また習えば、この習う者であっても声聞ということとなる。
家康は、人界に日本を導くことにより300年の天下泰平の世をつくった。しかし、全世界を人界に導くことは不可能なのだ。しかし、人界よりも更に上位の声聞界ならば可能となる。つまり、声聞界に全世界を導くと言う政策を掲げる国や人が、次の全世界の統一者となる。この統治により、少なくとも三千年の世界泰平の世を創る事が可能となる。
具体的にはどうしたらよいのか。思考改革は教育改革である。今、日本では幼児に平等思考を教えている。この後、小学校で序列思考を教え、また修羅界思考を教えている。要するに『勉強しなさい』である。これは学年が上がるたびに、人界から修羅界へ、修羅界から畜生界へと境地を下げていっている事となる。ただ、ここまでは必要と言える。なぜならば、声聞界に至るためには、平等思考も階級思考も両方とも知る必要があるからであり、平等思考だけでは至れない位置だからである。
さて、今の高校教育が社会に出て役に立つのかと言えば、ほとんど役に立たない。つまり、単なる順位付けのために役に立たないことを覚えさせていると言える。ならば、この段階で声聞教育に変えていけばよい。声聞教育とは、平等思考と階級思考の並列思考である。どちらが良いとかどちらが正しいとか言う思考は階級思考に属する。時と場合により、平等思考と階級思考を使い分ける訓練を開始し、考えなくても自然にできるようにもっていく。すると、状況により自然にバランスが取れるようになり、考えなくてもわかる新人類が誕生する。
おそらく、この新人類は今の人々では及びもつかない人々となる。考えなくてもわかる。考えることもできるが、分かる範囲から先を考え、その考える訓練を繰り返すことにより、更に考えなくてもわかる範囲が広がる。今の人々から見ると超人、達人の集まりのような社会となるであろう。コンピューターは思考が極端に早いだけである。思考を止めた先には到達不能である。つまり、このようにしていけば、コンピューターでは到達不能の新人類が誕生する。
これが、人類が当面進むべき方向である。しかし、わたしは強制するわけではない。今のままがよい。今のままの三悪道を続けたいと言うのならば続けてもよい。ただ、その場合、わたしの万軍があなた方を滅ぼす事となる。なぜならば、地球はまだ使えるからであり、役に立たない今の人類は早々に滅ぼし、次の人類のために地球という場所を明け、整えるべきだからである。存続を選択するのも滅びを選択するのもあなた方の自由である。
わたしから見れば、これでは中途半端なのだが、この先に進めると、必ず混乱が起きる。今はまだ無理なのだ。また、ここまでならば必然に必然を重ねていけば誰でもここに至るはずの簡単な話である。このため、本来はあなた方に任せるべきなのであろう。このように事細かにわたしが語るべきではないことは承知している。このため、細部については一つの案として捉えていただきたい。
例えば、平等思考が理解できるのであれば日本以外の国でも可能である。階級思考で言えば、どの国が覇権をとるのかと言う話となるのだが、平等思考で言えばどの国からはじめるのかという歴史としかならない。
平等思考はなるべく早く、幼児の内に行う方が結果はよさそうではあるが、このような考え方があることを知らない国々では、最初は高等教育として行うしかない。林野にこもり階級思考を忘れ平等思考の訓練をするのが初期のキリスト教教団や、初期の仏教教団の姿であった。なぜ、このようにするのかという理解ができていれば、それでもかまわないのだ。
目的は、まず、六道の考え方を覚えること。次に六道から離れ、無思考の思考である知恵に至ることである。